大震災と大津波がもたらした犠牲者たちを追悼するための式典やテレビとラジオの特別番組は、結局のところ、情緒一辺倒に終始してしまい、悲しみと優しさと癒しと、励ましと誓いに塗り込められ、そのなかにどっぷりと埋没し、どこか自己満足に似て、けっしてそれ以上のものになり得なかったのは残念至極です。
とはいえ、前回の大震災のときもそうでしたから、正直なところ、今回もあまり期待はしていませんでした。案の定、物事の本質と核心を蔑ろにした、単なるイベントの域を脱することができず、つまり、あとは生き残った者同士で力を合わせ、一丸となって復興のために全力を尽くそうではないかという、それだけの結論が出されただけでした。
本当にこれだけでいいのでしょうか。命を落とした人々がそれしきのことだけで満足してくれるのでしょうか。かれらが心底から願っているのは、次に必ず起きる災害をどうやって防ぐのかという具体的な方策と実行力をはっきり示してくれることのほうを、しんみりとした楽曲や涙を流すことや、献花や、黙禱や、読経や、焼香や、追悼の言葉よりも望んでいたのではないでしょうか。
もっと正直に言うならば、最重要で、かつ深刻な問題を誤魔化すための、そして自分自身を安易なところで妥協させてしまうための、逃避と偽りのセレモニーでしかなかったのです。復興への情熱一本に的を絞ってしまうことで、真の解決策につながる原因探求をチャラにするという悪癖は、いずれ致命的な衰退を差し招くことになるでしょう。そして、それはすでに始まっているのです。