201611月にマレーシアのクアラルンプールにあるクアラルンプール日本人学校は開校50周年を迎えました。
私は今から約30年前の開校20周年の頃に在籍しており、昨年秋からその頃のことについて投稿しております。
マレーシアから帰国したところまで投稿が進み、先日は「もし私がマレーシアへ行っていなかったらどうなっていたか」という仮定の話を投稿しました。
さてあれから約30年。
帰国後私は中3の1学期から元々通っていた中学校へ通いました。普通の公立中学校です。
帰国子女は珍しく、学年中の有名人になってしまいましたが、中1の12月まで通ってましたので、元からの知り合いも多くみんな仲良くして下さいました。
高校は普通科へ進学。大学卒業後に就職。現在は就職して21年目ですね。なお職業は音楽系でも国際系ではありません。
さて今までこのブログに書いてきたようにKL日本人学校では音楽の時間のピアノ伴奏・20周年テーマソングの作曲といった音楽分野に没頭してしまいました。
現在はピアノは?といいますと。実は以前の投稿にも書きましたが私は手が小さいのです。
帰国後高校生の途中で限界が来まして、きちんとピアノを続けておりません。
今思い返せば中2のKL時代が頂点だったと思います。
ちょうど良い時期に母校の開校20周年の色々な行事に関わらせて頂けたことを感謝しております。
しかしピアノは弾きませんが、現在も違う形で音楽には関わっており、音楽は今でも趣味のひとつです。
以前にも投稿しましたが、マレーシアは多民族国家です。
英語が公用語のひとつであり、KL日本人学校では英語の授業のレベルが大変高く、英語がよく出来る児童生徒がたくさん在籍していた記憶があります。
では私の語学の能力は?といいますと。もともとKL日本人学校でも日本の学校でも英語は得意ではなかったです。人並みに点数を取っておりました。
現在の職業も語学系の職業ではありませんし、学生時代の専攻も語学系ではありませんでした。
一方で住んでいる(住んでいた)地域の影響と、必要に迫られて英語と日本語の他に3ヶ国語ほど会話は可能です。
やはり必要に迫られるということと、日常的に使用するということは外国語学習・習得では大変重要なことだと思います。
現在マレーシアやKL日本人学校との関わりについてですが。このブログにも投稿しましたが、中2当時、学校で流行っていた遊びはサッカーやバスケでした。
その反面私は中2のほとんどを音楽に没頭していたのですから、帰国後に連絡を取り合う友達は居ません。
当時の友達や先生方は各々の場でご活躍のことと想像しておりますし、そう祈っております。
あえて反省するならば、せっかくの海外生活中にあまりにもひとつのことに没頭してしまったのはいかがなものだったかと思うております。
「友来たり 去りて 幾年」日本人学校という学校は多くの友達が短期間に転入しては帰国していく学校だと思います。
海外の日本人学校に在籍中は広く浅く活動して色々なことを経験する方が良いのかなあと思っております。もし自分の子どもが同じ立場になるならばそのようにアドバイスするだろう。
3年前からマレーシアやKL日本人学校と関連のある方々と知り合いになる機会がありました。このブログを作ったのもそういう機会があったことが大きな原因です。

(このブログについて 第一回投稿から抜粋)
2016年(平成28年)11月にクアラルンプール日本人学校は開校50周年を迎えました。
現在学校はどのような様子なのか?という単純な興味から、今年に入ってKL日本人学校のホームページを見せて頂きました。
もちろん私が在馬していた頃(1986年~1987年)の校舎から移転されており、児童生徒数も増えて学校の様子はずいぶん変わっているなあ、と感じました。
私自身は個人的に、2~3年前からマレーシアやKL日本人学校と縁のある方々と知り合いになる機会がありました。
それとともに「マレーシアに居た間のことについて何も記録に残していない」ということに気が付き、知人の提案もあり、母校の50周年に合わせて、自分が過ごした月日を記録することにしました。
なお私は在馬期間中にまさか約30年経ってこのような文書を書くとは思っておりませんでした。
そのため細かく日記をつけていたわけではありません。頻繁に写真を撮っていたわけではありません。きちんと資料を保管していたわけではありません。
多くの記述が記憶を頼りに記載することになりそうです。その点はお許し下さい。


201611月にマレーシアのクアラルンプールにあるクアラルンプール日本人学校は開校50周年を迎えました。
私は今から約30年前の開校20周年の頃に在籍しており、昨年秋からその頃のことについて投稿しております。
 
このブログを投稿中に「管理人hrjsklはどこにいるのだろうか?」という質問や疑問を頂きました。
現在の住所を公開しても引越しをする場合があります。あまり意味がありません。
今回は2017年現在、管理人がよく利用する駅を公開することにしました。


