軍事革命委員会
1917年10月10日(ユリウス暦)、ボリシェヴィキの中央委員会は投票を行い、10対2で「武装蜂起はもはや避けられず、その期は十分に熟した」という宣言を採択した。ペトログラード・ソビエトは10月12日(ユリウス暦)に軍事革命委員会を設置した。これは元々はペトログラードの防衛を目的としてメンシェヴィキが提案したものだったが、武装蜂起のための機関を必要としていたボリシェヴィキは賛成した。トロツキーは「われわれは、権力奪取のための司令部を準備している、と言われている。われわれはこのことを隠しはしない」と演説し、あからさまに武装蜂起の方針を認めた。彼は権力掌握を承認させるために、10月25日(ユリウス暦)に開会する予定の第二回全国ソビエト大会の時期に合わせて蜂起することを主張した。メンシェヴィキは軍事革命委員会への参加を拒否し、委員会の構成メンバーはボリシェヴィキ48名、エスエル左派(社会革命党左派)14名、無政府主義者4名となった。
前後して軍の各部隊が次々にペトログラード・ソビエトに対する支持を表明し、臨時政府ではなくソビエトの指示に従うことを決めた。
10月25日
防護巡洋艦アヴローラ(オーロラ)、1917年撮影
『冬宮への突入』、1920年の再現群像劇
10月23日(グレゴリオ暦の11月5日)、ボリシェヴィキの指導者の一人でエストニア人のヤーン・アンヴェルト(Jaan Anvelt)は、革命後に創設されたエストニア自治政府の首都タリンで左翼革命勢力を率いて武装蜂起を開始した。10月24日、最後の反撃を試みた臨時政府は、忠実な部隊によってボリシェヴィキの新聞『ラボーチー・プーチ』『ソルダート』の印刷所を占拠したが、軍事革命委員会はこれを引き金として武力行動を開始した。
これに対する抵抗は少なく、赤衛隊はほぼ流血なしでペトログラードの印刷所、郵便局、発電所、銀行などの要所を制圧し、10月25日(グレゴリオ暦の11月7日)に「臨時政府は打倒された。国家権力は、ペトログラード労兵ソビエトの機関であり、ペトログラードのプロレタリアートと守備軍の先頭に立つ軍事革命委員会に移った」と宣言した。
臨時政府の閣僚が残る冬宮に対する占領は25日午後9時45分、防護巡洋艦アヴローラの砲撃を合図に、ウラジーミル・アントーノフ=オフセーエンコ率いる部隊が進入して始まった。冬宮はコサックや士官学校生、女性部隊により防衛されていたが、ほとんど抵抗らしき抵抗はなく、26日未明の午前2時ごろに占領された。なすすべなく会議を続けていた閣僚たちは逮捕され、ケレンスキーは冬宮を脱出し最終的に国外へ逃れた[5]。
十月革命の公式な日付は冬宮を除くすべての政府機関が占領された10月25日(グレゴリオ暦11月7日)とされている。後に、10月25日から26にかけての出来事はソ連政府によって実際よりも劇的に描かれるようになった。イギリスのペトログラード駐在武官アルフレッド・ノックスは冬宮の守備が体をなしておらず、ほぼ無抵抗で占領された様を目撃して書き残しているが[6]、1920年に革命3周年を記念して冬宮で上演された歴史再現群衆劇『冬宮への突入』では、冬宮占領の様はドラマチックに描かれている。以後、セルゲイ・エイゼンシュテインの映画『十月』(1928年)など十月革命を描いた作品でも「冬宮突入」は革命のクライマックスとされ、激しい戦闘の末に冬宮が制圧された、という描き方がなされている。
第二回ソビエト大会
蜂起の最中、予定通り第二回全国労働者・兵士・農民代表ソビエト大会が開かれた。投票によって選ばれた670人の評議員のうち、300人ほどがボリシェヴィキであり、残りのうち100人近くがケレンスキー政府の転覆と革命政権樹立を支持した社会革命党左派(エスエル左派)であった。冬宮占領を待ち、大会は権力のソビエトへの移行を宣言した。こうして革命は承認された。
しかしソビエトへの権力移行には反対勢力もあった。ソビエト大会評議員のうち、社会革命党(エスエル)の右派と中道派、およびメンシェヴィキは、レーニンとボリシェヴィキがクーデターを起こして不法に権力を奪取し、専制を強め、ソビエトの決議が通る前にすでに先に物事を決めてしまっていると責めた。ボリシェヴィキに抵抗する彼らにトロツキーは「おまえたちは破産した。おまえたちの役割は終わった。おまえたちはこれから歴史のごみ箱行きだ」となじった。
10月27日、第二回ソビエト大会は、臨時政府に代わる新しいロシア政府として、レーニンを議長とする「人民委員会議」(Совет народных коммиссаров、略してソヴナルコム)を設立した。大会は全交戦国に無併合・無賠償の講和を提案する「平和に関する布告」、農民ソビエトに貴族・教会など地主から土地を没収し再分配する権限を与えることを宣言する「土地に関する布告」を採択した。ボリシェヴィキは工業を復興させ都市と農村の間で商品が円滑に交換されることを目指しており、農民の支持を必須のものとしていた。彼らは自らを労働者と農民の同盟を代表するとみなした。この観念は、鎌とハンマーをあしらったソビエト連邦の国旗や国章に表れている。
