ガイウス・ユリウス・カエサルⅠ【前半】
ガリア戦争
詳細は「ガリア戦争」を参照
"Vercingetorix throwing his weapons at the feet of Caesar" フランス人画家リオネル・ロワイエ(英語版)による1899年の作(ル・ピュイ=アン=ヴレのクロザティエ博物館(英語版、フランス語版)所蔵)
アレシアの戦いにて、カエサル(赤いトーガをまとう人物)の軍門に下り、勝利者の足元に武器を投げ捨ててみせるウェルキンゲトリクス(馬上の人)。
紀元前58年、コンスルの任期を終えたカエサルは前執政官(プロコンスル)の資格で以てガリア・キサルピナ及びガリア・トランサルピナ等の属州総督に就任した。ヘルウェティイ族がローマ属州を通過したい旨の要求を拒否したことを皮切りに、ガリア人とのガリア戦争へ踏み出すこととなった。ヘルウェティイ族を抑えた後、ガリア人の依頼を受けてゲルマニア人のアリオウィストゥスとの戦い(ウォセグスの戦い)に勝ち、翌年にはガリアの北東部に住むベルガエ人諸部族を制圧した(サビス川の戦い)。
その間の紀元前56年にはルッカでポンペイウス、クラッススと会談を行い、紀元前55年にポンペイウスとクラッススが執政官に選出され、カエサルのガリア総督としての任期が5年延長されることが決定した。また、同年にゲルマニアに侵攻してゲルマニア人のガリア進出を退け、ライン川防衛線(リメス)の端緒を築いた。紀元前55年及び54年の2度にわたってブリタンニア遠征も実施した。
最大の戦いは紀元前52年、アルウェルニ族の族長ウェルキンゲトリクスとの戦いであり、この時はほとんどのガリアの部族が敵対したが、カエサルはアレシアの戦いでこれを下した。これらの遠征により、カエサルはガリア全土をローマ属州とした。カエサルはガリア戦争の一連の経緯を『ガリア戦記』として著した。
カエサルはこの戦争でガリア人から多数の勝利を得、ローマでの名声を大いに高めた。彼は「新兵は新軍団を構成し、既設の軍団には新兵を補充しない」という方針を採ったため、長期間の遠征に従事した軍団は兵数が定員を割っていたが、代わりに統率の取れた精強な部隊になった。軍団兵には、ローマにではなくカエサル個人に対し、忠誠心を抱く者も多かったといわれる。これらのガリア征服を通して蓄えられた実力は、カエサルが内戦を引き起こす際の後ろ盾となったのみならず、ローマの元老院派のカエサルに対する警戒心をより強くさせ、元老院派の側からも内乱を誘発させかねない強硬策を取らせることとなった。
ローマ内戦
詳細は「ローマ内戦 (紀元前49年-紀元前45年)」を参照
ポンペイウスとの対決
紀元前53年、パルティアへ遠征していた三頭政治の一角であるクラッススの軍が壊滅(カルラエの戦い)し、クラッススが戦死したことにより三頭政治は崩壊した。また、紀元前54年にポンペイウスに嫁いでいた娘ユリアが死去したことも受けて、ポンペイウスはカエサルと距離を置き、三頭にとって共通の政敵であったカトやルキウス・ドミティウス・アヘノバルブスら元老院派(閥族派)に接近したため、両者の対立が顕在化した。
紀元前49年、カエサルのガリア属州総督解任および本国召還を命じる『セナトゥス・コンスルトゥム・ウルティムム』が発布された。カエサルは自派の護民官がローマを追われたことを名目に、軍を率いてルビコン川を越えたことで、ポンペイウス及び元老院派との内戦に突入した[25]。1月10日にルビコン川を渡る際、彼は「ここを渡れば人間世界の破滅、渡らなければ私の破滅。神々の待つところ、我々を侮辱した敵の待つところへ進もう、賽は投げられた」と檄を飛ばしたという[26]。
ルビコン川を越えたカエサルはアドリア海沿いにイタリア半島の制圧を目指した。対するポンペイウスはローマにいたため即時の軍団編成を行えず、イタリア半島から逃れ、勢力地盤であったギリシアで軍備を整えることにした。多くの元老院議員もポンペイウスに従ってギリシアへ向かった。こうして、カエサルはイタリア半島の実質的な支配権を手にした。
ローマ制圧後、マッシリア包囲戦とイレルダの戦いでヒスパニアやマッシリア(現マルセイユ)などの元老院派を平定して後方の安全を確保し、カエサルが独裁官として仕切った選挙で紀元前48年の執政官に選出された[27]。独裁官を10日余りで自ら辞任し、ローマを発って軍を率いてギリシアへ上陸した。元老院派の兵站基地を包囲したデュッラキウムの戦いで敗退を喫したが、紀元前48年8月のファルサルスの戦いで兵力に劣りながらも優れた戦術によって勝利を収めた。ポンペイウスはエジプトに逃亡したが、9月29日、アレクサンドリアに上陸しようとした際、プトレマイオス13世の側近の計略によって迎えの船の上で殺害された。後を追ってきたカエサルがアレクサンドリアに着いたのは、その数日後だった。