イメージ 1

そういえば私がKLに住んでいた1986年頃は市内の移動はバスかタクシーでした。
現在のような市内電車(LRT)やモノレールはありませんでした。
鉄道は長距離のマレー鉄道とバツー渓谷へ行く観光列車以外は走っておりませんでした。
時々インターネットで見ますが、KL市内を電車が走っているようで、その変化には驚きです。

(このブログについて 第一回投稿から抜粋)
2016年(平成28年)11月にクアラルンプール日本人学校は開校50周年を迎えました。
現在学校はどのような様子なのか?という単純な興味から、今年に入ってKL日本人学校のホームページを見せて頂きました。
もちろん私が在馬していた頃(1986年~1987年)の校舎から移転されており、児童生徒数も増えて学校の様子はずいぶん変わっているなあ、と感じました。
私自身は個人的に、2~3年前からマレーシアやKL日本人学校と縁のある方々と知り合いになる機会がありました。
それとともに「マレーシアに居た間のことについて何も記録に残していない」ということに気が付き、知人の提案もあり、母校の50周年に合わせて、自分が過ごした月日を記録することにしました。
 
なお私は在馬期間中にまさか約30年経ってこのような文書を書くとは思っておりませんでした。
そのため細かく日記をつけていたわけではありません。頻繁に写真を撮っていたわけではありません。きちんと資料を保管していたわけではありません。
多くの記述が記憶を頼りに記載することになりそうです。その点はお許し下さい。



昨年から約30年前にマレーシアのクアラルンプールに住んでいて、クアラルンプール日本人学校に通っていた話を投稿しております。
当時は多くの先生方にお世話になり、多くの友達に仲良くして下さいました。
このブログは下記にも記載しておりますが、当時の記憶を頼りに投稿しております。
このブログも最終段階に入りました。
その際にどうしても先生方や友達のことを書かねばならないかもしれません。
このブログではイニシャル風の記号で、例えば「HRさん」「KK先生」のように記載します。
なおこの記号は便宜的に付けた記号ですので、実名・実イニシャルと異なる場合があろうかと思います。
当時から約30年が経ちました。既に様々なことが「時効」と呼ばれる年月を経ておりますが、年月が経ているがゆえに、実名を掲載することを避けた方が良い場合もあります。
もっとも管理人の私も実名を記載しておりません。
以上の事情から今後しばらくの間はイニシャル風の記号で記載します。

(このブログについて 第一回投稿から抜粋)
2016年(平成28年)11月にクアラルンプール日本人学校は開校50周年を迎えました。
現在学校はどのような様子なのか?という単純な興味から、今年に入ってKL日本人学校のホームページを見せて頂きました。
もちろん私が在馬していた頃(1986年~1987年)の校舎から移転されており、児童生徒数も増えて学校の様子はずいぶん変わっているなあ、と感じました。
私自身は個人的に、2~3年前からマレーシアやKL日本人学校と縁のある方々と知り合いになる機会がありました。
それとともに「マレーシアに居た間のことについて何も記録に残していない」ということに気が付き、知人の提案もあり、母校の50周年に合わせて、自分が過ごした月日を記録することにしました。
 
なお私は在馬期間中にまさか約30年経ってこのような文書を書くとは思っておりませんでした。
そのため細かく日記をつけていたわけではありません。頻繁に写真を撮っていたわけではありません。きちんと資料を保管していたわけではありません。
多くの記述が記憶を頼りに記載することになりそうです。その点はお許し下さい。
201611月にマレーシアのクアラルンプールにあるクアラルンプール日本人学校は開校50周年を迎えました。
私は今から約30年前の開校20周年の頃に在籍しており、昨年秋からその頃のことについて投稿しております。
 
