ホームセンターへ行って、縄とオムツと練炭とガムテープとを探す。
死ぬ時ってもっと衝動的に包丁で死ぬのかと思ってたけど、案外人間は冷静で、1度頭の中で死ぬということを見つめ直すと、
ではどう死ぬのが1番痛くないのか?見た目はどうなる?残された人にとって救いがある死に方はどんな死に方だろう?
と、旅行の計画を立てる時のように、リサーチとシュミレーションを重ねて、
よしそれじゃあ首吊りだ。もし上手くいかなかったらシフトできるように練炭も買っておこうか。
とか、予備のプランまで立て出す始末。
生きるのに必死だった時は、死ぬのは怖い、どうしたら普通に、上手に、生きれるだろう。とあんなに一生懸命だったのに、もし中途半端な状態で助かってしまって、「生き長らえてしまった」時の方が怖くなった。
私の人生は、特別不幸ということもなかった。いつも人に囲まれていて、生きることを望まれていて、もっと大変な人なんて、もっと恵まれていない人なんて、探すまでもなかった。
ただ幸せを幸せのまま受け取れない人間だった。
自分の本当の気持ちに気づけない幼少期
思えば兆候は幼稚園の時からあった。年下の小さな子から話しかけられただけで大泣きしてしまったり、夜眠る時、将来大人になった時のことを漠然と考えて「自分には手に余る」と幼ながらに眠れなくなった事もあった。
小学校にあがると、周りをたくさんの人に囲まれる望ましい子供となった。周りが何を望んでいるのか、どう振る舞えば気に入ってもらえるのか、手に取るようにわかった、ような気がしていた。
それなのに、5年生に上がった頃、私はいじめを受けた。
たった一つの失敗だった。子供らにとっては十分すぎるきっかけだった。
今まで周りから望まれ続けた立場から引きずり下ろされ、私は大いに苦しんだ。それは確かに事実だった。それよりも重要だったことは、
その不幸を心地よいと感じる自分がいた事だった。
その頃の私は幼すぎて、自分の中のどす黒い感情に気づくことはできなかった。周りの大人たちから様々な特別扱いを受け、クラスの日陰者たちからは陰ながら心配され、
「私は可哀想なんだ。私はとっても大変なんだ」
と自覚するようになった。確かにいじめは辛かった。確かに学校には行けなくなった。でも、その不幸になにか居心地の良さのような、「私はこうあるべきだった」と感じるような。かくして私は小学校を卒業し、公立とは別の中学校に入学した。
異変に気づく少女期
中学校でも、私は周りに人が集まるような目立つポジションにいた。何を言えば周りが笑って、何を言えば周りに嫌われるか手に取るようにわかった。
中学2年の夏、「周りに望まれる私」が保てなくなった。
特に特別な出来事もなかった。嫌いな子がいたわけでも、私を嫌う子がいたわけでもなかった。今これを言えばいい、こうすればいい、全部わかるのに、笑えない、起きれない、歩けない、答えられない、なにかおかしい。
そこから私は学校に行けなくなった。また周りからは「特別扱い」された。クラス替えは私の思い通りになった。保健室登校でも、校長室登校でも、部活のみ登校でも、なんでも許された。このままではいけない。誰にとっても私は有用ではない。そう分かっていながらも、また「不幸であることの居心地の良さ」が襲ってきた。
この時、もう私は自分の気持ちがわからないほど幼くなかった。周りに気を遣わせ、世にいう「普通」でなくなったこの状況が、「心地いい」。私は自分のあまりの救いようのなさに、「死にたい」、希死念慮を感じるようになった。
2年ほど、家にひきこもった後、高校進学がやってきた。そんなに賢い高校でもなかったが試験には合格し、1週間ほど通い、また行けなくなった。
受験費、制服代、家庭教師代、入学費、今まで私が生きるためにかけた全ての費用が、無駄になった気がした。シングルマザーで苦労している母親に対し、死で償うことはあまりにも残酷だろうかと考えながら、泣きながら謝ると、母は私が死へ滑り落ちようとするのを受け止めるように飄々としながら、「高校なんか、行けなくたっていいよ」と言った。