エジプトにて
『クレオパトラをエジプト女王へ据えるカエサル』"Cesare rimette Cleopatra sul trono d'Egitto"、イタリア人画家ピエトロ・ダ・コルトーナによる1637年の作
カエサル(中央、赤いマント)がクレオパトラ7世の手を引いて玉座へ座るよう促している。右端はアルシノエ4世。
ポンペイウスの死を知ったカエサルは、軍勢を伴ってアレクサンドリアに上陸した。エジプトでは、先代のプトレマイオス12世の子であるクレオパトラ7世とプトレマイオス13世の姉弟が争っており、両者の仲介を模索したものの、プトレマイオス13世派から攻撃を受けた為、クレオパトラ7世の側に立って政争に介入し、ナイルの戦いで、カエサル麾下のローマ軍はプトレマイオス13世派を打ち破った。この戦いで敗死したプトレマイオス13世に代わって、プトレマイオス14世がクレオパトラ7世と共同でファラオの地位に就いた。
北アフリカ、ヒスパニア戦役
エジプト平定後、カエサルは親密になったクレオパトラ7世とエジプトで過ごしたが、小アジアに派遣していたグナエウス・ドミティウス・カルウィヌスがポントス王ファルナケス2世に敗北したという報せが届いた。紀元前47年6月、カエサルはエジプトを発ち、途中でポンペイウスの勢力下だったシュリアやキリキアを抑えつつ進軍、8月2日にゼラの戦いでファルナケス2世を破った。この時、ローマにいる腹心のガイウス・マティウスに送った戦勝報告に「来た、見た、勝った (Veni, vidi, vici.)」との言葉があった。その後ローマに短期間滞在、その際1年間の独裁官に任命された。
ポンペイウス死後もヌミディア王ユバ1世と組んで北アフリカを支配していたクィントゥス・カエキリウス・メテッルス・ピウス・スキピオ・ナシカなど元老院派をタプススの戦いで破り、更にウティカを攻撃してカトを自害に追い込んだ(紀元前46年4月)。
紀元前46年夏、ローマへ帰還したカエサルは市民の熱狂的な歓呼に迎えられ、壮麗な凱旋式を挙行した。カエサルはクレオパトラ7世をローマに招いており、クレオパトラ7世はカエサルとの間の息子とされるカエサリオンを伴っていた。紀元前45年3月、ヒスパニアへ逃れていたラビエヌスやポンペイウスの遺児小ポンペイウス・セクストゥス兄弟らとのムンダの戦いに勝利して一連のローマ内戦を終結させた。
終身独裁官就任
元老院派を武力で制圧して、ローマでの支配権を確固たるものとしたカエサルは共和政の改革に着手する。属州民に議席を与えて、定員を600名から900名へと増員したことで元老院の機能・権威を低下させ、機能不全に陥っていた民会、護民官を単なる追認機関とすることで有名無実化した。代わって、自らが終身独裁官に就任(紀元前44年2月)し、権力を1点に集中することで統治能力の強化を図ったのである。この権力集中システムは元首政(プリンキパトゥス)として後継者のオクタウィアヌス(後のアウグストゥス)に引き継がれ、帝政ローマ誕生の礎ともなる。
紀元前44年2月15日、ルペルカリア祭の際にアントニウスがカエサルへ王の証ともいえる月桂樹を奉じたものの、ローマ市民からの拍手はまばらで、逆にカエサルが月桂樹を押し戻した際には大変な拍手であった。数度繰り返した所、全く同じ反応であり、カエサルはカピトル神殿へ月桂樹を捧げるように指示したという[28]。 共和主義者はこの行動をカエサルが君主政を志向した表れと判断した。また、カエサルは「共和政ローマは白昼夢に過ぎない。実体も外観も無く、名前だけに過ぎない」「私の発言は法律とみなされるべきだ」などと発言したとされる[29]。これら伝えられるカエサルの振る舞いや言動、そして終身独裁官としての絶対的な権力に対し、マルクス・ユニウス・ブルトゥスやガイウス・カッシウス・ロンギヌスら共和主義者は共和政崩壊の危機感を抱いた。
暗殺
『カエサル暗殺』(La Mort de César) フランス人画家ジャン=レオン・ジェロームによる1867年の作
