18世紀(じゅうはっせいき)は、西暦1701年から西暦1800年までの100年間を指す世紀。


目次  
1    18世紀の歴史
1.1    世界
1.1.1    ヨーロッパの躍進とアジア大帝国の弱体化
1.1.2    市民革命と近代化の始まり
1.1.3    電気技術の夜明け
1.1.4    18世紀の音楽と芸術
1.1.5    火山の噴火と異常気象
1.2    日本
1.2.1    元禄文化と江戸の改革
1.2.2    宝永大噴火
2    できごと
2.1    1700年代
2.2    1710年代
2.3    1720年代
2.4    1730年代
2.5    1740年代
2.6    1750年代
2.7    1760年代
2.8    1770年代
2.9    1780年代
2.10    1790年代
2.11    1800年代
3    人物
3.1    ヨーロッパ
3.1.1    政治と軍事
3.1.2    思想と歴史・人文諸学
3.1.3    宗教と神秘主義
3.1.4    文学
3.1.5    芸術
3.1.6    音楽
3.1.7    科学と技術
3.1.8    探検家・旅行家
3.1.9    その他
3.2    北アメリカ
3.3    ラテン・アメリカとカリブ海
3.4    西アジア・中央アジア
3.5    インド・東南アジア
3.6    東アジア
3.6.1    清
3.6.2    大越
3.6.3    李氏朝鮮
3.7    日本
4    科学技術
5    フィクションのできごと
6    脚注
7    関連項目


18世紀の歴史

産業革命。ジェームズ・ワットの蒸気機関。

ロココ芸術の庇護者として知られるルイ15世の寵妃ポンパドゥール夫人。画像はフランソワ・ブーシェによるもの。

オペラの隆盛。16世紀末に生まれたオペラはこの世紀までに広範な人気を得て専属の劇場も作られるようになった。画像はローマ最古のアルジェンティーナ劇場(1732年に完成)を描いたジョバンニ・パオロ・パンニーニの画。

「グランド・ツアー」。古典教養の涵養や芸術品の蒐集なども兼ねて上流階級の旅行が盛んになった。画像はウフィツィ美術館のトリブーナを描いたヨハン・ゾッファニー(英語版)の絵画。

ヴェネツィア共和国の終焉。18世紀を通じてヴェネツィアは低落傾向を示し、フランス革命戦争のカンポ・フォルミオ条約でオーストリアに併合される。画像はジョヴァンニ・ドメニコ・ティエポロにより描かれた18世紀半ばのヴェネツィアのカーニバル。

フリードリヒ大王。オーストリアとの戦いを通じプロイセンを強国に仕立て上げた啓蒙専制君主。画像はアドルフ・メンツェルによるフルートを吹く大王の歴史画。

マリア・テレジア。ハプスブルク家を支えオーストリア継承戦争や七年戦争ではプロイセンを向こうに回し戦い続けた。画像はマルティン・ファン・マイテンスによる家族の肖像画。

サンクトペテルブルク近郊の「ピョートル大帝の夏の宮殿(ペテルゴフ)」。皇帝ピョートル1世の改革によりロシアの首都は「西欧への窓」と呼ばれたサンクトペテルブルクに遷された。

ポーランド分割。東欧の啓蒙専制君主たちによりポーランド国家は消滅した。画像はポーランド分割を決議する国会への議員の入場を阻もうとするタデウシュ・レイタンを描いたヤン・マテイコの歴史画。

英仏第二次百年戦争。ヨーロッパを越えて新大陸やインドにも植民地をめぐる戦争は拡大した。画像はベンジャミン・ウエストによる歴史画でフレンチ・インディアン戦争のエイブラハム平原の戦いで戦死したウルフ将軍を描いたもの。

アメリカ独立戦争。この戦争の帰趨はヨーロッパの旧体制にも大きな影響を与えた。エマヌエル・ロイツェによる歴史画「デラウェア川を渡るワシントン(メトロポリタン美術館蔵)」。

黒人奴隷貿易の最盛期。アフリカから多くの黒人が大西洋を越えて新大陸へ奴隷として運ばれた。画像はアゴスティーノ・ブルニアスの描いた「西インドにおけるリネン市場のリネン露店と野菜販売商」。