先日までの投稿でマレーシアから帰国した話と、その後約15年経ってから会社の旅行でジョホールバルへ再入国した話を投稿しました。
私は今でも機会があれば再度マレーシアを訪問してみたいと思うております。
今回は具体的にマレーシアのどこへ行きたいのかということを投稿します。
(旧KL日本人学校・現在の日本人会)
いわゆるタマンセプティ校舎です。私は現在の校舎を知りません。
通っていたのは1986年頃ですから当時はタマンセプティ校舎でした。
現在は日本人会(ジャパンクラブ)に利用されているようです。
色々な思い出がある校舎に一度は行ってみたいと思うております。
現在ネット内では航空写真や現地の風景を閲覧できるサイトがありますよね。時々視ております。昔の校舎がそのまま残っており、日本人会として使用されていました。当時の校舎が残っていてうれしく思っております。
一方で現在の校舎を訪問したいかと言いますと、あまり関心がありません。
ネットで閲覧すれば十分です。
現在も母校が立派に続いていることをうれしく思っておりますし、安心しております。
(住んでいたマンション)
前述のサイトで確認したところ今でも残っているようです。さすがに入れませんので道路沿いから見てみたいものです。
そのマンションの勉強部屋で学校の宿題の合間に、開校20周年のテーマソングの作曲に没頭し、1986年の1学期のある日、確か土曜日か日曜日の未明だったと思いますが開校20周年のテーマソングが生まれました。
毎日そこからKL日本人学校へ通いました。住んでいた期間はわずか約1年3ヶ月でしたが、色々な思い出が生まれた家でもあります。
(東海岸・東マレーシア)
当時の小学校6年生の修学旅行は東海岸のクアラトレンガヌでした。
未明に起き出して海岸でウミガメの産卵風景を観察・見学したことを友達から聴きました。
中1中2の友達の多くが小6の時もKL日本人学校に在籍しておりましたので、多くの友達が東海岸へ行ったことがありました。
私はいつの休みの時かは記憶が定かではないのですが、クアンタンの地中海クラブへ行きました。
大学入試のために通った予備校の地理の先生がタイから国境を越えてコタバルへ行った話しをして下さいました。コタバル・クアラトレンガヌ・クアンタンというように東海岸を旅行したいです。
それからクアラルンプールは半島マレーシアと呼ばれているマレー半島にあります。
マレーシアにはもうひとつ、大きな領土があります。ボルネオ島にある東マレーシアです。
サバ州・サラワク州です。私はブルネイも含めてサバ州・サラワク州へも行ってみたいです。特にサンダカンとクチンへ行ってみたいです。
山崎朋子さんの小説『サンダカン八番娼館』も読んでみたいです。
(ポートディクソン)
2の臨海学校で行きました。その頃のことについてはこのブログにも書きました。
1986年当時はポートディクソンの街中にホテルは2軒しかなかったと記憶しております。
先日ネットで観光情報を見ましたが、大変発展した観光地になってました。
在馬中の1番の思い出は開校20周年の色々なことだったのですが、それ以外の思い出の中で1番印象に残っていることはポートディクソンへの臨海学校でした。ぜひもう一度行ってみたいです。

(このブログについて 第一回投稿から抜粋)
2016年(平成28年)11月にKL日本人学校は開校50周年を迎えました。
現在学校はどのような様子なのか?という単純な興味から、昨年KL日本人学校のホームページを見せて頂きました。
もちろん私が在馬していた頃の校舎から移転されており、児童生徒数も増えて学校の様子はずいぶん変わっているなあ、と感じました。
個人的にはこの2、3年でKL日本人学校やマレーシアに縁がある人たちと知り合いになりました。
それとともに「マレーシアに居た時のことについて何も記録に残していない」ということに気が付き、知人の勧めもあり母校の50周年に合わせて、自分が過ごした月日を記録することにしました。
なお私は在馬期間中にまさか約30年経った2017年にこのような文書を書くとは思っておりませんでした。そのため細かく日記をつけていたわけではありません。頻繁に写真を撮っていたわけではありません。きちんと資料を保管していたわけではありません。多くの記述が記憶を頼りに記載することになりそうです。その点をお許し下されば幸いです。


昨年201611月にマレーシアにあるクアラルンプール日本人学校は開校50周年を迎えました。
私は今から約30年前の開校20周年の頃に在籍してました。
昨年秋からその頃のことについて投稿しております。
 
さて先日までの投稿で約1年3ヶ月のマレーシア生活を終えて、日本へ帰国したことを投稿しました。
その後現在に至るまで、マレーシアに全く行ったことがないのではなくて、実は帰国後約15年経った時に、一度だけマレーシアには入国したことがあります。
「マレーシアには」という表現を使いしましたが、訪問先はクアラルンプールではありませんでした。
会社の社員旅行でシンガポールへ行きました。1日目の午前中に日本を出発して夕方にシンガポールに着きました。夕方と夜は簡単な市内観光と買い物をしました。
2日目の午前中に市内観光の続きをして、いよいよ午後から半日だけシンガポールの対岸のジョホールバルへ行きました。
この半日のジョホール訪問ですが、いくつかの選択肢の中のひとつでした。
マリンスポーツと全くの自由行動とジョホールという選択肢だったと思います。
私は迷わずジョホールを選択しました。
シンガポールとジョホールの間は陸路で繋がっていました。正しくは「コーズウェイ」というらしいです。
当時はパスポートがあれば自由に行き来できた様子で、マレーシアのジョホールに住んでいてシンガポールへ出勤する人も居たようです。
マレーシア出国の際には一度バスから降りて徒歩で出入国管理窓口を通りました。
そしていよいよマレーシアへの入国手続です。約15年ぶりにマレーシアに入国しました。
陸路で国境を越えるという日本では経験出来ない珍しい体験をすることが出来ました。

