④の続きです。

長田が夫と共に学習塾の経営を始めたのは30年前(当時から見て1975年)。父兄から子供についての相談を持ち込まれることも多かった。

現在(当時)彼女が行っている(いた)講演や寮の運営の原点はそこにある。

妻であり母でもある長田は寮を長男に任せ専ら壊れかけた家族の相談に乗っている。

学習塾を担当する夫、賢さんとは高校時代の同級生。

この日は、地元の青年会議所から声が掛かった。

長田「私は医者でもありませんし、学者でもありませんし、大学教授でもありませんし、学校の先生でもありません。ただのおばさんでございます。(教育評論家)アホで有名でございましたからね笑」

いつの間にか様々な親に頼られる存在になった長田だがその理由は彼女の過去にあるのかもしれない。幼い頃は強迫神経症に苦しみお風呂に入れなかった時期がある。

何よりも決定的だったのは中学時代に受けた激しいいじめだった。

学校に行くと「◯ね」灯油を被って焼身自◯を試みたこともあると言う…

高校に行くといじめられる側から抜け出す為に、自ら不良仲間に加わった。道を踏み外さなかったのは(故)母親、照子さんのお陰だった。それは免許を持たずに車を乗り回していた時期のこと。

長田「自分がその無免許で、車に乗って出ようとしたってところで、何を言うのかとでかい声で「百合子❗️安全運転して帰ってこい‼️この体に傷つけたら母ちゃんが許さんぞ‼️💢😡」と言ったのがびっくりした笑それを聞いて近所の人達が笑っている訳よ。アホやと言う顔して。その近所から笑われた母親を見た時にねかなり私反省したけどね笑、自分が笑われるのは全然構わないんだけど親を笑わせてしまったのはねあれはかなりショックでねこの母ちゃん流したら人間じゃないと思っちゃいましたねあの時ね。あれは相当インパクト強かったんですよあの人の言葉では…」

母親が世を去って18年(当時から見て)。あの時目の前に立ちはだかった照子さんの顔が今も忘れられないと言う。

長田「あっ今年、雨蛙おらん。」

ひきこもりの子ども達に接すると彼らの姿が荒れていた時期の自分に重なって見える。そして放っては置けなくなる。親がしっかりしていれば子供は必ず立ち直ることを長田は身をもって知っていた。

長田「若い時はご迷惑をかけました。笑」