「ジェームズ・クックの死」。イギリスの海軍士官クックは太平洋各地を探検し新しい知見を得た。しかし最後の航海ではハワイ島住民との争いから殺害された。

ナポレオンのエジプト遠征。1798年に始まるフランス軍の襲来はイスラム世界全体を震撼させ、エジプトの近代化を促す端緒となった。画像はルイ・フランソワ・ルジェーヌ(英語版)が描いた「ピラミッドの戦い」。

チューリップ時代。18世紀初頭にオスマン帝国は安定期を迎え、西欧文化がスルタン周辺でも盛んに取り入れられた。画像はこの時代を代表するスルタン・アフメト3世の肖像画で細密画家レヴニーの作。

アフシャール朝の君主ナーディル・シャーの肖像。イランのサファヴィー朝を滅ぼし、インドのムガル朝を急襲し一時的にデリーを制圧するなど「第二のアレクサンドロス」の異名をとる活躍を見せた。

インド木綿の流行と衰退。ヨーロッパ諸国の需要増大によりインドの木綿産業は18世紀半ばまでに絶頂を迎えた。白綿布はキャラコと、染めた綿布はチンツ(インド更紗)と呼ばれ人気を博した。しかし18世紀の後半には産業革命によるイギリス綿織物業の追い上げがあり、次第に衰勢に向かうことになる。

「マイソールの虎」ティプー・スルターン。マイソールの君主としてティプー・スルターンは第四次マイソール戦争ではイギリス軍を相手に壮絶な最期を遂げた。画像は彼が所有していた「ティプーの虎」と呼ばれた自動楽器で白人に飛びかかる虎のデザインが印象的である。

ワット・プラケーオ(エメラルド寺院)。チャクリー朝初代のラーマ1世によって建立された仏教寺院。正式名称はワット・シーラッタナーサーサダーラーム。

清朝の繁栄。乾隆帝はおよそ60年間の治世で「十全武功」を誇り、東アジアの大帝国の君主として君臨した。画像はイエズス会士ジュゼッペ・カスティリオーネ(郎世寧)によって描かれたもの。

蘇州古典園林。五代から清にかけて蘇州では美しい庭園が数多く作られた。画像はその一つ「獅子林」で造営は元代に遡るが、六度の南巡を行った乾隆帝は蘇州に来ると必ず立ち寄り詩を詠むほどの愛好ぶりを示した。

『紅楼夢』。没落した漢人八旗の家に生まれた曹雪芹により描かれた長編小説で、男女の情愛の細かな機微をとらえていることで定評がある。当時の皇帝乾隆帝も目を通したと言われ、身分の上下を問わず「紅迷」と呼ばれる熱狂的なファンも生み出した。画像は徐宝篆の挿絵。

中国趣味(シノワズリ)。イエズス会士らの報告による清朝の繁栄ぶりは西欧諸国の人々に「幻想の東洋」のイメージを膨らまさせた。画像はフランス人フランソワ・ブーシェによる「中国の庭園(部分 ブザンソン美術館蔵)」。

元禄文化。17世紀末から18世紀の初めの将軍徳川綱吉の時代に上方を中心に豪華で活気ある文化が花開いた。画像は尾形光琳の「燕子花図屏風」(東京・根津美術館蔵)。

享保の改革。この改革は八代将軍徳川吉宗により始められた。幕藩体制維持のため18世紀半ば以降には様々な改革が断続して行われることになる。

「鎖国」の中の国際交流。将軍吉宗が漢訳洋書の輸入を緩和したことで「蘭学」が一世を風靡した。画像は蘭学や海外事情にも詳しかった銅版画家司馬江漢による日本人、中国人、西洋人の対談の図。