この時から今に至るまで、生きるのがあまりにも辛い時、1番の恨むべき対象は私を産んだ母親であると考えることもあったが、そんな逃げ道を消すように、母親はあまりにも完璧で、悪いのはこのような形で生まれてきてしまった私の方だと言われているようだった。
合格した高校を中退し、通信制高校に入学した。最初は週に1度行くだけだったが、2年生になった頃、大学受験を考え、勉強を始めると、中学校に行っていなかったのが嘘かのように偏差値が上がっていった。この高校の制度も、受験生向けの講座などもあり、勉強するにはうってつけの環境だった。
その後私は、多くの人が名前を聞いたことがあるような、有名大学に入学した。
リベンジから今にいたるまで
中学からドロップアウトし、高校で猛勉強し、有名大学に入学する。
なんてできすぎたシナリオだろう。こんなに望ましい人生があるだろうか。
大学に入ってからも今までと同様、たくさんの友達に恵まれた。大学は1回生の間は忙しかったが、2回生3回生ではコロナウイルスの影響でオンラインになり、通うこともほとんどなかった。授業は受験勉強以外の範囲は全く分からなかったが、それでも周りに支えられながらなんとか進級した。
3回生になり、夢ができた。私は人と話す、特に教えることが好きだった。日本語教師になりたい。
そうと決まれば速い。講座に通い、さっさと資格を取り、大学生の間に働ける状態になった。
完璧な人生設計だ。4回生の間で経験を積み、そのまま就職し、この職を続け、結婚し、子供は作らないながらも幸せに暮らす。
働き初めて半年ほど経った頃、
なにもできなくなった。
この感覚はもう知っている感覚だった。
「学校は私もたくさん休んでたよ。」
「仕事になったら変わるって!」
「大学に行けさえすればなんとかなるから。」
全てが崩れ落ちる感覚がした。
あ、わたし、週に4回の授業で動けなくなるんだ。
そりゃあそうだ、まともに学校すら通ったことがないのに。なぜ教える側になったらできると思っていたんだろう。
わたし、好きな仕事ですらできないんだ。
おかね、稼げないんだ。
誰かに寄生しないと、生きていけないんだ。
大学合格なんて、ただの延命だったんだ。
この事実に、できるだけ遅くまで気づかないでいられるように、延命されられてたんだ。
もう、いいか。
誰かと結婚して、稼いできてもらうというのは、正直望めない話ではあった。
私が学校へ行けなくなる理由、動けなくなる理由、それは私がHSPだからだった。
調べてもらえばわかることだが、HSPは、全ての感覚が鋭敏で、人よりも刺激の受け取り方や発信の仕方が大きくなる人のことを言う。
ただ人より疲れやすい。言ってしまえばそれだけなのだろう。HSPは病気ではない。「そういう人」。性格診断とさほど変わらない。
つまり「私は、人より体力がなく、さらに怠惰であるので、週に5日は働けません。」ということだ。
私は相手の言ったことや態度から推察して、相手がなにを求めているのかを読み取ろうとしてしまう。幼少期は周りの子供の感情も単純で、その推察が当たることの方が多く、自分のその「推察」という能力を、相手の言うこと以上に過信してしまうようになった。
こまごまと書いたが、要するに、「被害妄想でヒステリックな女です。」ということだ。
働けない、家事もさほどできない、被害妄想でヒステリック。もしこんな女を受け入れてくれる男の人がいたとしても…………。こんな事故物件を勧められるほど、私は悪魔になりきれない。
ヒステリックを起こす度、私は人と縁を切った。相手をこれ以上傷つけないため、といえば心優しいが、ただなんとかして他人に否定されないように逃げているだけだった。
ホームセンターで自殺のための道具を買いながら、「これ、店員さんに止められたりすっかな…」と心配か、期待か分からない感情を抱いたが、そんな感情をよそに、作業のようにレジは済まされた。
家でロープをくくったら、「これでいつでも死ねるのだからいいか。」と満足するのだろうか。
それとも、お試しで地獄まで行ってしまうのだろうか。
自殺未遂ですんだら、またみんなに特別扱いされるのだろうか。
そんな自分が居心地良くて、気持ち悪くて、また耐えられなくなるだろうか。
レジ袋のシールを破き、ロープを取り出し、
ロープをくくり………くくり………って、
むずいな。