ジョホールバルではモスクと博物館へ行ったと記憶しております。
半日のマレーシア滞在でしたが、その旅行に参加して良かったと思いました。
なおその帰国便ですが、3日目の深夜初の便で帰国する予定だったのですが予約違いで、私も含めて一部の社員だけがシンガポールにもう1泊して翌日の台北乗換便で帰国した記憶があります。
2の時にマレーシアから帰国後に、クアラルンプールを訪問しておりません。次回の投稿はマレーシアで行ってみたいところについて書く予定です。
 
(今回の投稿は2000年前後の状況を記憶を頼りに投稿しておりますので、現在とは現地の事情が異なる場合があります。お出かけの際には現在の状況を十分に確認の上、お出かけ下さい。)

(このブログについて 第一回投稿から抜粋)
2016年(平成28年)11月にKL日本人学校は開校50周年を迎えました。
現在学校はどのような様子なのか?という単純な興味から、昨年KL日本人学校のホームページを見せて頂きました。
もちろん私が在馬していた頃の校舎から移転されており、児童生徒数も増えて学校の様子はずいぶん変わっているなあ、と感じました。
個人的にはこの2、3年でKL日本人学校やマレーシアに縁がある人たちと知り合いになりました。
それとともに「マレーシアに居た時のことについて何も記録に残していない」ということに気が付き、知人の勧めもあり母校の50周年に合わせて、自分が過ごした月日を記録することにしました。
 
なお私は在馬期間中にまさか約30年経った2017年にこのような文書を書くとは思っておりませんでした。そのため細かく日記をつけていたわけではありません。頻繁に写真を撮っていたわけではありません。きちんと資料を保管していたわけではありません。多くの記述が記憶を頼りに記載することになりそうです。その点をお許し下されば幸いです。
昨年201611月にマレーシアにあるクアラルンプール日本人学校は開校50周年を迎えました。
私は今から約30年前の開校20周年の頃に在籍してました。
昨年秋からその頃のことについて投稿しております。
さて前回の投稿でマレーシアから帰国するところまで投稿しました。
今でも思い返してみると、中1の三学期に転入した時に考えていたことと全く違う在馬生活でした。
 
三学期の終業式の数日前なのですが、下校時にスクールバスを待っている時に小学部のある先生から
hrjskl君は帰国するのですか。今年度は20周年があってhrjskl君は色々がんばってくれましたね。と言われました。
その先生は小学部のあるクラスの担任の先生だったと記憶しております。
確か音楽も教えることが出来る先生だったと記憶しております。
「ありがとうございます。でも(もし僕がいなかったら)違うテーマソングが出来ていたと思います。どんなテーマソングが出来ていたか楽しみです。最近はそういうたとえ話を考えるのも面白いなあと思ってます。」と答えたと記憶しております。
さてこの先生との会話が今日の投稿のテーマなのです。
①もし私がマレーシアへ行っていなかったらどうなっていただろうか?
②もし私が(マレーシアへ行き、KL日本人学校へ通っていたとしても)20周年や音楽について関心を示さなかったなら、又は関わらなかったらどうなっていたのだろうか?
 
①そもそもこのブログを投稿することはなかった。そのまま日本で普通に中学生活を送り、高校へ進学していた。
②もしKK先生が音楽の時間のピアノ伴奏を生徒に任せることをしなかったり、テーマソングの曲を児童生徒から募集することをしなければどうなっていたのでしょうか。
そして私が20周年や音楽に関心を示さなかったらどうなっていたでしょうか。
もちろん私が20周年のテーマソングを作曲することはなかった。
私が作曲しなければ、他の先生や友達が作曲していた。
当然全く別の曲が出来上がっていた。その曲を聴いて「うらやましい。僕も作曲したかった」と思ったか又は何も思わなかったかは、現在判断つきません。
音楽を通じて他のクラスや他の学年の皆さんと知り合うことはなかった。
多くの男子生徒と同様にサッカーやソフトボール等のクラブ活動に参加しており、人前で合唱の伴奏をすることなど、現在に至るまで一度もなく過ごすことになる。(実際帰国後は一度も人前で伴奏をしたことはない。)
たぶん中2の終わりまでKLに居なくて中2の1学期が終わった時に帰国して20周年の198611月には在籍していなかった。
当然20周年の行事がどうだったとか知らないまま現在まで過ごし、このブログを書くこともなかった。
 
ここまで書いてきて
本当に偶然に左右された1年3ヶ月だったと思います。
多くの「たまたま」「偶然」により私の在馬生活が当初予想していたものと大きく違うものになりました。