錦絵から大首絵へ。町人によって育まれた浮世絵は宝暦・天明年間には江戸を代表する文化として成長していた。画像は喜多川歌麿の「当時三美人(寛政三美人)」。
世界
ヨーロッパの躍進とアジア大帝国の弱体化
18世紀には、農業生産の飛躍的向上により人口の増加をもたらした農業革命に続き、世界初の工業化である産業革命が起こったことにより、イギリスの生産力が飛躍的に向上した。産業革命の原動力のひとつに大西洋の三角貿易(奴隷貿易)に支えられた砂糖や綿花のプランテーション、そしてそこでの労働力となった黒人奴隷の存在がある。重商主義によりヨーロッパ各国で激しい貿易競争がおこなわれた。オランダの自由貿易は衰え、イギリスとフランスが台頭し両国は、激しい植民地戦争を繰り広げた。一方、18世紀後半のヨーロッパでは、啓蒙主義思想が広がった。
アジアの大帝国の腐敗、弱体化が始まり、それに乗じて西欧諸国のアジア進出が始まった。インドでは、アウラングゼーブのもとムガル帝国が最大領土を実現したが、その死後における数次の継承戦争とマラーター王国を中心とするマラーター同盟の台頭より、19世紀には弱体化した。そして、デリー周辺をかろうじて支配する一勢力に転落し、各地に地方政権が割拠するようになり、イギリス、フランスの進出を許した。オスマン帝国は改革がおこなわれたが大きな成果はなく、腐敗と弱体化がいっそう進んだ。清は乾隆帝の治世で最盛期にあたり人口が増えたため華僑が登場した。内政面で充実し、経済力も増したが、18世紀後期には腐敗が進んだ。また、貿易を巡って西ヨーロッパ諸国と対立するようになっていった。
市民革命と近代化の始まり
18世紀のヨーロッパなどでは、自然権や平等、社会契約説、人民主権論など理性による人間の解放を唱える啓蒙思想が広まっていた。この帰結として、18世紀の後半から末にかけてアメリカ独立革命、フランス革命といった市民革命がおこり、市民社会への流れが始まった。一方で、プロイセンやロシア帝国では啓蒙専制君主が登場し、上からの近代化が進められた。
産業革命以後の各国の工業化や資本主義の成立、一連の市民革命以後の市民社会の成立や国民国家の誕生など、19世紀にかけて国や社会のあり方が大きく変容していくことは、近代化の始まりともされる。これらの変革以降は西洋史において近代に区分されている。
電気技術の夜明け
科学の分野では、ミュッセンブルークにより静電気を貯める装置「ライデン瓶」が発明されると、これに興味を持ったベンジャミン・フランクリンが雷を伴う嵐のなか凧糸の末端にライデン瓶を接続した凧を揚げ、「雷雲の帯電を証明する」という実験を通じて、雷の正体がelectricity(=電気)であることを明らかにした。それと同時に、このelectricityには"プラスとマイナスの両方の極性があること"も確認したといわれている。フランクリンの観察によって電気技術の基礎となる様々な研究にスポットが当てられ、18世紀末にはアレッサンドロ・ボルタによる、世界最初の化学電池としても知られる「ボルタの電堆」の発明に至った。
18世紀に開花した電気技術は19世紀において、現代の生活に欠かすことのできない電話機、モーター、発電機、白熱電球などの発明に繋がっていく。
18世紀の音楽と芸術
18世紀はバッハ(1685-1750)、ハイドン(1732-1809)、モーツァルト(1756-1791)、ベートーヴェン(1770-1827)など、ヨーロッパの多くの大音楽家達が生きた時代でもある。
「典雅さの世紀」とも呼ばれたこの時代に芸術の分野では、豪壮華麗なバロック様式から繊細優美なロココ様式への変質(ただしロココとバロックに明確な区別はない)が見られる。また、この世紀の後半にはポンペイやヘルクラネウムの遺跡発掘に始まる古典・古代への憧憬が高まり、新古典主義様式が隆盛に向かう。
火山の噴火と異常気象