紀元前44年3月15日 (Idus Martiae)、元老院へ出席するカエサルの随行者はデキムス・ユニウス・ブルトゥス・アルビヌスであった。妻・カルプルニアは前夜に悪夢を見た為、カエサルに元老院への出席を避けるよう伝え、カエサルも一度は見合わせることを検討したものの、デキムスの忠告によってカエサルは出席することとした。以前「『3月15日』に注意せよ」と予言した腸卜官(占い師)のウェストリキウス・スプリンナに元老院への道中で出会い、カエサルは「何も無かったではないか」と語ったが、スプリンナは「『3月15日』は未だ終わっていない」と返答した[30]。
それ以前にカエサルは身体の不可侵性を保障される護民官職権を得ていたが、それに加えて元老院議員から安全に関する誓約(元老院議員ほどに社会的地位に高い者なら、「紳士協定」こそ守られなくてはならないとされていた)を取った上で、独裁官に付属する護衛隊を解散していた。カエサルは「身の安寧に汲々としているようでは生きている甲斐がない」「私は自分が信じる道に従って行動している。だから他人がそう生きることも当然と思っている」といったことを述べている。
ポンペイウス劇場で開かれた元老院会議は、パルティア遠征を前にカエサル不在中のローマの統治体制を協議する予定であった。終身独裁官であったカエサルに随行するリクトルは元老院の慣習により元老院外で待機、腹心のマルクス・アントニウスはガイウス・トレボニウスによって引き離されていた。
事件は元老院の開会前に起こったとされ、ポンペイウス劇場に隣接する列柱廊(現在のトッレ・アルジェンティーナ広場内)でマルクス・ブルトゥスやカッシウスらによって暗殺された。23の刺し傷の内、2つ目の刺し傷が致命傷となったという[31]。
暗殺された際、カエサルは「ブルトゥス、お前もか (Et tu, Brute?)」と叫んだとされ、これはシェイクスピアの戯曲『ジュリアス・シーザー』の中の台詞として有名であるが[32]、それ以前にもカエサルがこのような意味のことを言ったという説は存在していた。また、ギリシア語で「息子よ、お前もか? (καὶ σὺ τέκνον;)」[33]と言ったとも伝えられる。
カエサルの死後、紀元前44年ごろにローマで発行されたディナリウス銀貨
上記の「ブルトゥス」は通常、暗殺の指導者の1人で、カエサルが最も愛したと伝えられるセルウィリア[34]の息子であるマルクス・ユニウス・ブルトゥスを指すが、カエサルが呼んだ「ブルトゥス」は、子供の頃から知っているとはいえ愛人の子に過ぎなかった彼ではなく、その従兄弟に当たりカエサルにとって腹心中の腹心でもあったデキムス・ブルトゥスであったとする説もある[35]。数日後、カエサルの遺言状が開封された。第一相続人に当時18歳の大甥(姪であるアティア・バルバ・カエソニアの息子)ガイウス・オクタウィウス・トゥリヌス(後のアウグストゥス)、第二相続人にデキムス・ブルトゥスとの内容であった[36]。
カエサルは生前に死に方を問われた際に「思いがけない死、突然の死こそ望ましい」と答え、合わせて「私が無事息災でいることは、ローマのためにも必要である。私は長い間権力を握っており、もし私の身の上に何かが起こったら、ローマは平穏無事であるはずがない。もしかすると悪くなる可能性があり、内乱が起こるだろう」と語ったと伝えられている[37]。
カエサル年表
- 紀元前100年頃 - ローマで生まれる。
- 紀元前82年 - スッラがローマへ侵攻。カエサル、キリキアへ逃れる。
- 紀元前78年 - スッラ死去。カエサル、ローマへ帰還。
- 紀元前69年 - クァエストルに選出され、ヒスパニアへ赴任する。
- 紀元前65年 - アエディリスに選出。
- 紀元前63年 - 最高神祇官選挙で対立候補を破って当選。カティリナ事件。
- 紀元前62年 - プラエトルに選出。
- 紀元前61年 - プラプラエトル格でヒスパニア総督に選出。
- 紀元前59年 - コンスルに選出(同僚はマルクス・カルプルニウス・ビブルス)。三頭政治の開始。
- 紀元前58年 - プロコンスル格でガリア地区の総督に選出。ガリア戦争が勃発(紀元前51年まで)。
- 紀元前56年 - ルッカ会談。
- 紀元前53年 - クラッスス戦死、三頭政治が事実上崩壊。
- 紀元前52年 - アレシアの戦い。
- 紀元前49年 - ルビコン渡河。ローマ内戦の開始。
- 紀元前48年 - ファルサルスの戦い。ポンペイウス、エジプトで殺害。
- 紀元前46年 - タプススの戦い。初の凱旋式、10年期限のディクタトル(独裁官)に選出。
- 紀元前45年 - ムンダの戦い。ローマ内戦が事実上終結。終身独裁官に選出。
- 紀元前44年 - ローマ元老院議場内で暗殺。
業績
ローマの将軍として