ブログを自分が始めるなんて思っていなかった。
中高の頃色んな方々のブログを読んでいたけど、その人に興味があるとかでなく欲しい情報をGoogleで検索したらヒットしたというだけで、あくまで記事にしか興味を持っていなかった。
そんな僕がなぜブログを始めたか。
思えば理由なんてない。
というのは嘘だろう。
究極的な回答は、拭いきれない寂しさからだろう。
親、兄弟、恋人、友達……。
大事にしたいと思える人たちはたくさんいる。
でも、それと安心できるというのは少し違う。
この際はっきりいう。
ぜんぜん違う!!
太宰治の「人間失格」という小説を知っているだろうか?
知らないやつは、もうこの記事を読むのはやめたほうがいい。
だって、面白くないんだもん。
教養を求めていくことは本来的に悪いことではないはずだから、読者に僕は求めることにする。
知らないことは悪いことではないし、これから知っていけばいい。
パロディだって元ネタを知らないなら楽しめないはずだから。
なんで、学術的になると否定的に考える人が増えるのか気になる。
本当、心からそう思う。
僕も実際、ニーチェをプロフィール画像として使っているけど、全然読んだことがない。
でも、それでも今読み始めることにしたから、いつか振り返ったときに良ければいいと思う。
さて、閑話休題。
言いたいことがぶれた。
申し訳ない……。
『人間失格』の主人公は自分の日常に現実感を持てないでいる青年の生涯を描いた作品だが、これを読んでどう思っただろうか。
僕なんかと違ってきちんと勉強してきた人たちは、堕落というものを悪であるという見方から、主人公を救わんがためその結末をどうすれば回避できたかということを人道的に考えるのだろうか。もしかしたら、同情心を寄せるのだろうか。
あまり考えないならば、ナルシズムとヒロイズムが徹底した凡人が自業自得な目にあって転落していったと言うように思えるのだろうか。
僕はこの小説を読んだときに我が事のように感じたのだ。
最初の方で主人公の子供時代の中に、別に自分は欲しい物などなかったが、買ってくれるという親のために品物をねだる、といった場面がある。
こんな経験をどれほどの人がしたことあるのだろう。
よく書いてあるのだ。人の気持ちがわからない主人公の苦悩などと。
しかし、本質は相手の心情がわかりすぎて、それに行動を左右されすぎるといった自己の喪失が問題なのだろう。
ここで一つの問題が発生するのだ。
自分の生に対する倦怠だ。
人が自分にどうしてほしいか、ということはわかる。
だが、それをし続けることは不可能だ。
というのも、人間である上、意志は存在する。
それは自分を慰めるものを求める。
現代だと、Youtubeだろうか。
ははは
自分の行動に対して意義が持てるか。
その中に意味をもてないと意志の力は衰弱していく。
それは倦怠という形をとって現れるだろう。
慰めではキリがない。
それからの脱出のために戦いたい。
答えは自分の中にあるのだろう。
ふと、ブルーハーツの『情熱の薔薇』を思い出した。
「見てきた物や聞いた事いままで覚えた全部
でたらめだったら面白い
そんな気持ちわかるでしょう
答えはきっと奥の方
心のずっと奥の方
涙はそこからやってくる
心のずっと奥の方」
この曲に思いを馳せて、長くなった挨拶を締めくくりたいと思う。
改めてよろしくおねがいします。