戦後の数十年間は、確かに集団や組織の力でどうにか発展と繁栄の道を辿ることができたのですが、しかし、そうした力にもおのずと限界があり、というか、それは真の進歩を差し招くことが不可能な力であり、これ以上を本気で望むのなら、個人が秘める潜在能力を存分に活かせるような社会をめざすべきなのです。
ところが、日本人は個人の立場に戻ることに対して、ほとんど本能的な恐怖感を抱いており、これは群生動物の宿命なのでしょう。ですが、動物ではなく、人間として生きようとするには、この宿命に敢然と立ち向かい、孤なる個という最も弱い立場を、歯を食いしばってしっかりと確立させる必要があるのです。それにはまず意志の力をさらに育み、意志が自由を征する鍵であることを充分に自覚しなければなりません。そして、古い社会の仕組みと闘い、全体主義的な残滓を確実に排除することが重要になります。
つまり、寄らば大樹の陰という、長いものには巻かれろという、強者には従えという、人間としては最低の選択を斥け、事大主義の道から敢えて外れる覚悟と実行力が欠かせないということです。ところが、若者たちは依然として粗雑な判断の結果としてのドロップアウトがせいぜいといったところで、おのれのなかにある未知なる能力を引き出す努力をすることなく、ということは、本当の自分を知ろうとすることもなく、可能性の大海原の岸辺で溺死する体たらくを自ら容認しているありさまなのです。
自分の人生を生きるのに何の遠慮が要るのでしょうか。さもなければ、闘わずして白旗を上げてしまっている自分を客観的に見つめるだけのささやかな意志すら持ち合わせていないということなのでしょうか。
ところが、日本人は個人の立場に戻ることに対して、ほとんど本能的な恐怖感を抱いており、これは群生動物の宿命なのでしょう。ですが、動物ではなく、人間として生きようとするには、この宿命に敢然と立ち向かい、孤なる個という最も弱い立場を、歯を食いしばってしっかりと確立させる必要があるのです。それにはまず意志の力をさらに育み、意志が自由を征する鍵であることを充分に自覚しなければなりません。そして、古い社会の仕組みと闘い、全体主義的な残滓を確実に排除することが重要になります。
つまり、寄らば大樹の陰という、長いものには巻かれろという、強者には従えという、人間としては最低の選択を斥け、事大主義の道から敢えて外れる覚悟と実行力が欠かせないということです。ところが、若者たちは依然として粗雑な判断の結果としてのドロップアウトがせいぜいといったところで、おのれのなかにある未知なる能力を引き出す努力をすることなく、ということは、本当の自分を知ろうとすることもなく、可能性の大海原の岸辺で溺死する体たらくを自ら容認しているありさまなのです。
自分の人生を生きるのに何の遠慮が要るのでしょうか。さもなければ、闘わずして白旗を上げてしまっている自分を客観的に見つめるだけのささやかな意志すら持ち合わせていないということなのでしょうか。