十月革命
![]() |
「十月革命」のその他の用法については「十月革命 (曖昧さ回避)」をご覧ください。 |
十月革命 | |
---|---|
『ボリシェヴィキ』 ボリス・クストーディエフ(1920年) |
|
種類 | 労働者や兵士らによる武装蜂起を発端として始まった革命 |
目的 | ブルジョワ臨時政府打倒 |
対象 | ロシア |
結果 | ボリシェヴィキ政権樹立 |
発生現場 | ![]() |
期間 | 1917年11月7日-1918年 |
指導者 | ウラジーミル・レーニン |
関連団体 | メンシェヴィキ |
十月革命(じゅうがつかくめい、ロシア語: Октябрьская революция、ラテン文字表記の例:Oktiabr'skaia revoliutsiia)は、ユリウス暦の1917年10月25日(現在のグレゴリオ暦の11月7日)、ロシアの首都ペトログラード(後のレニングラード、現在のサンクトペテルブルク)で起きた労働者や兵士らによる武装蜂起を発端として始まった革命。多数の労働者や兵士らを扇動した革命家らによるクーデターとも解される。ソビエト革命あるいはボリシェヴィキ革命とも。
目次
1概要
2呼称
3背景
4二月革命後のロシア政治
4.17月の蜂起の失敗
4.2コルニーロフ事件
4.3軍事革命委員会
510月25日
6第二回ソビエト大会
7ソビエト権力の確立
8その後
9脚注
10外部リンク
概要
十月革命は、ロシア社会民主労働党が分裂して形成された左派勢力ボリシェヴィキにより引き起こされた。一連のロシア革命のなかでは、ロマノフ王朝による帝政を崩壊させ共和政国家誕生へと至った二月革命に次ぐ第二段階にあたる。十月革命では、二月革命で発足した立憲民主党(カデット)主導の臨時政府が倒され、臨時政府と並存していたボリシェヴィキ主導のソビエト(労働者・農民・兵士の評議会)へと権力が集中された。これに引き続いてロシア内戦(1917年 - 1922年)が起こり、最終的には1922年に史上初の共産主義国家であるソビエト連邦が誕生する。
ボリシェヴィキはかねてから暴力による革命を主張しており、1917年10月12日、影響下にあったペトログラード・ソビエトに軍事革命委員会(Военно-революционный комитет, военревком, ВРК)を作らせて武装蜂起の準備を進めた。軍事革命委員会の指令下にあるボリシェヴィキの軍隊・赤衛隊(赤衛軍;Красная гвардия)は、1917年10月24日にペトログラードの政府施設の占拠を開始し、10月25日に軍事革命委員会が「臨時政府は打倒され軍事革命委員会に権力が移った」とする宣言を発表した。10月26日未明には臨時政府が置かれていたペトログラードの冬宮が制圧され臨時政府メンバーは逮捕された。
この当時、ロシアではユリウス暦が採用されており、現在のグレゴリオ暦と比べて日付は13日遅れている。十月革命はグレゴリオ暦によると十一月革命となるが、この記事では十月革命に統一し、日付についてもユリウス暦を用いる。
呼称
当初、この蜂起は「十月蜂起」(Октябрьский переворот)あるいは「25日の蜂起」と呼ばれていたことが、同時代の資料(レーニン全集第一版など)にみられる。やがて時間が過ぎ、ソ連の歴史上の大事件とみなされるようになるとともに「十月革命」という呼び方が使われ始めた。
ソビエト連邦における公式な呼び方は、1927年の革命十周年以後、「十月社会主義者大革命」(Великая Октябрьская социалистическая революция、Velikaya Oktyabr'skaya sotsialisticheskaya revolyutsiya)であった。
背景
ロシアで革命前に進行していた急速な工業化など社会的・経済的変化により、農業を中心にした伝統的な社会は打撃を受けて揺らぐ一方、医師・法律家・技師・ホワイトカラーといった専門家層や教育を受けた中産階級がロシア国内では台頭していた。こうした新たな市民が力を増し、生活の改善を求めたことは、革命が爆発する上での下準備となった。
第一次世界大戦もロシア社会に衝撃を与え革命の原因となった。この戦争でロシアでは戦死者が増え、工業や経済は行き詰まり、市民生活は貧窮にあえいだ。こうして市民は為政者へ怒りをぶつけ、帝政を転覆する二月革命へと至った。その後、臨時政府とソビエトが並び立つ二重権力状態が誕生し混乱が続いたが、人々は様々な政治勢力の中でも、強い指導者になりうることを証明しロシア社会の変革を約束したボリシェヴィキに対して支持をよせるようになった[1]。
二月革命後のロシア政治
7月の蜂起の失敗
