天文3年(1534年)5月12日、尾張国の戦国大名・織田信秀の嫡男として誕生。生まれは勝幡城(現在の愛西市勝幡町~稲沢市平和町六輪)[3]と那古野城[4][注釈 6](現在の名古屋市中区)の二説があるが、近年研究者の間では勝幡城説が有力になってきている[5]。 幼名は吉法師(きっぽうし)。なお、信長の生まれた「織田弾正忠家」は、尾張国の守護大名・斯波氏の被官で下四郡(海東郡・海西郡・愛知郡・知多郡)の守護代に補任された織田大和守家(清洲織田家)の家臣にして分家であり、清洲三奉行・古渡城主という家柄であった。
母・土田御前が信秀の正室であったため嫡男となり、2歳にして那古野城主となる。
家督争いから尾張統一・上洛
清洲城
当時、尾張国は今川氏の侵攻により守護の斯波氏の力が衰え、尾張下四郡を支配する守護代であった「織田大和守家」当主で清洲城主の織田信友が実権を掌握していた。信長の父・信秀はその信友に仕える三奉行の一人に過ぎなかったにも関わらず、その智勇をもって尾張中西部に支配権を拡大した。信秀の死後、信長が跡を継ぐと、信友は信長の弟・織田信勝の家督相続を支持して信長と敵対し、天文23年(1554年)に信長謀殺計画を企てるが、信友により傀儡にされていた守護・斯波義統が、計画を信長に密告した。これに激怒した信友は義統の嫡子・斯波義銀が手勢を率いて川狩に出た隙に義統を殺害する。
目次
- 1生涯
- 2年表
- 3人物
- 4肖像
- 5政策
- 6実現されなかった計画・構想
- 7後世の評価
- 8系譜
- 9家臣
- 10墓所・霊廟・寺社
- 11関連事項
- 12脚注
- 13参考文献
- 14関連項目
- 15外部リンク