世界史用語解説 授業と学習のヒントappendix list

二月革命

1848年、フランスで七月王政を終わらせ第二共和政に転換させた変革。ベルリンとウィーンの三月革命を呼び起こし、一連の1848年革命によってウィーン体制を終わらせた。

 七月王政のもとで、普通選挙の要求を掲げた選挙法改正運動が強まる中、ギゾー内閣はそれを拒否続けていた。政府によって集会が禁止されたため、普通選挙を要求する人びとは改革宴会という形で運動を続けたが、政府は宴会禁止令をだして、それも取り締まろうとした。1848年2月、激昂したパリの市民、労働者が蜂起して、ルイ=フィリップを退位に追い込み、七月王政を倒し、共和政を宣言、臨時政府が成立した。
1848年革命 ウィーン体制の崩壊へ フランスに共和政を復活させた二月革命は、ただちにベルリンとウィーンに飛び火して三月革命を勃発させ、ヨーロッパ全土に及ぶ1848年革命の口火となった。その結果、ナポレオン没落後のヨーロッパの保守反動体制であるウィーン体制は崩壊した。

二月革命の経緯

パリのバリケード 1848年2月13日、改革派は政府の禁をおかして22日にパリ十二区で改革宴会を開催することを決定。……当日朝パリの労働者・学生が続々集結し、マルセイエーズとA=デュマのはやらせたという「ジロンド党員の歌」を唱いながらデモ行進、コンコルド広場からブルボン宮殿に向かい議会に示威運動を行い、バリケードを築いた。
キャプシーヌ街の惨劇 翌23日、国民衛兵の大半が民衆に共鳴して革命側に付いた。ルイ=フィリップはやむなくギゾーを罷免してモレに組閣を命じた。夜9時頃、サン=タントワヌ街で組織されたデモ隊は、赤旗をなびかせ、外務省のあるキャプシーヌ街に向けて更新を開始した。この時が労働者が赤旗を掲げた最初だとも言われている。デモ隊がキャプシーヌ街に進んでいったところ、守備にあたっていた正規軍が突如一斉射撃を加えた。この衝突で50名ほどが死亡、多くが傷を負った。激高したデモ隊は、血まみれになった若い女性の死体を松明でかざしながら、「復習だ!武器をとれ!」と叫びながらなおも進んだ。正規軍部隊はひるんで後退した。この衝突は、パリの民衆を革命側に引き寄せる決定的な転機となった。
国王一家の逃亡 24日、モレ首相は組閣を断念して辞任すると国王はティエールに組閣を命じ、ビュジョー元帥に市民蜂起の鎮圧に当たらせようとしたが、ティエールはリヨン暴動の、ビュジョーはトランスノナンの虐殺の張本人であったのでかえって民衆は激昂、民衆は武装してチュイルリー宮を襲撃した。宮殿前のシャトー=ドーの衛兵が民衆を阻止している間、国王ルイ=フィリップとその一家はからくも脱出することができたが、まもなく宮殿は民衆の手に落ち、七月王政は終わりを告げた。
臨時政府の成立 ブルジョワの支持する穏健共和派と労働者の支持する急進共和派(社会主義派と捉えることもできる)は七月王政を倒すという共通目的では一致することができ、二月革命は成功した。ブルジョア共和派(ラマルティーヌら)は『ナショナル』、急進共和派(ルイ=ブランら)は『レフォルム』とい新聞を発行し、それぞれ革命後の政権を構想した。議会ではこの段階では君主制支持であったユーゴーなどの立憲君主制派もあったが、多数で否決され、臨時政府設立が決定される。臨時政府にはラマルティーヌとルイ=ブランがともに参加し、その夜遅く、共和政を宣言した。
 二月革命によって第二共和政が成立し、臨時政府が発足した。次の課題は共和制政府の樹立と共和制憲法を制定することにあった。しかし、早くもその両派の対立は表面化した。