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ガイウス・ユリウス・カエサル
Gaius Iulius Caesar

ガイウス・ユリウス・カエサル立像
ニコラ・クストゥ作、ルーヴル美術館所蔵

渾名 カエサル(Caesar)
出生 紀元前100年頃(紀元前102年とも)
死没 紀元前44年3月15日
生地 ローマ
死没地 ローマ
出身階級 パトリキ
一族 カエサル家
氏族 ユリウス氏族
官職 財務官(紀元前69年)
按察官(紀元前65年)
最高神祇官(紀元前63年)
法務官(紀元前62年)
執政官(紀元前59年)
独裁官(紀元前46年)
終身独裁官(紀元前45年)
属州総督 ヒスパニア(紀元前61年)
ガリア(紀元前58年)
指揮した戦争 ガリア戦争(紀元前58年)
第二次ローマ内戦(紀元前49年)
後継者 オクタウィウス
カエサリオン
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ガイウス・ユリウス・カエサル古典ラテン語Gaius Iulius Caesar、紀元前100年 - 紀元前44年3月15日)は、共和政ローマ期の政治家、軍人であり、文筆家。「賽は投げられた」(alea iacta est)、「来た、見た、勝った」(veni, vidi, vici) 、「ブルータス、お前もか (et tu, Brute?)」などの特徴的な引用句でも知られる。また暦で彼の名称が使用されていた(ユリウス暦)時期が存在していた。

古代ローマで最大の野心家と言われ、マルクス・リキニウス・クラッスス及びグナエウス・ポンペイウスとの第一回三頭政治と内戦を経て、ルキウス・コルネリウス・スッラに次ぐ終身独裁官(ディクタトル)となった。

 

 

名前

ガーイウス・ユーリウス・カエサルが、古典ラテン語の当時の発音(再建音)に最も近い。長母音と短母音を区別をしないガイウス・ユリウス・カエサルは慣用的な表記である。英語読みの「ジュリアス・シーザー」(Julius Caesar) でも知られる。名前の意味は、ユーリウス氏族に属するカエサル家のガーイウスという意味である ちなみに氏族名のユーリウスとはユピテル(ジュピター)の子孫という意味である

カエサル」の名は、帝政初期にローマ皇帝が帯びる称号の一つ、帝政後期には副帝の称号となった(テトラルキア参照)。ドイツ語のKaiser(カイザー)やロシア語のцарь(ツァーリ)など、皇帝を表す言葉の語源でもある。

生涯

生誕

ガイウス・ユリウス・カエサルの生誕年として以下の2つの説がある。

  1. スエトニウス『皇帝伝』の記述に沿った紀元前100年、
  2. カエサルがプラエトル(法務官=就任資格が40歳以上)に就任した紀元前62年から逆算した紀元前102年

父は同名のガイウス・ユリウス・カエサル(英語版) (Gaius Julius Caesar) で、ガイウス・マリウスは父ガイウスの義弟に当たる。父ガイウスはプラエトルを務めた後、アシア属州属州総督を務めた。母はルキウス・アウレリウス・コッタの娘アウレリア・コッタ()で、祖先に幾人もの執政官を輩出した名家の出身であった。また、カエサルには幼少の頃から家庭教師としてマルクス・アントニウス・グニポが付けられたが、グニポはガリア系の人物であった。

なお、誕生月日も幾つかの説がある。カエサルの神格化を決議した後にカエサルの誕生日を祝う記念日を『ルディ・アポッリナレス(英語版)』(7月6日から13日まで)の最終日に当たる7月13日を避けて7月12日に設置したと伝わっているため、7月13日をカエサルの誕生日とする説が有力であるが、7月12日とする説もある。

カエサルは自身の叔母でマリウスの妻でもあったユリアの追悼演説で「ユリウス氏族アエネアスの息子アスカニウスに由来し、したがって女神ウェヌスの子孫であり、また、カエサルの母方はアンクス・マルキウス王政ローマ第4代の王)に連なる家柄である」と述べている。なお、「カエサル」という家族名の起源としては以下の説がある。

  • 大プリニウスの『博物誌』によれば、ラテン語で「切る」という意味のcaedere(受動完了分詞 caesus)に由来し、母の死後、その腹を切開することによって生まれたためにこの名前がついたとしている。
  • ローマ皇帝群像』においては、以下の4つが挙げられている。
    • 戦争で象(マウリ人の言葉、おそらくフェニキア語でcaesai カエサイ)を殺した説
    • 母の死後、切開して生まれた(上記参照)
    • 最初にカエサル姓を名乗った人物が頭の毛がふさふさしていた(caesaries カエサリエス)説
    • 灰色の瞳(oculis caesiis オクリス・カエシイス)をしていた説

