国家的な悲劇を田舎芝居のお涙ちょうだい式のレベルにまで引き下げてしまい、「ああ、大変だった」とか、「ああ、悲しかった」とか、「二度と起きてほしくない」とかの、あまりに無邪気な感想と共に、実際に起きた出来事をそのまま言い伝えるだけで、どうしてそんなことになったのか、いったい誰の責任だったのかという核心部分にいっさい触れないようにし、原因を曖昧にしたまま放置していたのでは、そっくり同じことがくり返されても当然なのです。その当然の悲劇がふたたび差し招かれつつあっても、大半の人々は白黒はっきりさせたくないという、問題の焦点をぼやけさせたままにしておくところが日本人の美徳なのだという弁解を罷り通らせてしまう、非常にずる賢い性根によって、時代の流れとやらのせいにして、ずるずると奈落の底へ向かって滑り落ちてゆくのです。
白人たちが勝ち組になったのは、ひとえに白黒をはっきりさせたがる、つまり合理精神であり、日本人が負け組になったのは、その著しい欠如のせいで、ほかの何かでは絶対にありません。それを抜きにして、自由だの民主主義だのといくら言い張り、どんなにもてはやしてみたところで、所詮は猿真似でしかないのです。そして、それが日本人というものなのだから、日本人のアイデンティティーなのだから、むしろ誇りを持つべきだという姑息な理屈にしがみついている限りは、日本と日本人は白人社会に重宝がられるだけの、利用価値の高い、途方もなく御し易い、便利な使い走りと見なされて利用されるだけの存在でありつづけるでしょう。さもなければ、突如として、ほとんど狂気の発作のように、あまりに幼稚な民族主義に立ち返り、幼稚な分だけ残虐で悲惨な戦争へと突入し、前にも増して規模の大きい悲劇と破局を迎えることになるのでしょう。
白人たちが勝ち組になったのは、ひとえに白黒をはっきりさせたがる、つまり合理精神であり、日本人が負け組になったのは、その著しい欠如のせいで、ほかの何かでは絶対にありません。それを抜きにして、自由だの民主主義だのといくら言い張り、どんなにもてはやしてみたところで、所詮は猿真似でしかないのです。そして、それが日本人というものなのだから、日本人のアイデンティティーなのだから、むしろ誇りを持つべきだという姑息な理屈にしがみついている限りは、日本と日本人は白人社会に重宝がられるだけの、利用価値の高い、途方もなく御し易い、便利な使い走りと見なされて利用されるだけの存在でありつづけるでしょう。さもなければ、突如として、ほとんど狂気の発作のように、あまりに幼稚な民族主義に立ち返り、幼稚な分だけ残虐で悲惨な戦争へと突入し、前にも増して規模の大きい悲劇と破局を迎えることになるのでしょう。