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始皇帝 嬴政
初代皇帝
Qinshihuang.jpg
王朝
在位期間 前247年五月丙午[1] - 前210年七月丙寅[2]
都城 咸陽
姓・諱 嬴政
生年 前259年正月1月?[注 1]
没年 前210年9月10日(秋7月22日(丙寅) )
荘襄王
趙姫
陵墓 始皇帝陵

『史記・秦始皇本紀』

始皇帝(しこうてい、紀元前259年 - 紀元前210年)は、中国戦国時代(在位紀元前246年 - 紀元前221年)。(えい)、(ちょう)、(せい)。現代中国語では、秦始皇帝拼音: Qín Shǐ Huángdì)、または秦始皇拼音Qin shi huang pronunciation 2.ogg Qín Shǐ Huáng[ヘルプ/ファイル] チンシュフアン)と称する。紀元前221年に史上初の中国統一を成し遂げると最初の皇帝となり[6]、紀元前210年に49歳で死去するまで君臨した。

中国統一を成し遂げた後に「始皇帝」と名乗った。歴史上の重要な人物であり、約2000年に及ぶ中国皇帝の先駆者である。統一後始皇帝は、重臣李斯とともに主要経済活動や政治改革を実行した。従来の配下の一族等に領地を与えて世襲されていく封建制から、中央が選任・派遣する官僚が治める郡県制への全国的な転換(中央集権)を行い、国家単位での貨幣や計量単位の統一、交通規則の制定などを行った。しかし、万里の長城の建設や、等身大の兵馬俑で知られる秦始皇帝陵の建設などを、多くの人民に犠牲を払わせつつ行った。また、法による統治を敷き、焚書坑儒を実行したことでも知られた。

 

目次

省略

「始皇帝」の称号

始皇帝
Shǐ Huángdì
小篆体で書かれた「始皇帝」

意味

の時代及びその後(紀元前700年 - 紀元前221年)の中国独立国では、「王」の称号が用いられていた。紀元前221年に戦国時代に終止符を打った秦王政は事実上中国全土を統治する立場となった。これを祝い、また自らの権勢を強化するため、政は自身のために新しい称号「秦始皇帝」(最初にして最上位の秦皇帝)を設けた。時に「始皇帝」と略される。

  • 「始」は「最初(一番目)」の意味である。始皇帝の後継者はその称号を一部受け継ぎ、世代が下がるごとに「二世皇帝」「三世皇帝」という称号を受ける。
  • 「皇帝」は、神話的な三皇五帝より二つの漢字を抜き取って作られた。ここには、始皇帝が黄帝の尊厳や名声にあやかろうとした意思が働いている。
  • さらに、漢字「皇」には「光輝く」「素晴らしい」という意味があり、また頻繁に「天」を指す形容語句としても用いられていた。
  • 元々「帝」は「天帝」「上帝」のように天を統べる神の呼称だったが、やがて地上の君主を指す言葉へ変化した。そこで神の呼称として「皇」が用いられるようになった。始皇帝はどの君主をも超えた存在として、この二文字を合わせた称号を用いた。

『史記』における表記

司馬遷が著した『史記』において、「秦始皇帝」と「秦始皇」の両方の表記を見ることができる。「秦始皇帝」は「秦本紀」にてや6章(「秦始皇本記」)冒頭や14節、「秦始皇」は「秦始皇本記」章題で使われる。秦王政は二つの文字「皇」と「帝」を合わせて新たに「皇帝」という言葉を作ったため、「秦始皇帝」の方が正式だったと考えられる。

生誕と幼少期

秦人の発祥は甘粛省で秦亭と呼ばれる場所と伝えられ、現在の天水市清水県秦亭郷にあたる。秦朝の「秦」はここに通じ、始皇帝は統一して、郡、県、郷、亭を置いた[20] 。

人質の子[編集]

詳細は「奇貨居くべし」を参照

誕生時につけられた始皇帝のは「政」という。秦の公子であった父・「子楚」(別名:異人)が当時、休戦協定人質としてへ送られており[3]、秦ではなく趙の首都・邯鄲で生まれたため「趙政」とも呼ばれた[21]。ただ父・子楚は公子とはいえ、20人以上の兄弟がいた腹であった。それどころか祖父・安国君(子楚の父。後の孝文王。曽祖父・昭襄王の次子)は曽祖父の後継ですらなかった。

