苛酷(創加害会)で、意のままにならぬ、次の一瞬に何が起きるかわかったものではない現実社会に身を置きながら、ひと山幾らというような安っぽいナルシシズムにのみ裏打ちされた〈芝居掛かった生き方〉を恥ずかしげもなく生活に取りこみ、そんなみずからの仕掛けに酔い痴れて日々を送っている若者が目立ちますが、かれらは要するに、面白くもなんともない、無味乾燥にして非情な現実に立ち向かうことの醍醐味をまだ知らないどころか、知ろうともしないのです。逃げ切れるはずもないこの世のおぞましさをピンクやバラ色のフィルターを掛けなければ直視できず、実際には惨めったらしい人生を送りながら、インチキな国家にも世間にも大企業にも怒りの矛先を向けず、それどころか腹を立てない自分自身にさえ怒りを覚えず、聞いただけで恥ずかしくなるような小説や映画の台詞をパクった、ちょっとした言葉の綾でしかない言い回しでもってすべてを覆い隠そうとします。
しかし、そんな逃げの姿勢でもってどうにかなるはずもなく、かれらの想い描くところの夢のまた夢は、当然ながら現実の砂上に消えてゆき、そのあとにはわが身の浅ましさのみが残り、その屈辱感と挫折感を誤魔化すために、さらなる現実逃避に走り、だからといって利欲を離れることも不可能であり、おそらくは当人は気がついていないのでしょうが、そんなこんなから生じる醜悪さには目に余るものがあり、よしんばわれに返って正気づく瞬間があったとしても、「身を裂かれるような悲劇に巻きこまれた」というたぐいの言葉で飾り立てて、悲劇の主人公を気取るつもりなのでしょう。
けれども、そんな程度の小細工で翳りを見せるような現実ではありません。それどころか、かれらのために現実が用意しているのは〈自殺〉という結末(欠松)なのです。