さらに大会は次のような布告を行った。すなわち、ロシアのすべての銀行の国有化、工場の管理権限を労働者ソビエトへ与える「労働者統制」、銀行口座の押収、教会資産の没収、戦時中の労働賃金を上回る賃金への固定、ロシア帝国および臨時政府が負った債務の一方的破棄、ポーランドとフィンランドの独立への約束である。
ソビエト権力の確立
冬宮から逃亡したケレンスキーは、プスコフで騎兵第3軍団長ピョートル・クラスノフの協力をとりつけ、その軍によって10月27日にペトログラードへの反攻を開始した。ペトログラード市内でもエスエルやメンシェヴィキを中心に「祖国と革命救済委員会」がつくられ、10月29日に士官学校生らが反乱を開始した。しかし反乱はその日のうちに鎮圧され、ケレンスキー・クラスノフ軍も翌日の戦闘で敗れた。
モスクワでは10月25日にソビエト政府を支持する軍事革命委員会が設立され、26日には臨時政府の側に立つ社会保安委員会がつくられた。10月27日に双方の武力衝突が起こり、当初は社会保安委員会側が優勢だったが、周辺地域から軍事革命委員会側を支持する援軍が到着して形勢が逆転した。11月2日に社会保安委員会は屈服して和平協定に応じた。軍事革命委員会は11月3日にソビエト権力の樹立を宣言した。
ボリシェヴィキとともに武装蜂起に参加した社会革命党左派は、11月に党中央により除名処分を受け、左翼社会革命党として独立した。左翼社会革命党はボリシェヴィキからの入閣要請に応じ、12月9日に両者の連立政府が成立した。
ボリシェヴィキ主導の権力奪取は、ロシア帝国の他の部分でも徐々に進んだ。ヨーロッパ・ロシアの北部と中部ではソビエトへの移行が進み、モスクワやロシア南部では戦闘が起こったものの短期間のうちに収束した。1918年初頭までには各都市はソビエトの支配下に置かれている。しかしロシア人以外の民族が多数派を占める地域では、二月革命の後に相次いで独立宣言を行ったり独立への動きを見せていたためソビエトへの移行は進まなかった。例えばウクライナでは、ウクライナ中央ラーダが1917年6月23日に自治を宣言し、11月20日には中央ラーダは臨時政府のロシアとの連邦を前提とするウクライナ人民共和国の創立を宣言した。これはペトログラードのボリシェヴィキ政府(ソヴナルコム)と対立を深め、12月の赤軍のウクライナ侵攻を発端に全面的な武力衝突へと至り、1918年1月25日にはウクライナはついにロシアからの独立を宣言した。エストニアでは1917年11月28日に議会が独立を宣言した。ヤーン・アンヴェルトのボリシェヴィキ派勢力は12月8日にレーニンのソヴナルコム政府を承認したが、その勢力は首都タリンの周囲しか把握していなかった。アゼルバイジャンのバクー・コミューンはソヴナルコムに従ったが、これはロシアの非ロシア人地域の中では稀な例であった。
その後
革命40周年記念切手、1957年
「十月革命」の成功は、ロシアを議院内閣制の国から社会主義国へと変貌させることになった。新政府は、ロシア国内の反ボリシェヴィキ勢力や、ロシア革命に介入した国々との戦争(ロシア内戦)を1918年から1922年まで続けた。ボリシェヴィキは「平和についての布告」やロシア帝国政府と列強諸国との秘密条約の暴露などをきっかけにヨーロッパ全土で反政府運動が起き、欧州大戦から一転して欧州社会主義革命に進むことを期待したが、ロシアに続いて社会主義の友邦になる国はヨーロッパには現れず、周囲を敵対国に囲まれることになった。ボリシェヴィキが進めた共産主義化・計画経済化(「戦時共産主義」)は、内戦の混乱や諸外国による経済封鎖ともあいまって経済の崩壊という結果に終わり、1921年に新経済政策(ネップ)が施行され軌道に乗るまで経済の混乱は収束しなかった。
アメリカ合衆国は1933年まで新政府を承認しなかった。ヨーロッパ諸国は1920年代初めにソビエト連邦を承認し始め、ネップの施行後は貿易関係が再開する。
脚注
- ^ Wade, Rex A. The Bolshevik Revolution and Russian Civil War. Wesport: Greenwod Press, 2001
- ^ Trotsky: Towards October 1879-1917 by Tony Cliff
- ^ A Concise History of the Russian Revolution by Richard Pipes
- ^ Central Committee Meeting—10 Oct 1917
- ^ J.バーナード・ハットン (著), 木村浩 (翻訳) 『スターリン―その秘められた生涯』61頁、ISBN 9784061588981
- ^ http://www.spartacus.schoolnet.co.uk/RUSknox.htm[リンク切れ]
外部リンク
- 十月革命の問題点 - 梶川伸一
- 十月革命とソヴェト政府の通貨政策 - ロシア革命の貨幣史
- The October Revolution Archive
- Let History Judge Russia’s Revolutions, commentary by Roy Medvedev, Project Syndicate, 2007
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