ワットの改良蒸気機関。ワット式蒸気機関の開発は動力源の開発における大きな画期であり、産業革命を象徴するものである
産業革命(さんぎょうかくめい、英: Industrial Revolution)は、18世紀半ばから19世紀にかけて起こった一連の産業の変革と、それに伴う社会構造の変革のことである。
産業革命において特に重要な変革とみなされるものには、綿織物の生産過程における様々な技術革新、製鉄業の成長、そしてなによりも蒸気機関の開発による動力源の刷新が挙げられる。これによって工場制機械工業が成立し、また蒸気機関の交通機関への応用によって蒸気船や鉄道が発明されたことにより交通革命が起こったことも重要である。
経済史において、それまで安定していた一人あたりのGDP(国内総生産)が産業革命以降増加を始めたことから、経済成長は資本主義経済の中で始まったとも言え、産業革命は市民革命とともに近代の幕開けを告げる出来事であったとされる。また産業革命を「工業化」という見方をする事もあり、それを踏まえて工業革命とも訳される。 ただしイギリスの事例については、従来の社会的変化に加え、最初の工業化であることと世界史的な意義がある点を踏まえ、一般に産業革命という用語が用いられている。
各国の事例については「工業化#各国の工業化」も参照
目次
[非表示]
概要
「産業革命」という言葉が初めて使われたのは1837年、経済学者のジェローム=アドルフ・ブランキによるものからである。その後、1844年にフリードリヒ・エンゲルスによって広まり、アーノルド・トインビーが著作の中で使用したことから学術用語として定着した。もともとは1760年代から1830年代にかけてイギリスで起こった「最初の」産業革命を指した言葉だが、いわゆる発展段階論において市民革命と並んで、近代とそれ以前を分かつ分水嶺とされたため、イギリスを皮切りにベルギー、フランス、アメリカ、ドイツ、ロシア、日本といった風に順次各国でも産業革命が起こったとされた。
イギリスで産業革命が始まった要因として、原料供給地および市場としての植民地の存在、清教徒革命・名誉革命による社会・経済的な環境整備、蓄積された資本ないし資金調達が容易な環境、および農業革命によってもたらされた労働力、などが挙げられる。これらの条件の多くはフランスでもそれほど変わることはなかったが、唯一決定的に違ったのが、植民地の有無である。
イギリス産業革命は1760年代に始まるとされるが、七年戦争が終結し、アメリカ、インドにおけるイギリスのフランスに対する優位が決定づけられたのは1763年のパリ条約の時である。植民地自体は以前から存在していたので、1763年の時点でイギリスが市場・原料供給地を得た、というよりも、フランスが産業革命の先陣を切るために必要な市場・原料供給地を失ったというべきであろう。いずれにせよ、イギリスはライバルであるフランスに先んじて産業革命を開始し、フランスに限らず一体化しつつあった地球上の全ての国々に対して有利な位置を占めることとなった。言い換えるならば、七年戦争の勝利によって、イギリスは近代世界システムにおける覇権国家の地位を決定づけたのである[1]。
イギリスの産業革命は1760年代から1830年代までという比較的長い期間に渡って漸進的に進行した。またイギリスに限らず西ヨーロッパ地域では「産業革命」に先行してプロト工業化と呼ばれる技術革新が存在した。そのため、そもそも「産業革命」のような長期的かつ緩慢で、唯一でもない進歩が「革命」と呼ぶに値するか、という議論もある。
初期の軽工業中心のころを「第一次産業革命」、電気・石油による重化学工業への移行後を「第二次産業革命」、原子力エネルギーを利用する現代を「第三次産業革命」と呼ぶ立場があるが、このような技術形態に重きを置く産業革命の理解からは、「産業革命不在説」に対する有力な反論は出にくい。そのため、現在では産業の変化とそれに伴う社会の変化については、「革命」というほど急激な変化ではないという観点から、「工業化」という言葉で表されることが多い。ただし、イギリスの事例については依然として「産業革命」という言葉も使われている。
イギリスについて目を向ければ、労働者階級の成立、中流階級の成長、および地主貴族階級の成熟による三階級構造の確立や消費社会の定着など、1760年代から1830年代という「産業革命期」を挟んで大きな社会的変化を見出すことができる。また世界史に目を向ければ、最初の工業化であるイギリス産業革命を期に、奴隷貿易を含む貿易の拡大や、現在[いつ?]にも繋がる国際分業体制の確立といった地球規模での大変化が始まったとも言える。
この世界規模での影響(負の側面も含めて)は、先行するプロト工業化などではなかったものである。そのため、産業革命は単なる技術上の変化としてではなく、また一国単位の出来事としてでもなく、より広い見地から理解される必要がある[2]。
イギリス産業革命の前提条件
毛織物工業と資本
産業革命に先行して、イギリスでは新毛織物と呼ばれる薄手の羊毛製品の製造が盛んであった。もともとイギリスでは中世末期から毛織物が盛んで、フランドルなどに比較的厚手の半完成品を輸出していた。この種の毛織物は新毛織物に対して、旧毛織物と呼ばれる。
