苫米地英人が語る、カネと宗教「イスラム以外の宗教は全部ビジネス」(康芳夫対談)
2016.11.30
苫「僕は仏教は宗教じゃないと思ってる。フィロソフィー(哲学)だと思ってるのね。すべてのフィロソフィーは宗教には入らないでしょう」
康「あなたは仏教徒ですか?」
苫「ぼくは仏教徒ですよ。仏教徒というか、仏教者ですよ。一応、天台(宗)で出家していますし。実家は曹洞宗なんで、天台じゃないですけどね。寺をやっていた家ではないですけれど、祖父はずっと永平寺で修行してたんです」
康「ではあなたにとって、“フィロソフィーたりうる宗教”ってのは仏教ぐらいなものだと?」
苫「仏教ぐらいだと思いますね。神を根本否定してますから。《アプリオリ(先天的、超越的)》なものがないじゃないですか。それを神と呼ぶかは別として、すべての宗教はアプリオリがある。日本神道にだってアプリオリはあるんですよ。仏教はそれが無いと断言しているから、宗教の定義に入らない。神がいたっていいんですけど、“神だってたまにおっちょこちょいだ”っていうのが仏教じゃないですか」
■公理という概念を否定する仏教
康「フィロソフィーってことをあなた今おっしゃってたけど、仏教の哲学としての根本的なプリンシプル(原理・原則)はなんなんですか?」
苫「それは《縁起》でしょうね。“縁起がいい、悪い”の縁起です」
康「縁起? ほう……」
苫「すべてのものは何かによって起きている。それだけで独立して存在するものは何もない。神がいてもいいけど、お父さん、お母さんいますよってことですよ。ほかの宗教では、神とお父さんが同時にいちゃいけないんだから、仏教は特殊ですね。
なんでも、縁によって起こることを大乗(仏教)では《空(くう)》って呼ぶわけですよ。それは元々のブッダの言葉だったら《縁起》ですよ。もちろん、未来永劫正しい、それだけで成り立つ真理はないですから、《公理》という概念を否定してるわけですよ。実際はユークリッドだって、単純な平行線定理という公理を間違いだとすると、そこから『非ユークリッド幾何学』が産まれて、そこからアインシュタインの『相対性理論』が生まれたわけですよ。だから、公理はたまに間違ってていいわけですよ。実際にユークリッド本人だって、これが正しいと要請すると言ってるだけで、公理が正しいとは言ってない」
――かなり難解な話になってきましたね……。
苫「公理ってのは要請だから、“数学的な意味で正しいと仮定しましょう”ってことなんですよ。それを高校で教える時に、“公理は証明しなくても正しいこと”って教えちゃうんです。そこが違う。“その解を成り立たせるために正しくなきゃ困ること”が公理なんです。だから、ユークリッド幾何学では二本の平行な直線は永遠に交わらないわけですよ。でも、それを外すと、どこかで交わっちゃうっていうので、曲がってる空間が想定できる」
康「それは、例えばアインシュタインが“光速が一番速い”と言ってるけど、理論物理学者の中にはね、これを完全に否定してるヤツもいるんだ。そういうことですよね」
苫「もちろん、そうです」
康「光速の百兆倍、千兆倍、速いものがあると。ということは、宇宙の果てからとっくに地球に届いてるわけだよね。それで、僕が思うのはね、光速が一番速い、それで、千兆倍、一億兆倍速いものがあるなんてことを言って、なにか意味があるのかなと思って。だって、宇宙は無限だから、そんなこと言っても意味ないでしょ」
苫「“光速は一定である”というアインシュタインの相対性理論を活かしたまま、光速より速い乗り物は作れるんですよ。ただ空間を曲げりゃいいだけの話なんでね。質量があれば光速になる瞬間に無限大になっちゃうんで、アインシュタインの方程式上、その空間において光速になれないって言ってるだけ。でも、単に前の空間と、後ろの空間を歪めればいいわけだから、ワープは理論的には簡単にできることなんです。空間そのものが速く動くことは、相対性理論の枠組みを維持したままできるし」
康「光速もね、光速の速さを論ずること自体、さっき言ったように意味がないと思いませんか? 僕は宇宙理論物理学者の友達がいっぱいいるんだけど、彼らにいつも言っていることは、そんなこと論じても「意味」がないということです。だって、無限ってことに対していつ終わるのか考えても意味ないですよね。たとえば今の宇宙理論物理学者の研究の最大のポイントっていうのは、“宇宙がいつ始まったか?”とかね、そんなことをやって意味があるんですかね」
苫「意味はあんまり考えてないですよ。学者は意味とか理由があるからやるわけじゃないんで。“なんの役に立ちますか?”って聞かれるのと同じで、役に立つかどうかで研究するわけではない」