ユリウス氏族カエサル家は、このように古い系譜を有する名門の貴族(パトリキ)であったが、共和政が樹立されてからカエサルの誕生までにコンスル経験者が3人と、他のパトリキに比べ少なかった。そのうちの1人がユリウス市民権法を成立させて同盟市戦争終結に貢献した伯父のルキウスである。

幼年期

幼少期のカエサルについては、プルタルコス『英雄伝』やスエトニウス『皇帝伝』などの文献に言及が無く、はっきりしない。カエサルの青年期に当たる前90年代から前80年代はローマが戦乱に明け暮れる時代であり、紀元前91年の同盟市戦争、紀元前88年から始まったミトリダテス6世率いるポントス王国とのミトリダテス戦争などがあった。また、ローマ国内も政治的に不安定で、当時ローマでは民衆を基盤とする市民会の選挙政治を中心とする民衆派(ポプラレス)、元老院を中心とした寡頭政治を支持する閥族派(オプティマテス)の2つの政治勢力が対立、各派の中心人物は民衆派がガイウス・マリウス、閥族派がルキウス・コルネリウス・スッラであった。カエサルの叔母ユリアはマリウスに嫁いでいたため、カエサルは幼少の頃より民衆派と目されていた。

ミトリダテス討伐の権限を巡ってこの両者が対立、結局スッラがポントスへ赴くことになった。しかしスッラの遠征中にマリウスにもミトリダテス討伐の任が与えられ、これに激怒したスッラは軍を率いてローマへ帰還。老年のマリウスはローマから逃げのびる。そしてスッラが元老院に念を押して再び遠征に出かけると、今度は流浪の恥辱を晴らさんとするマリウスが再びローマを制圧、ルキウス・コルネリウス・キンナと手を結びスッラを「国家の敵」と弾劾、マリウス派がスッラの支持者を粛清し、犠牲者の中には上述の伯父ルキウスもいた。「スッラがマリウスを放逐する際に反対しなかった」という理由からである(カエサルにとって義理の叔父マリウスによって、実の伯父ルキウスが殺されたことになる)。その直後の紀元前86年にマリウスは没した。紀元前84年にカエサルの父が死去した為、カエサルはカエサル家の家長となった。

紀元前83年、カエサルは神祇官を務める。しかし、この職務はパトリキのみに開放されており、前提としてパトリキと結婚する必要があったので、カエサルは婚約していた騎士階級(エクィテス)の娘コッスティアと別れ、コルネリウス氏族であるキンナの娘コルネリアと結婚した。

亡命

しかし、その直後スッラがローマへ進軍し、民衆派の抵抗を受けたがローマ市を制圧。紀元前83年に終身独裁官となり、政治的に対立する民衆派をプロスクリプティオに基づいて徹底して粛清した。血縁としてマリウスに近く、キンナの婿であるカエサルも当然この処刑リストに名が載り、彼はあやうく殺されそうになった。しかしこの時、カエサルはまだ18歳で政治活動をしたことのなかったことから、スッラの支持者、果てはローマで大変敬意を表されているウェスタの巫女からまで助命が嘆願され、スッラもこれにしぶしぶ同意する。その時スッラは「君たちにはわからないのかね。あの若者の中には多くのマリウスがいるということを」と語ったと伝えられる。 代わりにスッラはキンナの娘コルネリアとの離婚を命じたが、カエサルは拒否し、スッラの追手から逃れるため、紀元前81年に小アジアアカエアへ亡命した。

ローマから亡命したカエサルは属州での軍務に就く。アシア属州マルクス・ミヌキウス・テルムスのもとでシキリア属州駐屯の軍に籍を置き、そこでの業績で「市民冠」を授与された。 そしてビテュニア遠征の際に支援したビテュニア王ニコメデス4世のもとに非常に長期間滞在する。スエトニウスによれば、この時に王と若いカエサルは男色関係にあったのではないかという噂が立ったと言われる。また、この噂は生涯に渡って付いて回り、「ビテュニアの女王」などと政敵より攻撃される材料となった。

この頃ローマでは、制度疲労に陥っていた元老院の綻びを直し終わったスッラが紀元前80年に終身独裁官を辞していた。このスッラの行動を後年、カエサルは「スッラは政治のイロハを分かっていなかった」と評したという。

ローマ帰還

カエサルの胸像(ウィーン美術史美術館)

紀元前78年にスッラが死去したことでカエサルはローマへ帰還した。ローマに戻ったカエサルは下層階級の住むスブッラの一角に質素な家を持った。スッラ死後に挙兵した民衆派のマルクス・アエミリウス・レピドゥスはカエサルに参加を呼び掛けたが、カエサルはこれを断った。

