広島と長崎への原爆投下、そして無条件降伏という最悪の形での終戦。爾来、幾度となく繰り返されてきた慰霊祭や平和への誓い。この夏もまた例年どおり、お決まりどおりの、形骸化された国民的な年中行事としてそれらが執り行われたのですが、しかし、戦争の核心と本質に迫ることを極力避けるという、日本人的と言えばあまりに日本人的な、呆れ果てた配慮のせいで、結局は情緒の結集という成果のみで、打ち上げ花火がもたらす感動のたぐいに包まれた程度で、戦争の何たるかはむろん、平和の何たるかも理解できず、さらさらと流れる時の流れに身と心を任せてお終いというわけです。
この調子でゆくと、大震災にしても原発事故にしても、十年後、二十年後は、おそらく戦争と同じようにして、単なる情緒の起爆剤の役割のみを果たし、歴史のなかのひとつの記録ということで片づけられてしまうのでしょう。つまり、学習能力に著しく欠けた国民性ということになります。真の反省がなければ真の進歩など絶対にあり得ません。問題を掘り下げなければ、本当の答えなど出るわけがないのです。その結果、同じ失敗を幾度も反復するというのは、人間としての魂の在り方そのものが疑問ということになり、そもそも人間になろうとする意志が欠如しているのかもしれません。
猿は猿のままで猿なのですが、しかし、人間は人間になろうとしなければ人間になれないのです。人間の外貌をした猿のまま一生を過ごしたくないと思うのなら、情緒の前で立ち往生するのではなく、人間らしい理性を働かせ、ともあれその時々の強者に従うという生き方を根本から改めるべきなのです。