(このブログについて 第一回投稿から抜粋)
2016年(平成28年)11月にKL日本人学校は開校50周年を迎えました。
現在学校はどのような様子なのか?という単純な興味から、昨年KL日本人学校のホームページを見せて頂きました。
もちろん私が在馬していた頃の校舎から移転されており、児童生徒数も増えて学校の様子はずいぶん変わっているなあ、と感じました。
個人的にはこの2、3年でKL日本人学校やマレーシアに縁がある人たちと知り合いになりました。
それとともに「マレーシアに居た時のことについて何も記録に残していない」ということに気が付き、知人の勧めもあり母校の50周年に合わせて、自分が過ごした月日を記録することにしました。
 
なお私は在馬期間中にまさか約30年経った2017年にこのような文書を書くとは思っておりませんでした。そのため細かく日記をつけていたわけではありません。頻繁に写真を撮っていたわけではありません。きちんと資料を保管していたわけではありません。多くの記述が記憶を頼りに記載することになりそうです。その点をお許し下されば幸いです。
2016年11月にマレーシアにあるクアラルンプール日本人学校(KL日本人学校)は開校50周年を迎えました。
私は今から約30年前の開校20周年の頃に在籍しており、昨年秋から開校20周年の頃について投稿しております。
今回の記事は2017年5月に投稿したものを加筆修正して再投稿したものです。

〈帰国日〉
昨年2016年11月にマレーシアのクアラルンプール(KL)にあるKL日本人学校は開校50周年を迎えました。
私は今から約30年前の20周年の頃に在籍しておりました。
前回までに中2の三学期の終業式のことを投稿しておりました。

当時のKLから日本への飛行機はスバン空港に発着してました。
というか現在のKL国際空港が開港する前でしたので、スバン空港が国際空港でした。
以前にも投稿しましたが当時日本への帰国ラッシュは年に2回ありました。
1回目は中3の卒業式の夜。卒業式を終えた中3の先輩方が帰国されて、高校受験に臨まれました。
2回目は三学期の終業式の夜。これは帰国される先生方がまとまって東京行きの便に乗られるためです。また終業式の夜に帰国する友達も多かったです。
私は帰国先が東京ではなかったので、東京行きの便には乗らなかったです。
当時の日本の航空会社の便は東京(成田)-KL-ジャカルタと飛ぶ便がありました。日本発の便は昼間便、日本行きの便は夜行便でした。
私は帰国先の都合でKLから一度シンガポールへ飛び、1~2時間の待ち合わせの後にシンガポールからシンガポール航空で日本へ帰国しました。

いよいよ帰国する日になりました。
朝から最終の荷物を確認して、マンションの西洋人の友達や守衛さんに挨拶をして過ごしました。
前述のとおり夜行便でしたので、夕方に父の会社の車でマンションからスバン空港へ移動しました。
途中KL日本人学校の前のバイパスを通りました。約1年3か月通った校舎が見えました。
現在その校舎は日本人会の建物として利用されていて、現存してますのでインターネットの画像検索等々で時々見ることが出来ますが、当時は約30年経ってそのような画像を見ることが出来るようになるとは思ってもいませんでしたので、
「ひょっとするともう二度と見ることがない景色かもしれない」と思いました。

中1の12月に父の仕事の都合でKLへ来て、中1の三学期にKL日本人学校に編入しました。
当時スバン空港からKL市内の自宅へ行く際には、まさかこのような在馬生活、このようなKL日本人学校での学校生活になろうとは思ってもいませんでした。
偶然中2の担任の先生が音楽担当の先生だったのです。
偶然その先生が音楽の授業中のピアノ伴奏を私たち生徒に任せたのです。
偶然KL日本人学校が開校20周年の年だったのです。
様々な偶然が重なって、昨年11月から投稿しているようなKL日本人学校での学校生活になりました。
あれから約.30年経って、当時の在馬生活や学校生活について「もし○○だったら」と考える機会がありました。
それはそれなりに面白いテーマですので回を改めて投稿しようと思っております。

さてスバン空港に着きました。父の会社の運転手さんにお別れのご挨拶をして出発ターミナルへ行きました。
既に終業式で友達には帰国便を伝えておりましたので、5~6人(たぶん10人弱)の友達が見送りに来てくれてました。
出発まで時間がありましたので、親は親同士、子供は子供同士でコーヒーショップへ行ってジュース等を飲んだ記憶があります。
「hrjskl君。中3を待たずに帰国するのだから高校受験をがんばらないといけないよ」と友達の内の一人から言われたことを今でも覚えてます。
果たして彼の言う通りの結果を中3の最後に迎えたか否かについては改めて投稿しようと思います。

いよいよ時間になりました。大変さっぱりと友達と別れたと記憶しております。
海外校の特徴というか宿命というか友達が帰国してしまうことには慣れていたのでしょうね。
前述しましたが、まずシンガポールへ飛びました。1時間ほどのフライトでした。
シンガポールで1~2時間の待ち合わせでシンガポール航空の夜行便で帰国しました。
窓から見えるKLやシンガポールの夜景はとてもきれいでしたよ。
「次にこの夜景を見るのはいつなのだろうか」と思いながらも、離陸の時には
「明日の朝には日本に帰国している。明日からは高校入試の準備だ」という心境だったと記憶しております。

