19世紀(じゅうきゅうせいき)は、西暦1801年から西暦1900年までの100年間を指す世紀。
目次
1 19世紀の歴史
1.1 帝国主義の興隆
1.2 国民国家の成立
1.3 列強の植民地争奪戦
2 できごと
2.1 1800年代
2.2 1810年代
2.3 1820年代
2.4 1830年代
2.5 1840年代
2.6 1850年代
2.7 1860年代
2.8 1870年代
2.9 1880年代
2.10 1890年代
2.11 1900年代
3 文化
3.1 文学
3.2 音楽
3.3 思想
3.4 科学
3.5 技術
4 人物
4.1 ヨーロッパ
4.1.1 政治家・王族
4.1.1.1 フランス
4.1.1.2 オーストリア=ハンガリー
4.1.1.3 ロシア
4.1.1.4 イギリス
4.1.1.5 ドイツ(プロイセンほかドイツ領邦を含む)
4.1.1.6 北欧
4.1.1.7 イタリア
4.1.1.8 スペイン
4.1.1.9 ベルギー
4.1.1.10 ギリシア
4.1.2 軍人
4.1.3 実業家
4.1.4 科学と技術
4.1.5 思想と哲学・人文諸学
4.1.6 宗教
4.1.7 文学
4.1.8 美術
4.1.9 音楽
4.1.10 社会事業家
4.1.11 探検家・旅行家
4.1.12 料理
4.1.13 その他
4.2 アングロアメリカ
4.3 ラテンアメリカ
4.4 サハラ以南のアフリカ
4.5 西アジアと北アフリカ
4.6 南アジア
4.7 東南アジア
4.8 オセアニア
4.9 東アジア
4.9.1 清
4.9.2 越南
4.10 日本
5 19世紀生まれの生き残り
6 脚注
7 関連項目
19世紀の歴史
帝国主義の興隆
インド大反乱。アジア・アフリカ諸国には苦渋の時代であった。
19世紀のイギリスは工業化による生産力の増大により得た、圧倒的な経済力と軍事力で世界の覇権を握った。イギリスは時には武力をも用いて世界各国に自由貿易を認めさせ、イギリスを中心とした国際経済体制に世界を組み込んでいった(パクス・ブリタニカ)。この過程で、大陸国家である清やロシアと海洋国家のイギリスとの間に度重なる衝突が発生し、20世紀における世界大戦の遠因が形成された。
アジア・アフリカにとっては苦渋の時代であり、トルコ、タイ王国などの国では西欧文化を取り入れ近代化が試みられた。清国の半植民地化が実質的に始まったのは、アロー戦争敗北後に天津条約、北京条約を締結してからである。オスマン帝国もヨーロッパ諸国による介入でギリシャ独立戦争において敗北し、ムハンマド・アリーのエジプトでの台頭を止めることが出来なかった。インドではイギリスが19世紀にマラーター戦争、シク戦争を行い、インドを植民地化した。1857年にはインド大反乱が勃発したが、翌年にイギリスはこれを鎮圧し、ムガル帝国は終焉を迎えた。
19世紀の半ば頃に中米の古代文明(マヤ文明)という考え方が、まずヨーロッパで市民権を得、世界中に広がった。
日本でも1853年、アメリカのペリーが浦賀に来航、江戸幕府に開国を認めさせ、日本も欧米を中心とした世界経済に組み込まれた。1868年には長らく続いた幕藩体制は崩壊し(明治維新)、新たに発足した明治政府は欧米文化を摂取して急速な近代化を目指した。19世紀末には、近代化に成功した日本やタイ王国などの一部の国以外は、西欧列強の植民地にされるか、強い影響下におかれた。
国民国家の成立
フランス七月革命。ヨーロッパでは革命により近代的な国家が生まれた。
西欧ではフランス革命の影響により自由主義とナショナリズムが広がった。19世紀初頭のナポレオンの興亡や反動的なウィーン体制、数々の市民革命の勃発の後、ナショナリズムの高揚によりドイツ、イタリアなどの新たな統一された強力な国家が登場した。また南米ではナポレオン戦争による混乱に乗じてラテンアメリカ諸国が独立した。
列強の植民地争奪戦[編集]
19世紀中頃に、ドイツ、フランス、アメリカ合衆国はイギリスに続いて産業革命をなしとげた。こうした後進産業国では政府の強力なリードのもとで産業育成がなされた。19世紀の末期には資源の豊富なアメリカ合衆国や重化学工業分野が成長したドイツの発展が著しく、事実上イギリスの覇権は崩れた(第二次産業革命参照)。これにより19世紀末には列強の植民地争奪競争がおこなわれた。日本も日清戦争、日露戦争などを通じ、こうした植民地争奪戦に乗り出していく。
