1世紀(いっせいき、いちせいき)は、西暦元年1年)から西暦100年までの100年間を指す世紀1千年紀における最初の世紀でもある。

天文学以外では通常、西暦0年は存在せず、また0世紀もない。これは、ヨーロッパで西暦ができた6世紀の時点では、まだヨーロッパ人はの概念を知らなかったためであると言われることもあるが、元年以前を表すために紀元前が導入されたのは零の概念が普及した後の17世紀のことである。

なお、天文学ISO 8601では、紀元1年の前年、すなわち紀元前1年を西暦0年と定めている。詳細は「紀元前1年」または「0年」を参照のこと。

 

目次

できごと

後漢光武帝王莽によって断絶した漢王朝を復興し賢君と讃えられている。画像は唐の画家閻立本「歴代帝王図巻」の十三皇帝図の光武帝像。

漢委奴国王印」。江戸時代に九州志賀島で発見されたもので、後漢の光武帝により下賜されたものとされる。現在は福岡市博物館が所蔵。

インド・スキタイ王国。ギリシア系王国が衰退した後にスキタイサカ族の王国がインド各地に成立した。画像はこの時代に作られた「マトゥラーの獅子柱頭英語版)」(大英博物館蔵)。

ローマコロッセウム(コロッセオ)。ウェスパシアヌス帝の時代に着工され、その息子ティトゥス帝の時代に完成した円形闘技場(アンフィテアトルム)。

埋没した都市ポンペイ。紀元79年8月24日に大爆発を起こしたヴェスヴィオ火山によってポンペイ市は埋没した。画像はポンペイ遺跡で発掘された「秘儀荘(ヴィラ・デイ・ミステリ)」の壁画で、ディオニュソス神の密儀宗教を示しているとされる。

ユダヤ戦争。ローマ皇帝ティトゥスによりユダヤ人の反乱は鎮圧されエルサレムの第二神殿も破壊された。画像はティトゥスの凱旋門に刻まれた神殿の宝物(七枝の燭台のメノーラーほか)を運ぶローマ兵士たち。

バールベック。この地は属州シリアの聖地で、元来はフェニキア系の神バアル(ハダド)が祀られていた。ローマの支配に服してからはユピテル神と習合して祀られるようになり繁栄した。画像はネロ帝時代に完成したユピテル神殿の6本大列柱。

ペトラエル・カズネナバテア王アレタス4世フィロパトリスの最盛期に建造されたもので、

「エル・カズネ」は「宝物殿」を意味する。
紀元前後
倭は百余国に分かれており、その一部は前漢の楽浪郡に朝献をする(『漢書』地理志)。
アフガニスタン北部のティリヤ・テペ(英語版)に黄金の宝飾をつけた遊牧系サカ・パルティア人の墳墓が作られる。
0年代[編集]

詳細は「0年代」を参照
1年 - 前漢の哀帝が死去し平帝が即位。大司馬の董賢が失脚し、王莽が大司馬となる。
6年 - 属州マケドニアから属州モエシアが分離する。
8年
王莽の簒奪により前漢が滅亡し、新が建てられる。
アウグストゥスの命令で詩人オウィディウスが黒海沿岸のトミス(現在のコンスタンツァ)へ追放される。
9年 - トイトブルクの戦いでローマがゲルマニア人に敗れる。
10年代[編集]

詳細は「10年代」を参照
10年 - 王莽が「匈奴」を「降奴」に改名し、攻撃を開始。
14年 - ローマでアウグストゥス帝が死去し、ティベリウス帝が即位。
15年 - ローマがラエティアに遠征し、属州ラエティアが設置される。
17年 - 琅邪の呂母が挙兵する。
18年 - 赤眉の乱(- 27年)
20年代[編集]

詳細は「20年代」を参照
23年 - 昆陽の戦いで新軍が敗北、長安が陥落して王莽が殺害され新が滅亡する。
25年 - 劉秀(光武帝)が皇帝に即位し後漢が成立する(- 220年)。
25年頃 - 「ポートランドの壺」が作られる。
27年 - ティベリウス帝がカプリに隠棲する。
29年 - 後漢の光武帝が国立大学である太学を設置する。
30年代[編集]