翌日搭乗したシンガポール航空は無事に日本へ到着しました。
空港から日本の自宅まではタクシーで移動したのですが、タクシーの車内では現在も続いている某長寿番組が流れていた記憶があります。

ということで私の約1年3ヵ月のマレーシアでの生活が終わりました。
その日から以前通っていた日本の中学校での高校入試に向けての生活が始まりました。
次回以降はあれから30年経ってその間に私がどのようなことを考え、どのように過ごしてきたか、又「もし当時○○だったならば」ということについて投稿しようと思っております。

(このブログについて 第一回投稿から抜粋)
2016年(平成28年)11月にKL日本人学校は開校50周年を迎えました。
現在学校はどのような様子なのか?という単純な興味から、昨年KL日本人学校のホームページを見せて頂きました。
もちろん私が在馬していた頃の校舎から移転されており、児童生徒数も増えて学校の様子はずいぶん変わっているなあ、と感じました。
個人的にはこの2、3年でKL日本人学校やマレーシアに縁がある人たちと知り合いになりました。
それとともに「マレーシアに居た時のことについて何も記録に残していない」ということに気が付き、知人の勧めもあり母校の50周年に合わせて、自分が過ごした月日を記録することにしました。
 
なお私は在馬期間中にまさか約30年経った2017年にこのような文書を書くとは思っておりませんでした。そのため細かく日記をつけていたわけではありません。頻繁に写真を撮っていたわけではありません。きちんと資料を保管していたわけではありません。多くの記述が記憶を頼りに記載することになりそうです。その点をお許し下されば幸いです。
2016年11月にマレーシアにあるクアラルンプール日本人学校(KL日本人学校)は開校50周年を迎えました。
私は今から約30年前の開校20周年の頃に在籍しており、昨年秋から開校20周年の頃について投稿しております。
今回の記事は2017年5月に投稿したものを加筆修正して再投稿したものです。

〈三学期の終業式 その2〉
昨年11月にマレーシアのクアラルンプール(KL)にあるKL日本人学校は開校50周年を迎えました。
私は今から約30年前の20周年の頃に在籍しておりました。
昨年11月頃からそのころのことについて投稿しております。

昨日は三学期の終業式が終わったところまで投稿しました。
終業式後は教室に帰って、通知表を受け取ったり、返却物を受け取ったり、ロッカーの私物を片付けたりという、日本の学校と変わらない光景でした。
帰国する生徒は私も含めて、前へ出てひとりずつあいさつしたように記憶しております。
「変わったヤツだったと思うけど、仲良くしてくれてありがとう」のようなことを言うたと思います。
確かに変わった生徒だったと思います。
当時学校で流行っていた遊びといえば、男子はサッカーやバスケ、女子はバレーボールやバスケでしたので、そんな中でほぼ1年中、音楽に没頭した男子生徒は珍しいかったと思います。
たぶん変な生徒に写ったと思います。
しかし私の得意分野や興味があることを認めて下さって、仲良くして下さった友達には大変感謝しております。
何人かの友達には帰国日と便名を伝えました。「スバン空港まで見送りに行くからな!」と約束してくれた友達もいました。
ちなみに当時の国際線の発着空港はスバン空港でした。現在のKL国際空港は未だ出来ていませんでした。

さて下校時間になりました。
いつものように校門横の「市民グランド」と呼ばれていた広場に集合し、既にバスが戻って来ている地域からバスに乗り込んで行きました。
後日空港へ見送りに来る予定でない友達とはここでお別れでした。
「バイバイ元気でな」「高校入試がんばろうな」という程度の話をして、あっさりお別れしたと記憶しております。
そこらへんは出入りが激しい海外校の児童生徒の特徴なのでしょうか…。

約1年3か月お世話になったスクールバスはいつも通りの道順を走りました。
ほぼ毎日見慣れた風景です。
下車する所に着いた時には、席が近くだった、同じクラスのMMさんには「じゃあな、元気でな」と言って降りたと思います。
運転手さんからはカタコトの日本語で「hrjsklサン、ドモアリガトゴザイマスサヨナラ」と言われたと思います。
同じクラスで、いっしょにピアノ伴奏や音楽クラブで活動したMTさんには、事前にもう少しきちんとごあいさつしておくべきだったのでしょうが、当時は照れ臭かったのでしょうね。
約1年3か月の在馬中、家が近所でスクールバスが同じでクラスが同じでした。
私がマレーシアへ行く前に通っていた日本の中学校は荒れた暴力中学でした。
KL日本人学校在籍中も私は方言丸出しで生活してました。
そんなヤツが近所へやって来たのですから、最初はびっくりしたと想像しますが、よくがまんして仲良くして下さったと思っております。