秦王を継ぐ可能性がほとんどない子楚は、昭襄王が協定をしばしば破って軍事攻撃を仕掛けていたことで、秦どころか趙でも立場を悪くする。当然いつ殺されてもしかたがない身であり、人質としての価値が低かった趙では冷遇されていた[22]

そこでの裕福な商人であった呂不韋が目をつけた。安国君の正室ながら子を産んでいなかった華陽夫人中国語版)に大金を投じて工作活動を行い、また子楚へも交際費を出資し評判を高めた[7]。子楚は呂不韋に感謝し、将来の厚遇を約束していた。そのような折、呂不韋の妾 (趙姫)[3] を気に入って譲り受けた子楚は、昭襄王48年(前259年)の正月に男児を授かった。正月にちなみ「政」と名付けられたこの赤子が、後に始皇帝となる[5][21][22]

血筋に対する議論

時代に成立した『史記』「呂不韋列伝」には、政は子楚の実子ではなかったという部分がある。呂不韋が趙姫を子楚に与えた際にはすでに妊娠していたという[3][23][24]後漢時代の班固も『漢書』にて始皇帝を「呂不韋の子」と書いている[25]

始皇帝が非嫡子であるという意見は死後2000年経過して否定的な見方が提示されている[10]。呂不韋が父親とするならば、現代医学の観点からは、臨月の期間と政の生誕日との間に矛盾が生じるという[26]。『呂氏春秋』を翻訳したジョン・ノブロック、ジェフリー・リーゲルも、「作り話であり、呂不韋と始皇帝の両者を誹謗するものだ」と論じた[27]

郭沫若は、『十批判書』にて3つの論拠を示して呂不韋父親説を否定した[24][2- 1]

  1. 『史記』の説は子楚と呂不韋について多く触れる『戦国策』にて一切触れられていない。
  2. 『戦国策』「楚策」や『史記』「春申君列伝」には、国の春申君幽王が実は親子だという説明があるが、呂不韋と始皇帝の関係にほぼ等しく、小説的過ぎる。
  3. 『史記』「呂不韋列伝」そのものに矛盾があり、始皇帝の母について「邯鄲諸姬」(邯鄲の歌姫[23])と「趙豪家女」(趙の富豪の娘[28])の異なる説明がある。政は「大期」(10ヵ月または12ヵ月)を経過して生まれたとあり[23]、事前に妊娠していたとすればおかしい。

陳舜臣は「秦始皇本紀」の冒頭文には「秦始皇帝者,秦莊襄王子也」(秦の始皇帝は荘襄王の子である)と書かれていると、『史記』内にある他の矛盾も指摘した。

死と隣り合わせの少年

政の祖父・安国君は亡くなった兄の代わりに太子となった。だが曽祖父の昭襄王は子楚らに一切配慮せず趙を攻め、紀元前253年にはついに邯鄲を包囲した。そのため人質として趙側に処刑されかけた子楚だったが、番人を買収して秦への脱出に成功した。しかし妻子を連れる暇などなかったため、政は母と置き去りにされた。趙はこの二人を殺そうと探したが巧みに潜伏され見つけられなかった。陳舜臣は、敵地のまっただ中で追われる身となったこの幼少時の体験が、始皇帝に怜悧な観察力を与えたと推察している。

邯鄲のしぶとい籠城に秦軍は撤退した。そして前250年に昭襄王が没し、1年の喪を経て安国君が孝文王として即位すると、呂不韋の工作どおり子楚が太子と成った。そこで趙では国際信義上やむなく、10歳になった[30]政を母の趙姫と共に秦の咸陽に送り返した。ところが孝文王はわずか在位3日で亡くなり、紀元前249年に「奇貨」子楚が荘襄王として即位すると、呂不韋は丞相に任命された[24]

即位

若年王の誕生

荘襄王と呂不韋は周辺諸国との戦いを通じて秦を強勢なものとし]。しかし前246年、荘襄王は在位3年という短い期間で死去し、13歳の政が王位を継いだ。まだ若い政を補佐するため、周囲の人間に政治を任せ、特に呂不韋は相国となり戦国七雄の他の六国といまだ戦争状態にある秦の政治を執行した(蕞の戦い(中国語版))。呂不韋は仲父と呼ばれるほどの権威を得て、多くの食客を養い、『呂氏春秋』編纂なども行った。