できごと
蒸気機関車「ロバート・スチーブンソンのロケット号」。
日本では江戸時代の後期及び末期(幕末)から明治時代にあたる。
中国では清の時代の後期から末期にあたる。
イギリスではジェームズ・ワットの圧縮蒸気機関が開発され、その10年後にはワットの複動式蒸気機関が完成し、炭鉱において地下300メートルの深さまで掘ることが可能になった。毎年さまざまなタイプの石炭を何百万トンも産出するようになり、世の中が一変した[1]。
1800年代
詳細は「1800年代」を参照
1801年
伊能忠敬が幕命により伊豆から陸奥の沿岸の測量に向かう。中村小一郎ら樺太を巡視する。富山元十郎らウルップ島に至り、「天長地久大日本属国」の標識を立てる。
本居宣長没(72)。
グレートブリテン王国(イギリス)とアイルランド王国が合併する。
ロシア皇帝パーヴェル1世が宮廷クーデタで暗殺される。
江戸時代の旅行ブーム。1802年には十返舎一九の『東海道中膝栗毛』の刊行が始まり、
文化文政時代のおおらかな気風も相まって各地への旅行が庶民でも楽しまれるようになった。画像は歌川広重の「東海道五十三次」の「日本橋」。
阮朝越南の成立。黎朝衰退後に台頭した西山三兄弟を倒し、阮福暎は嘉隆帝と名乗って
ベトナム全土を統一した。画像は首都の順化(ユエ)に今も残る順化皇城の延寿宮(中国語版)。
1802年
幕府が蝦夷奉行を置く。蝦夷奉行を函館奉行と改称する。伊能忠敬が幕命により
陸奥・出羽・越後の沿岸の測量に向かう。この冬、近藤守重(重蔵)ら、幕命により択捉島を視察する。
タイの援助で阮福暎(嘉隆帝)がヴェトナム全土を統一し越南阮朝が成立。
英仏間でアミアン講和条約。
1803年
伊能忠敬が幕命により、東海道・北陸道・佐渡島の沿岸の測量に向かう。伊能忠敬が国・郡・村の呼称を調査する。
ウィリアム・ロバート・スチュアートのアメリカ船籍ナガサキ号が長崎に来航し貿易を要求する。
前野良沢没(81)。
アミアン講和条約が破棄され、ナポレオン戦争が再開される( - 1815年)。
イギリスとマラーター同盟の間で第二次マラーター戦争が勃発する( - 1805年)。
同年にムガル帝国はイギリス保護下に入った。
ナポレオン1世の戴冠式と皇妃ジョゼフィーヌの戴冠。
1804年
ナポレオン・ボナパルトがフランス皇帝に即位(フランス第一帝政)。
オーストリア帝国成立。
ロシア使節レザノフが長崎に漂流民を護送、貿易を求める。
ハイチがフランスから独立。初の黒人による共和国。
象潟地震により象潟の海岸が隆起して陸地となる。
ウィリアム・ターナーの「トラファルガーの海戦(イギリス国立海洋博物館(英語版)蔵)」。
1805年
トラファルガーの海戦。
アウステルリッツの三帝会戦。
オスマン帝国によりムハンマド・アリーがエジプト総督に任命される
(ムハンマド・アリー朝の成立)。
伊能忠敬が幕命により伊勢・紀伊・山陽・山陰地方の測量に向かう。
紀伊の医師華岡青洲が初めて麻酔剤を用い乳癌を手術する。
1806年
ライン同盟の成立による神聖ローマ帝国の滅亡。
ナポレオンの大陸封鎖令(ベルリン勅令)。
1807年
ティルジットの和約。ヴェストファーレン王国とワルシャワ公国が成立。
プロイセンでシュタイン・ハルデンベルクの改革が始まる。
オスマン皇帝セリム3世がイェニチェリ軍団に廃位され、ムスタファ4世が即位。
ゴヤの「マドリード、1808年5月3日(プリンシペ・ピオの丘での虐殺)」。
1808年
スペインの政変でカルロス4世が退位し、フェルナンド7世が即位。
この混乱でフランス軍がスペインを占領。ナポレオンの兄ジョゼフがスペイン王(ホセ1世)となる。
スペイン人がフランス支配に抵抗しスペイン独立戦争が起こる。宮廷画家ゴヤは「マドリード、1808年5月3日」を描く。
ポルトガルのブラガンサ王家が亡命し、ブラジルのリオデジャネイロに到着。
日本の長崎でフェートン号事件。
間宮林蔵が樺太を探検。
1809年
ヴァグラムの戦い。
ナポレオンがジョゼフィーヌと離婚。
海賊蔡牽による艇盗の乱が鎮圧される。