詳細は「30年代」を参照
30年頃 - イエスがゴルゴダの丘で刑死。
その後イエスの復活を信じる十二使徒らを中心にキリスト教が成立する。
31年 - ティベリウス帝の寵臣セイヤヌスが処刑される。
32年頃 - 最初のキリスト教殉教者ステパノが殺害される。
34年頃 - サウロ(パウロ)がダマスクスへの途上で回心する。
35年 - 後漢の光武帝が「天地之性人為貴」の詔を下す。
36年 - 後漢の光武帝が中国を統一する。
37年
ローマでティベリウス帝が死去し、カリグラ帝が即位。
パルティアとローマが和睦する。
40年代[編集]

詳細は「40年代」を参照
40年 - ベトナムで徴姉妹が後漢に対して反乱を起こす(- 43年)。
40年 - 70年 - エジプト在住のギリシア語著作家により『エリュトゥラー海案内記』が書かれる。
41年 - ローマでカリグラ帝が暗殺され、クラウディウス帝が即位。
43年 - ローマがブリタンニアに遠征し、属州ブリタンニアが設置される。
44年 - クラウディウス帝の勅令により、属州マウレタニアが設置される。
46年 - ローマがオドリュサイ王国を併合し、属州トラキアが設置される。
50年代[編集]

詳細は「50年代」を参照
50年 - コロニア・アグリピネンシス(現ケルン)がローマ植民市に格上げされる。
54年 - ローマでクラウディウス帝が死去し、ネロ帝が即位。
57年 - 倭の奴国王が後漢に朝献して、倭奴国王印(金印紫綬)を授けられる(後漢・建武中元2、丁巳;『後漢書』光武帝紀、同東夷伝)。
59年 - ネロ帝が母の小アグリッピナを殺害する。
60年代[編集]

詳細は「60年代」を参照
60年 - ブリタンニアのイケニ族女王ブーディカがローマ帝国に反乱を起こすも鎮圧される。
60年頃 - ローマ帝国属州シリアのバールベックのジュピター神殿が建てられる。
62年 - キリスト教のエルサレム教会の初代主教ヤコブが殉教。
64年
ポントゥス王国がローマ帝国に併合され、属州ポントゥスになる。
ローマ大火。ネロ帝がキリスト教徒を迫害し、ペテロとパウロが殉教。
65年 - ピソの陰謀事件で、セネカが加担したと疑われネロ帝に自殺を命じられる。
67年 - 伝承では初めて後漢に仏教が伝わり、洛陽に白馬寺が建てられる。
68年
ネロ帝が自殺し、ユリウス・クラウディウス朝が断絶。
内戦からローマで四皇帝が乱立(四皇帝の年)。
この内戦を鎮圧したウェスパシアヌス帝が即位しフラウィウス朝が成立。
70年代[編集]

詳細は「70年代」を参照
70年 - ユダヤ戦争でエルサレムが陥落する。
73年 - ローマ軍が包囲したマサダ要塞が陥落。
79年
ウェスパシアヌス帝が死去、息子のティトゥス帝が即位。
ヴェスヴィオ火山の噴火によりポンペイが埋没。大プリニウスが噴煙に巻き込まれ死亡。
白虎観会議。
80年代[編集]

詳細は「80年代」を参照
80年 - ローマにコロッセウムが完成。
81年 - ティトゥス帝が死去し、弟のドミティアヌス帝が即位。
83年
グラウピウス山の戦いでローマ軍がピクト人(カレドニア人)連合軍に勝利する。
ドミティアヌス帝の命でライン川からドナウ川までの軍事境界線(リーメス・ゲルマニクス)がシュヴァルツヴァルトに築かれる。
85年頃 - 鮮卑が北匈奴を破る。
90年代[編集]

詳細は「90年代」を参照
90年 - クシャーナ朝の王ヴィマ・タクトが後漢の班超を攻撃するが撃退される。以後クシャーナ朝は後漢に毎年貢献する。
90年代 - ヤムニヤ会議においてユダヤ教のヘブライ語聖書(タナハ)が確定される。
92年 - 後漢の和帝が外戚で大将軍の竇憲に自殺を命じる。歴史家班固もこの事件に連座して獄死する。
94年 - 後漢の班超が西域諸国を制圧。
96年 - ローマでドミティアヌス帝が暗殺され、ネルウァ帝が即位。五賢帝時代始まる( - 180年)。
97年 - 甘英が班超により大秦国(ローマ帝国)へ派遣される。
1世紀末 - 弥生文化が東北地方に波及す