応援やファンというかたちでもって、他者の生きざまに感動を求め、そのおこぼれに与って自身の人生を充実させたり、歓喜を得たりするのは、そうするしかないような、あまりにも寂しい立場に追いやれている証拠ではないでしょうか。
本来ならば、他の生き物たちとまったく同じように、おのれの生涯を精いっぱい生き抜くことに熱中し、また、夢中になれるように造られているはずなのですが、しかし、特定少数の支配階級によって生における急所を握られてしまい、かれらに運命全体を押さえこまれてしまっているために、現実の自分の人生は鉛色の面白くもなんともない、ただ毎日を辛うじて生きてゆかれるという程度の条件に甘んじなければなりません。
そうなると、もはや自分の人生に期待するわけにはゆかなくなり、それに取って代わるものを他に求めるしかないような状況に追いこまれてしまうわけです。そして、そうしたシステムの社会が常識化され、当たり前となり、それ以外はあり得ないと思いこみ、そこから外れた場合には恐るべき恐怖に晒され、実はそこに自由の入口が存在するにもかかわらず、あたかも身の置き所を失ったような疎外感を味わうのです。
人生の醍醐味は自分自身の人生を送ることであって、それ以外ではありません。不安定というリスクを減らせてもらえるかもしれないという甘い誘いについうっかり乗って他人の人生の駒として使い捨てされるのは人生とは呼べないのです。そして、その惨めな立場を忘れたいがために、おのれとはかけ離れた世界で活躍している、おのれとはなんの関係もない他人のきらきらした人生の上っ面を取りこんでみたところで、その惨めさは募るばかりということになるでしょう。