代わりにカエサルは弁舌で一躍有名となる。当時ローマでは属州統治に現地民への脅迫や搾取・収賄を行う者が頻繁にいたが、感情のこもった手振りと息つく暇もない話しぶりで彼はそのような属州総督を次々と告発、紀元前77年には前81年に執政官へ選出されたグナエウス・コルネリウス・ドラベッラ(英語版)も告発した。この時の彼を同じく弁舌で知られたキケロも賞賛したという。

ドラベッラへの告発が不調に終わったことで復讐を恐れたカエサルは、紀元前75年にロドス島へ赴き、キケロの師で修辞学の権威として著名であったアッポロニウス・モロンに師事した。

この時カエサルはエーゲ海を船で渡っていたが、途中キリキア海賊に囚われの身となった。海賊は身代金として20タレントを要求したが、カエサルは「20では安すぎる、50タレントを要求しろ」と海賊に言い放ち、その間海賊に対して恐れもせずに尊大に接するだけではなく、「自分が戻ったらお前たちを磔にしてやるぞ」と海賊に対し冗談すら言った。そして身代金が支払われて釈放されるとカエサルは海軍を招集し海賊を追跡、捕らえてペルガモンの獄につないだ。そしてアシア属州の総督に処刑するように命じるが、総督はこれを拒否して海賊を奴隷に売ろうとする。するとカエサルは海路を引き返して、冗談でほのめかした通りに自分の命令で海賊たちを磔刑に処したという。

キャリア初期

ローマに戻ると軍団司令官(トリブヌス・ミリトゥム)に選出、クルスス・ホノルムへの道を歩み始めた。ヒスパニアでのクィントゥス・セルトリウスによるローマとの戦争(英語版)に加えて、紀元前73年にはスパルタクスらが首謀した第三次奴隷戦争が勃発、グナエウス・ポンペイウスやマルクス・リキニウス・クラッススがこれらの戦争で活躍したが、この時期にカエサルは軍の士官職を持っていたにもかかわらず、活躍をしたという記録は無い。紀元前69年に財務官(クァエストル)に就任。この頃、叔母でマリウスの寡婦であったユリアの葬儀で追悼演説を行った。またこの時、スッラの粛清以来すっかり見なくなったマリウスの像を掲げ、自らを民衆派であることを公然と示した。妻のコルネリアも同年死去した。

財務官の任務でカエサルはヒスパニアへ赴任する。ここでアレクサンドロス大王の像を目にして「アレクサンドロスの年齢に達したのにも拘らず何もなしえていない」と自らの心境を吐露し、偉業達成への意気込みを見せた。スエトニウスによると、カエサルはこの夜に母アウレリアを犯す夢を見たために激しく狼狽し、占い師から「母とは全ての母に当たる『大地』である」と助言を受けて、ようやく落着きを取り戻したとされる。 カエサルは任務を早めに切り上げてローマに戻った。そして財務官の任期を終えたことで元老院の議席を得た。

ローマに戻ったカエサルはスッラの孫であるポンペイアと結婚した。ポンペイアは裕福だったため、彼はその財産を買収や陰謀に使った。この時期、カエサルは複数のローマ転覆の陰謀への関与が取り沙汰された。一つ目はヒスパニアからローマへの帰路に通った不完全なローマ市民権しか持たないポー川より北側の都市で蜂起を唆したとされた行動、二つ目は上級按察官(アエディリス・クルリス)に就任する前の紀元前66年にクラッススを独裁官、カエサル自身はその騎兵長官(マギステル・エクィトゥム)としてローマを壟断しようとする計画であったが、いずれも未遂に終わった。

紀元前65年には上級按察官に就任した。スッラ亡き後も元老院派が政治を牛耳っていたのにもかかわらず、カエサルは公然と叔父であるマリウスの戦勝碑の修復に着手し、スッラのプロスクリプティオに基づく没収財産で財を成した者の告発を行った。同時に多額の公費を使い、同僚のマルクス・カルプルニウス・ビブルスの存在を完全に日陰にしてしまうほど派手に公共事業や公共祭儀などを行った。

カティリナ事件

"Cicerone denuncia Catilina"、カティリナ(右端)を追及するキケロ(左側手前)、イタリア人画家チェーザレ・マッカリ(英語版)による1888年の作