アイスランドのラキ、グリムスボトン、エルトギャウ、日本では浅間山、岩木山などで激しい火山噴火が起こった。
日本
元禄文化と江戸の改革
江戸時代の中期から後期にあたる。江戸初から続いた新田開発ラッシュとそれによる米穀増産のもたらす経済と文化の発展は17世紀末の元禄文化に結実したが、農地開墾可能な土地はすでに枯渇して経済成長は行き詰まり、幕府財政は次第に逼迫していった。八代将軍・徳川吉宗は享保の改革を推し進め、慢性悪化に陥っていた財政の復興を果たしたが、一方で一時凌ぎ的な法令を濫発した事などは却って幕府の権威を弱体化し、社会的な矛盾を残すこととなった。18世紀の後期には田沼意次による重商主義的政策が執られ、幕府の財政状況は一定の改善をみた。だが、田沼による改革は江戸の経済・文化の繁栄をもたらした一方、浅間山の噴火に代表される天災の続発と諸藩の財政維持のための大阪米市場への飢餓輸出が重なり農民層の困窮を招いて中絶。代わりに老中となった松平定信により儒教的農本主義に基づく守旧的な寛政の改革が進められ、経済・文化の停滞が進んだ。
宝永大噴火
1703年に元禄地震(相模トラフ巨大地震)、1707年に関東南西部、東海地方〜紀伊半島〜四国にかけて宝永地震(南海トラフ巨大地震)という二つの巨大地震が発生すると、宝永地震から49日後に宝永大噴火が起きた[1]。これは、現在までにおける歴史上最後の富士山の噴火である。
できごと
1700年代
詳細は「1700年代」を参照
1701年
スペイン継承戦争( - 1714年)。
ブランデンブルク選帝侯フリードリヒ1世がプロイセン王として戴冠(プロイセン王国の成立)。
播州赤穂藩主浅野長矩が江戸城中で高家肝煎吉良義央に斬りつける。
浅野長矩は切腹の刑となり、浅野家は改易される。
1702年
赤穂浪士大石良雄ら四十七士が吉良を討つ。
フランスでカミザールの乱( - 1705年)。
清で皇太子胤礽の外戚ソンゴトゥ(索額図)が失脚させられる。
1703年
ロシアのピョートル1世が新都サンクトペテルブルクの建設に着工。
メシュエン条約がイングランドとポルトガルで結ばれる。
幕府により大石良雄ら赤穂浪士が切腹を命じられる。
長州藩が製蠟所を設置。
元禄地震(房総沖M8.1〜8.5)。
オスマン帝国皇帝アフメト3世の即位。
1704年 - 教皇クレメンス11世が教皇勅書「クム・デウス・オプティムス」にてカトリック信者の儒教祭儀への参加を禁止し、典礼論争を差し止めとする。
1705年 - 大阪の豪商淀屋廣當(辰五郎)が幕府の命により闕所所払に処せられる。
1706年 - トーマス・トワイニングがロンドンで「トムズ・コーヒーハウス」を開業(トワイニング社の始まり)。
1707年
宝永地震(東海・東南海・南海M8.4〜9.3)、富士山宝永大噴火(降灰砂は東方90kmの川崎で5cm・大被害)。
イングランド王国とスコットランド王国の合同でグレートブリテン王国成立。
以下の年表では「グレートブリテン王国」を「イギリス王国」あるいは「イギリス」と表記する。
ムガル帝国皇帝アウラングゼーブ死去、ムガル帝国軍はデカンを撤退しデカン戦争終結、以後ムガル帝国は急速に衰退。
1708年
清の康熙帝が第2皇子胤礽を廃太子とする(1709年に復権するも1712年に再度廃太子)。
イタリア人宣教師シドッティが屋久島に上陸し捕縛される。翌年に江戸へ移送される。
マントヴァ公国のゴンザーガ家が断絶する。
マラータ同盟結成( - 1818年)。
1709年
徳川綱吉が64歳で死去し、徳川家宣が江戸幕府第6代将軍となる。
生類憐れみの令を廃止する。新井白石が将軍侍講として登用される。
東山天皇が譲位し、第114代中御門天皇が即位。
東大寺大仏殿が再建され、落慶供養行われる。
ポルタヴァの戦いでロシアが勝利し、スウェーデン国王カール12世はオスマン帝国に亡命。
1710年代
詳細は「1710年代」を参照
1710年 - 宝永の改鋳。