なんの後ろめたさもない、底抜けに明るい“太陽”みたいな人に「憧れる」。
魅力的で、そういう子はアイドルに向いている。

でも、哀しみや切なさ、はかなさを持つ人のほうに「惹かれる」自分がいる。
そういった負の感情の表現力にこだわったアイドルがいる。

春休みの閑散としたキャンパスには、春の訪れへの期待とともに、
こうした“切なさ”が似合っている。


『片思いの終わりに』 亀井絵里(モーニング娘。)(2009年)
 (作詞、作曲:つんく、編曲:江上浩太郎)


 







かつて、20歳の亀井絵里はこのソロ曲を歌うにあたって、
「普通に歌っていたら何事もなくサーッて終わってしまい印象の薄い曲になって
しまう」と語ったことがある。
いろんな先生から「それじゃ何も伝わらない」と言われ、
悩んで、泣いて、そんな中、自分の中にある感情に気付き、
亀井絵里の中に一つのスタイルができていったのではないかと思う。

ちなみに、サビの歌詞に、

“片思いの終わりよ 愛となあれ
 答えを知りたいけど Maybe…”

というのがある。

ちょうど歌詞の終わりに、「be」のスペルを描いて、

フッと息を吹いて飛ばす仕草が印象的だ。

「maybe」を日本語に略すと『たぶん』という言葉があてはまるが
この『たぶん』というのは楽観的ではなく、むしろ悲観的な意味合いが強い。
「たぶん、彼は私への気持ちがないんだろうけど…」というニュアンスである。

例えば、Juice=Juiceの「微炭酸」まで行くと、可能性ゼロなわけだから、
逆に踏ん切りがついて、過去の自分と訣別すべく前向きにもなれるが、

この「片思いの終わりに」は、まだ可能性がわずかながら残っていて、
希望は捨て切れないけれども、70~80%はダメだと気づいているからこそ、
告白にも踏み出せない状態なので、
それはとても“切ない”気持ちのままなのである。

どうしてつんくは、亀井絵里にこういう詞を書いたのか。
それは、亀井絵里の中にある「モノ哀しさ」に気付き、
その瞬間を作品として切り取りたかったからだと自分は思っている。


春がくるたびに思い出すのは、亀井絵里のことである。