ここまで書いて来て、やはり20周年行事があった1、2学期に比べると3学期の記憶が大変少ない気がします。
意外とあっさり、KL日本人学校最後の登校日は終わりました。
今日はこのあたりで失礼します。

(このブログについて 第一回投稿から抜粋)
2016年(平成28年)11月にKL日本人学校は開校50周年を迎えました。
現在学校はどのような様子なのか?という単純な興味から、昨年KL日本人学校のホームページを見せて頂きました。
もちろん私が在馬していた頃の校舎から移転されており、児童生徒数も増えて学校の様子はずいぶん変わっているなあ、と感じました。
個人的にはこの2、3年でKL日本人学校やマレーシアに縁がある人たちと知り合いになりました。
それとともに「マレーシアに居た時のことについて何も記録に残していない」ということに気が付き、知人の勧めもあり母校の50周年に合わせて、自分が過ごした月日を記録することにしました。
 
なお私は在馬期間中にまさか約30年経った2017年にこのような文書を書くとは思っておりませんでした。そのため細かく日記をつけていたわけではありません。頻繁に写真を撮っていたわけではありません。きちんと資料を保管していたわけではありません。多くの記述が記憶を頼りに記載することになりそうです。その点をお許し下されば幸いです。
2016年11月にマレーシアにあるクアラルンプール日本人学校(KL日本人学校)は開校50周年を迎えました。
私は今から約30年前の開校20周年の頃に在籍しており、昨年秋から開校20周年の頃について投稿しております。
今回の記事は2017年5月に投稿したものを加筆修正して再投稿したものです。

<三学期の終業式>
昨年11月にマレーシアのクアラルンプール(KL)にあるKL日本人学校は開校50周年を迎えました。
私は今から約30年前の20周年の頃に在籍しておりました。
昨年11月頃からそのころのことについて投稿しております。

さて当時の三学期は1月に中3の卒業式があり、あっという間に三学期が終わった気がします。
私自身、今になって悔やまれることに、当時全く日記をつけていなかったことがあります。
よって20周年の行事があった2学期に比べて、三学期の記憶がほとんどありません。

私は1985年12月末にKLに来ました。そして1986年1月に中1の三学期からKL日本人学校へ編入しました。
2016年秋に、このブログの冒頭付近でその頃のことを投稿しました。
終業式の日の前から、クラスの友達には帰国することを伝えてました。
クラスには私の他にも中2終了をもって帰国する友達が何人かいたと記憶してます。
写真を撮ったり、色紙を作ったりしていた記憶があります。今でもその時撮った写真は家にありますし、色紙もどこかに保管しております。
帰国後は中1の2学期まで居た中学校へ戻る予定でしたので、国際電話で中1の時の担任の先生へ電話した記憶があります。中3から戻る話をしたら大変喜んで下さった記憶があります。

終業式の朝も、いつも通りにスクールバスで登校です。
この1年3か月間、平日ほぼ毎朝集まった場所に集合し、「今日が最後の登校です。みんなありがとう」とは言ったと思うものの、いつもと変わらない登校風景だったと思います。
KL市内は特に変わった朝ではありませんでした。ほぼ毎日見てきた風景でした。
学校に着いて教室へ入ってもいつもと変わりませんでした。
春休み後は教室が変わりますから、みんなでロッカーの私物をまとめていたと思います。
違ったのは終業式です。
KL日本人学校は児童生徒の出入りが激しい学校でした。海外校の特徴かもしれません。
毎週月曜日に全校朝礼があるのですが、ほぼ毎週のように転校転入生の紹介がありました。
私も中1の三学期の始業式で転入生として紹介されました。
この年の三学期の終業式では転校生、つまり帰国する児童生徒が約50名ぐらいいたと記憶してます。
ひとりひとり、学年と名前とどこへ帰るかを話ました。
私は中2でしたので最後の方でした。
「中学2年のhrjsklです。○○県へ帰ります。色々な思い出が出来ました。ありがとうございました」のようなあいさつをしたと思います。

さて中2の1年間は音楽に没頭していました。ピアノを弾けるクラスメートと共に音楽の授業や学校行事でのピアノ伴奏を引き受けたり、そして20周年のテーマソングを作曲したりした1年でした。
終業式前に担任のKK先生から呼ばれました。
「hrjskl君。終業式で校歌と20周年のテーマソングを唄うので、どちらか伴奏して」と言われました。
確かにその時は快諾して、何かを伴奏した記憶があるのですが、誰と分担して自分がどの曲を伴奏したかを覚えておりません。
「ああ、もうこういうことはないだろうなあ」と思いながら弾いたと思います。