紀元前63年、護民官ティトゥス・ラビエヌスと共闘して元老院議員ガイウス・ラビリウスを37年前の民衆派の護民官ルキウス・アップレイウス・サトゥルニヌス殺害の容疑で告発、ラビエヌスを告発側に就かせた。この時、弁護側にはキケロとホルタルスが就いた。そしてラビリウスは国家反逆罪で断罪された。この時、護民官メテッルス・ケレルヤヌスの丘に戦時召集の旗が掲げてあるのを見て民会を緊急召集したため、裁判自体はうやむやになった。

同年、カエサルはスッラの治世中に任命された前任のクィントゥス・カエキリウス・メテッルス・ピウスの死去に伴い、最高神祇官に立候補する。そして彼は同じく立候補した前職の執政官カトゥルスイサウリクスとその座を争うことになり、互いに職を巡っての贈賄の告発が続く事態となる。この時、既に選挙運動で多額の借金を抱え(その最大の債権者がクラッススであった)、もし落選すれば再び国外退去するつもりでいたカエサルは、母アウレリアに「最高神祇官にならなければ(自宅に)戻ってくることはないでしょう」と言った。カエサルは2人の対立候補を抑えて当選し、晴れて公邸(レギア)に住む身となった。

さらにこの年はルキウス・セルギウス・カティリナ一味による国家転覆の陰謀が発覚、この年の執政官であったキケロは熱弁を奮ってカティリナ一味を断罪した。元老院議員たちの間で互いに疑心暗鬼となり陰謀の対処に追われる中、カエサルは陰謀に加担した者の死刑に反対、あくまでも終身の投獄を主張する立場をとる。これに対してマルクス・ポルキウス・カトは処刑を徹底主張し、結局陰謀者たちは処刑された。カエサルは方針決定後も更に妨害を続けたが、キケロやカトの意見を支持する一団に打ち殺されそうになった為、カエサルはすっかり腰が引けてしまい、その年は家に引篭もった。

紀元前62年には陰謀のさらなる追求のため委員会が設置された。その中でキケロは陰謀が何たるか報告を事前に受けていたという証言があったが、彼は容疑の潔白を証明し、逆に自分を告発した人物、そして委員会のメンバーの1人も獄につながれる事態となった。その間にカエサル(この年、プラエトル(法務官)に選出されていた)は一貫して処罰の連座制に反対の立場を貫いた。なお、カエサルはクラッススと共に裏で陰謀を画策していたとも伝えられた。。

また、カエサルがこの陰謀に関わっていたという会議中に、彼は手紙を部下から受け取った。それを見たカトは、陰謀に加担した証拠だと中身を見せろと詰め寄った。カエサルは「これは大したものではない」と見せることを躊躇う様子を見せたが、カトが執拗に要求してきたので中身を見せると、それは愛人セルウィリア(カトの異父姉)からの恋文だったという。カトは「この女たらし!」と罵倒したが、それでカエサルを追求できなくなり、議場は大爆笑となった。これでカエサルへの疑いはかき消されたという。

三頭政治

紀元前61年、カエサルは、前法務官(プロプラエトル)としてヒスパニア・ウルステリオル属州総督として赴任した。カエサルはヒスパニアへ向かう道中に立ち寄った寒村で、部下に対して「ローマ人の間で第2位を占めるよりも、この寒村で第1人者になりたいものだ」と語ったという。 カエサルは属州総督としてローマ軍を率いてルシタニ族英語版)やガッラエキ族(英語版)を討伐し、ローマへ服属していなかった部族も従えた。カエサルはこの属州総督時代に大金を得た。

紀元前60年、コンスルをめざすカエサルは、オリエントを平定して凱旋した自分に対する元老院の対応に不満を持ったポンペイウスと結び執政官に当選する。ただこの時点で、すでに功なり名を成したポンペイウスに対し、カエサルはたいした実績もなく、ポンペイウスと並立しうるほどの実力はなかった。そこでポンペイウスより年長で、エクィテス(騎士階級)を代表し、スッラ派の重鎮でもあるクラッススを引きいれてバランスを取った。ここに第一回三頭政治が結成された。民衆派として民衆から絶大な支持を誇るカエサル、元軍団総司令官として軍事力を背景に持つポンペイウス、経済力を有するクラッススの三者が手を組むことで、当時強大な政治力を持っていた元老院に対抗できる勢力を形成した。

執政官在任中にまず、元老院での議事録を即日市民に公開する事を定めた。それまでは議員から話を聞く以外には内容が知られることはなかっただけに、議員たちはうかつな言動は出来なくなった。また、グラックス兄弟以来元老院体制におけるタブーであった農地法を成立させる。当初、元老院はこの法案に激しく反対したが、カエサルは職権で平民集会を招集、巧妙な議事運営で法案を成立させるとともに、全元老院議員に農地法の尊重を誓約させることに成功した。