二月革命で成立した臨時政府の実権は、社会革命党のドゥーマ議員でペトログラード・ソビエトの副議長にもなったアレクサンドル・ケレンスキーが握っていた。戦争に疲れ和平を求める兵士らに対し、陸軍大臣を兼務したケレンスキーは第一次世界大戦の継続を主張した。6月16日(ユリウス暦)、彼はドイツ帝国およびオーストリア・ハンガリー帝国に対してガリツィアで攻撃を開始するが(ケレンスキー攻勢(ロシア語版、ドイツ語版、英語版))、緒戦の勝利にもかかわらず兵士の士気低下で戦線は崩壊し7月2日に作戦は失敗に終わった。7月6日には逆に独軍と墺軍の反攻が始まりロシア軍は後退に追い込まれ、8月にはドイツ軍のリガ攻勢によりリガを奪われた。
この攻勢失敗をきっかけに、兵士らの戦争への不満と労働者らの飢餓や苦境への不満が爆発した。7月3日から7月7日(ユリウス暦)にかけ、ペトログラードではボリシェヴィキに率いられた労働者や兵士らが街頭へ出て臨時政府に対する蜂起を開始した。ペトログラード沖合の海軍基地の島クロンシュタットからは水兵20,000人ほどが武装してペトログラードへと行進し、ソビエトへの権力集中を求めた。ペトログラードとモスクワの労働者らも蜂起し事態は大きくなった。ペトログラードでは市街戦が起こったが、臨時政府は軍を指揮して蜂起を鎮圧した。
この蜂起の後、臨時政府はボリシェヴィキが反乱を煽ったと非難し、ウラジーミル・レーニンやグリゴリー・ジノヴィエフを含むボリシェヴィキの指導者は逮捕を避けるために潜伏を強いられ、一時的にボリシェヴィキの勢力は後退した。7月から8月にかけてボリシェヴィキは準合法的な活動に終始したが、ロシア政界のなかで最左翼にあるという政治的位置はますます強固なものとなった。社会民主労働党のうち過激な反戦派が1917年初頭に結成したメジライオンツィ (地区連合派、межрайонцы、Mezhraiontsy、レフ・トロツキー、アドリフ・ヨッフェ、コンスタンチン・ユレーネフらが所属した) はボリシェヴィキと距離を置きつつ共同歩調をとっていたが、8月初めのボリシェヴィキ党大会でボリシェヴィキに統合された。メジライオンツィの指導者たち、特にトロツキーは労働者や兵士らに対して鼓舞を行っており、ヨッフェも後に「蜂起のための実際的な組織が行う活動のすべては、ペトログラード・ソビエト議長トロツキーにより指揮されるようになった」と書いている[2]。これを兵士らの圧倒的な支持を受けるトロツキーと、それを脅威に感じるスターリンとの間の権力闘争の始まりであると解釈する者もいる[3]。ヨッフェとユレーネフは後に革命路線を支持して武装蜂起の準備と実行に関わり、ボリシェヴィキのペトログラード制圧に死活的な役割を果たした。
コルニーロフ事件
8月から9月にかけてコルニーロフ事件が起こったが、これもボリシェヴィキの勢力復活に大きな役割を果たし、十月革命の触媒となった。臨時政府軍の総司令官ラーヴル・コルニーロフ将軍は、混乱する大ロシアを立て直すためにはより信頼に足る軍事指導者が必要と考えており、臨時政府とソビエトの両方に属するケレンスキーと対立しつつあった。ケレンスキーはコルニーロフを総司令官に任命したが、そのすぐ後にコルニーロフを、自ら軍事独裁を行おうとしているとして批判した。
コルニーロフが実際に独裁の陰謀をめぐらしていたかについては現在も定かでない部分が多い。コルニーロフはケレンスキーがボリシェヴィキの脅迫や強要の下で動いていると考え、全てのロシア国民に対して「死につつあるロシアの大地を守れ」と呼びかけて決起を行った。コルニーロフ将軍のクーデターに直面したケレンスキーは、臨時政府の軍人たちを信頼することができず、ボリシェヴィキの赤衛隊などの武装勢力に救援を要請し、武器まで彼らに供与した。コルニーロフのクーデターは、ボリシェヴィキの説得を受けた兵士やコサック兵らがコルニーロフを見捨てたことにより流血に至らないまま失敗に終わり、コルニーロフとその支持者ら7,000人ほどが逮捕された。
軍事革命委員会
1917年10月10日(ユリウス暦)、ボリシェヴィキの中央委員会は投票を行い、10対2で「武装蜂起はもはや避けられず、その期は十分に熟した」という宣言を採択した[4]。ペトログラード・ソビエトは10月12日(ユリウス暦)に軍事革命委員会を設置した。これは元々はペトログラードの防衛を目的としてメンシェヴィキが提案したものだったが、武装蜂起のための機関を必要としていたボリシェヴィキは賛成した。トロツキーは「われわれは、権力奪取のための司令部を準備している、と言われている。われわれはこのことを隠しはしない」と演説し、あからさまに武装蜂起の方針を認めた。彼は権力掌握を承認させるために、10月25日(ユリウス暦)に開会する予定の第二回全国ソビエト大会の時期に合わせて蜂起することを主張した。メンシェヴィキは軍事革命委員会への参加を拒否し、委員会の構成メンバーはボリシェヴィキ48名、エスエル左派(社会革命党左派)14名、無政府主義者4名となった。
前後して軍の各部隊が次々にペトログラード・ソビエトに対する支持を表明し、臨時政府ではなくソビエトの指示に従うことを決めた。