その後、毛織物の主流は新毛織物へと変わり、当初イギリスはフランスやネーデルラントなどから新毛織物を輸入していたが、宗教改革後のスペインとの関係悪化により輸入が停止すると、ネーデルラント独立戦争の混乱を避け大陸から逃れてきた新教徒を集めて、自国での生産を開始する。
こうした毛織物生産は都市ではなく、各地の農村において行われることが多かった。農村部には余剰労働力が常に存在しており、またイギリスではかなり撤廃が進んでいたものの、都市部においては規制に縛られることがあり自由な生産に障害が起きやすかったためである。都市にいる問屋が原材料を機材を持つ農民に供給し、農民が副業として織物を生産することが多く、こうした生産様式は問屋制家内工業と呼ばれた。一部においてはさらにこれが大規模化し、工場に生産者を集中させて生産を行う、いわゆる工場制手工業(マニュファクチュア)に発展するものも出てきた。こういった農村工業の進展はプロト工業化と呼ばれる。毛織物工業で蓄積された資本は、後に綿織物工業に利用され、産業革命につながったとされるが、初期の綿織物工業にはそれほど大きな設備投資が必要ではなく、毛織物の担い手であったジェントリ以外にも雑多な職業の人間が参入していたことが分かっている。彼らの多くは蓄積された資本ではなく、借金によって必要な資金を賄ったといわれ、柔軟な資金供給が当時としては問題であったとも言われる。
労働力
1814年当時の鉱夫
18世紀から19世紀にかけて、西ヨーロッパにおいて一連の農業技術上の改革(イギリスでは特に農業革命と呼ばれる)があった。休耕地を無くした四輪作の導入、囲い込みによる集約的土地利用などによって、食料生産が飛躍的に伸びた一方で、中小の農民は自営農から賃金労働者に転落した。しかし、賃金労働者となったものの、従来言われたように職を失い都市部に流入したわけではない。
農業革命による新農法は広い土地を必要としたが、依然耕作のための人手も必要としており、自営農であった者たちは同じ土地でそのまま農業労働者となったと言うのが正しい。むしろ食料生産の増加によってもたらされた人口の増加によって、産業革命に必要な労働力は賄われたといえる。
この人口増加は、イギリスに限らず西ヨーロッパ全域でおこっており、人口革命とも呼ばれる。またこの他にもアイルランドからの人口流入も労働力需要に応えたが、競争にさらされることとなったプロテスタント系イギリス労働者との間に軋轢を引き起こし、1780年にロンドンで発生した反カトリック暴動の原因にもなった。
海外植民地と商業革命
資本の蓄積や人口増加、いずれにせよ、イギリス固有というよりもヨーロッパに共通の事柄であり、現在よく言われる様に、産業革命前夜のイギリスとフランスではさしたる差は存在しなかった。むしろ手工業という点ではイギリスよりもヨーロッパ大陸諸国の方が若干発達していたともされる。
フランスで起きなかった産業革命がイギリスで起こった原因は、イギリスにあってフランスに無かったもの、つまり広大な海外植民地であった。初期の産業革命で生産された雑工業製品の多くがヨーロッパ外の地域に向けられた事からも産業革命における海外植民地の重要性を見て取る事ができる。こうした対外貿易の隆盛によって、イギリス商業革命と呼ばれる急激な商業の成長が起き、イギリスは産業革命に必要な資本の蓄積が可能となった。また、ギルドの廃止など国内商業自体の改革も進んだ。
需要と市場保護
インド産キャラコによって綿織物に対する需要が生み出されたが、イギリスから輸出できる生産品は毛織物程度しかなかったうえ、毛織物はインドはじめ温暖な地方においてはほとんど需要がなかったため、18世紀におけるイギリスの貿易収支は常に大幅な貿易赤字となっていた。これを改善するために綿織物の国内生産が進められるようになった。綿織物産業が主に成立したのはランカシャー地方であり、ここは東部の毛織物工業地帯と西部の麻織物工業地帯に挟まれて両工業の資本やノウハウ、技術が利用可能な地域だった[3]。こうして生産された綿織物や亜麻と綿の混紡(ファスチャン)は品質が良くなかったために輸出用として大西洋三角貿易に回され、市場を得た綿織物工業は徐々に成長していった[4]。さらに生活革命により、その他の雑工業製品に対する需要は飛躍的に大きくなった。これにより工業化がもたらす商品生産能力向上を吸収・消費する国内市場が形成された。
技術力の向上
産業革命の原動力となった蒸気機関や紡績機などの機械は、多くの部品を正確に制作して組み合わせ、狂いなく動作するように仕上げる技術が必要であり、作成には高度な技術力が求められる。こうした多数の部品を組み合わせ正確に動作させる技術は、時計産業の発達によってもたらされた。時計は多数の部品を正確に組み合わせないと動作しない高度な機械製品であるが、18世紀後半にはジョン・ハリソンのクロノメーターの開発に代表されるように時計制作技術が長足の進歩を遂げており、イギリスをはじめとしてフランスやスイスには時計を分業によって制作できる高度な技術を持った職人集団が成立していた。この機械製作技術やシステムはそのまま蒸気機関や紡績機といった黎明期の産業機械製作に応用され、産業革命の技術的基礎となった[5]。