呂不韋はひとつ問題を抱えていた。それは太后となった趙姫とまた関係を持っていたことである。発覚すれば身の破滅につながるが、淫蕩な彼女がなかなか手放してくれない。そこで呂不韋は自分の代わりを探し、適任の男・嫪毐を見つけた[34]。あごひげと眉を抜き、宦官に成りすまして後宮に入った嫪毐はお気に入りとなり、侯爵を与えられた[33]。やがて大后は妊娠した。人目を避けるため旧都・雍(鳳翔県)に移ったのち、嫪毐と大后の間には二人の男児が生まれた。

このことは秦王政9年(前238年)、22歳の時に露見する。元服の歳を迎え、しきたりに従い雍に入った。『史記』「呂不韋列伝」では嫪毐が宦官ではないという告発があったと言い、同書「始皇本紀」では嫪毐が反乱を起こしたという。ある説では、呂不韋は政を廃して嫪毐の子を王位に就けようと考えていたが、ある晩餐の席で嫪毐が若王の父になると公言したことが伝わったともいう[34]。または秦王政が雍に向かった隙に嫪毐が大后の印章を入手し軍隊を動かしクーデターを企てたが失敗したとも言う。結果的に嫪毐は政によって一族そして大后との二人の子もろとも殺された。

事件の背景が調査され、呂不韋の関与が明らかとなった。しかし過去の功績が考慮され、また弁護する者も現れ、相国罷免と封地の河南での蟄居が命じられたのは翌年となった。だが呂不韋の名声は依然高く、数多くの客人が訪れたという。秦王政12年(前235年)、政は呂不韋へ書状を送った。

君何功於秦。秦封君河南,食十萬戶。君何親於秦。號稱仲父。其與家屬徙處蜀!

秦に対し一体何の功績を以って河南に十万戸の領地を与えられたのか。秦王家と一体何のつながりがあって仲父を称するのか。一族諸共蜀に行け。— 史記「呂不韋列伝」14

流刑の地・蜀へ行ってもやがては死を賜ると悟った呂不韋は、服毒自殺した。吉川忠夫は嫪毐事件の裏にあった呂不韋の関与は秦王政にとって予想外だったと推測したが、陳舜臣は青年になった政がうとましい呂不韋を除こうと最初から考えていた可能性を示唆し、事件から処分まで3年をかけた所は政の慎重さを表すと論説した。秦王政は呂不韋の葬儀で哭泣した者も処分した。

専制

詳細は「秦六国の戦い中国語版)」を参照

紀元前234年桓齮に命じてを攻めさせた(肥の戦い(中国語版))。

李斯と韓非

秦王政による親政が始まった年、灌漑工事の技術指導に招聘されていた韓の鄭国が、実は国の財政を疲弊させる工作を図っていたことが判明した。これに危機感を持った大臣たちが、他国の人間を政府から追放しようという「逐客令」が提案された[37]。反対を表明した者が李斯だった。呂不韋の食客から頭角を現した楚出身の人物で、李斯は「逐客令」が発布されれば地位を失う位置にあった。しかし的確な論をもっていた。秦の発展は外国人が支え、穆公の大夫であった百里奚蹇叔らを登用し[37]孝公王族だった商鞅から[38]恵文王出身の張儀から、昭襄王は魏の范雎かそれぞれ助力を得て国を栄えさせたと述べた。李斯は性悪説の荀子に学び、人間は環境に左右されるという思想を持っていた[37]。秦王政は彼の主張を認めて「逐客令」を廃案とし、李斯に深い信頼を寄せた。

商鞅以来、秦は「法」を重視する政策を用いていた[38]。秦王政もこの考えを引き継いでいたため、同じ思想を説いた『韓非子』に感嘆した。著者の韓非は韓の公子であったため、事があれば使者になると見越した秦王政は韓に攻撃を仕掛けた。果たして秦王政14年(前233年)に使者の命を受けた韓非は謁見したが、すでに彼は故国に絶望し、自らを覇権に必要と売り込んだ。しかし、これに危機を感じた李斯と姚賈の謀略にかかり死に追いやられた。秦王政が感心した韓非の思想とは、『韓非子』「孤憤」節1の「術を知る者は見通しが利き明察であるため、他人の謀略を見通せる。法を守る者は毅然として勁直であるため、他人の悪事を正せる」という部分と、「五蠹」節10文末の「名君の国では、書(詩経書経)ではなく法が教えである。師は先王ではなく菅吏である。勇は私闘ではなく戦にある。民の行動は法と結果に基づき、有事では勇敢である。これを王資という」の部分であり、また国に巣食う蟲とは「儒・俠・賄・商・工」の5匹(五蠹)であるという箇所にも共感を得た。