今日は予想外に長くなってしまいました。終業式後のことは後日投稿します。
今日はこのあたりで失礼します。

(このブログについて 第一回投稿から抜粋)
2016年(平成28年)11月にKL日本人学校は開校50周年を迎えました。
現在学校はどのような様子なのか?という単純な興味から、昨年KL日本人学校のホームページを見せて頂きました。
もちろん私が在馬していた頃の校舎から移転されており、児童生徒数も増えて学校の様子はずいぶん変わっているなあ、と感じました。
個人的にはこの2、3年でKL日本人学校やマレーシアに縁がある人たちと知り合いになりました。
それとともに「マレーシアに居た時のことについて何も記録に残していない」ということに気が付き、知人の勧めもあり母校の50周年に合わせて、自分が過ごした月日を記録することにしました。
 
なお私は在馬期間中にまさか約30年経った2017年にこのような文書を書くとは思っておりませんでした。そのため細かく日記をつけていたわけではありません。頻繁に写真を撮っていたわけではありません。きちんと資料を保管していたわけではありません。多くの記述が記憶を頼りに記載することになりそうです。その点をお許し下されば幸いです。
2016年11月にマレーシアにあるクアラルンプール日本人学校(KL日本人学校)は開校50周年を迎えました。
私は今から約30年前の開校20周年の頃に在籍しており、昨年秋から開校20周年の頃について投稿しております。
今回の記事は2017年4月に投稿したものを加筆修正して再投稿したものです。

<そろそろ帰国したく思います>
昨年11月にマレーシアのクアラルンプールにあるクアラルンプール日本人学校は、開校50周年を迎えました。
私は今から約30年前の開校20周年の頃に在籍していたのですが、昨年秋からその頃のことを投稿しております。
先日までに当時の中3の卒業式の話を投稿しました。
お世話になった先輩たちが帰国して行きました。

1986年11月に開校20周年を迎えて、色々な行事が生徒目線、子ども目線では無事に終わったのですが、その頃の心境としては「20周年ロス」というか「終わった」感がありました。
「中2の三学期が終わったら、つまり1987年3月には日本へ帰国しよう」と思い始めてました。
中3になったらタイのバンコクへの修学旅行も予定されていたのですが、あまり迷わずに帰国を選択しました。
当然のことですがもはや三学期は20周年の色々な準備や練習をすることはありません。
「これが普通の中学2年生の学校生活なのかなあ」という毎日が続きました。

20周年の行事が終わってしまいましたし、卒業式も終わりましたので、音楽の授業や学校で歌う曲目も減りましたので、音楽担当のKK先生は生徒に伴奏を任せる機会が少なくなりました。
確か私は三学期はあまり学校ではピアノを弾いていなかったと記憶しております。

さてさて本日の題名ですが。現在の心境というか現在の発言ではありません。
30年前の1987年1月だったと思いますが、担任のKK先生にそのようにお話ししたと思っております。
KK先生からは「残念ですね。中3までKLに残らないのですか?」「中2の時は20周年のことで色々がんばってくれました。帰国したら高校入試に向けて勉強を頑張って下さい」というようなことを言われたと思います。

当時は三学期の1月に中3の卒業式がありましたので、卒業式から三学期の終業式までは2か月しかありません。
1月頃からは家では帰国準備です。
中2の初めから2学期の11月まで、がんばった20周年の音楽関係の資料を、ごっそり段ボール箱に詰めて封をしました。
しかし現在それらがどこへ行ったか定かではないんですよね (^_^;) 
意外と小中学生に集めていた資料て、量が少なく、すぐにどっかへまぎれてしまうのかもしれません。
それから今日現在、私が後悔していることに、在馬中に日記を全く書いていなかったことがあります。
では本日はこのあたりで失礼します。
次回以降は三学期の終業式の頃や、「もしあの時私がKLへ行ってなかったら」というテーマで投稿しようと思っております。

(このブログについて 第一回投稿から抜粋)
2016年(平成28年)11月にKL日本人学校は開校50周年を迎えました。
現在学校はどのような様子なのか?という単純な興味から、昨年KL日本人学校のホームページを見せて頂きました。
もちろん私が在馬していた頃の校舎から移転されており、児童生徒数も増えて学校の様子はずいぶん変わっているなあ、と感じました。
個人的にはこの2、3年でKL日本人学校やマレーシアに縁がある人たちと知り合いになりました。
それとともに「マレーシアに居た時のことについて何も記録に残していない」ということに気が付き、知人の勧めもあり母校の50周年に合わせて、自分が過ごした月日を記録することにしました。
 
なお私は在馬期間中にまさか約30年経った2017年にこのような文書を書くとは思っておりませんでした。そのため細かく日記をつけていたわけではありません。頻繁に写真を撮っていたわけではありません。きちんと資料を保管していたわけではありません。多くの記述が記憶を頼りに記載することになりそうです。その点をお許し下されば幸いです。