福岡のあの事件は、とても悲しく残念なことでした。

私は今、とても複雑な心境です。


手放しに彼女を批判する人の気持ちも、痛いほど解る。

なぜなら、「殺す」という選択肢があっていいはずないんだから。


でもその反面、彼女の気持ちが、同じ発達障害児の母として解らなくもないのです。


思うように動かない体での、手探りの子育て。

辛いのも、大変なのも解る。

そしてその愛情ゆえに、どうしても将来を悲観してしまったのも。

悩んで悩んで、どうしようもなくなってというのも、解る。


きっと真面目で、常識的なお母さんだったんじゃないかなあ。

真面目すぎるゆえ、「普通」からはみ出た子を、どうしたらいいのか解らなかったんじゃないかな。


そんなふうに考えた。


でも発達障害って、そんなに悲観的にならないといけないことだろうか?

死を選ぶほど、いけないことなんだろうか?


以前参加した発達障害についての講習会で、講師の先生がこんなことをおっしゃっていた。

「人は自閉症の人が『困っている』と言うけど、自閉症の人は困ってなんかいないんですよ。周りの人が彼らのことを解らなくて『困っている』だけなんです」と。


もしあの母親がこの言葉を聞いたら、心に響いただろうか。


私にとって、この言葉は衝撃でした。

そうだ。

私たちが今まで築いてきた「普通・常識」の概念の型に、彼らをはめようとするから事はややこしくなる。

概念を捨てればいい。

頭が固いのは私たちなんだ。

こちら側の勝手な「普通・常識」に当てはまらないからと言って、絶望するほど不幸なのは彼らではない。

彼らは自由に、幸せに生きることができる。

絶望するほど不幸に感じてしまうのは、私たちのただのエゴに他ならないのでは?


私はそう思いました。


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以前記事に書いた『発達に遅れのある子の親になる』 という本の中で、「発達の遅れを親が受け入れていく過程は、死を享受するまでの厳しさと良く似ているともいいます。」との記述がある。


最初の段階が、遅れの宣告に対して認めないこと。

次の段階が、怒り。

三段階目が、取り引き。

四段階目が、抑うつ。

最後に、受容。


専門家によってはこの五段階を、


ショックの時期。

否認の時期。

混乱の時期。

解決への努力の時期。

受容の時期。


ととらえる場合もあるようです。


私は思うのですが。

子どもの障害を「認めている」と一口にいっても、考え方によってはこの段階のどこにいても「認めている」ことに当てはまってしまうわけです。

というのも、一段階、二段階にいても、何も知らない赤の他人から見れば「子どもの診断名を知っているから、『認めている』わけでしょう?」ってことになっちゃう。

でもまだこの時期の親は「認めている」のではなく、気持ちの部分では「知っている」にとどまっている。

しかも、できることだったら間違いであって欲しいと思っているのだと思うのですよ。

そして三段階、四段階で、徐々に「逃げられないこと」と認識し始めながらも葛藤し。

ようやく穏やかに(それでも葛藤は続くだろうし、大変なこともいっぱいだけど)毎日を過ごせるようになるのは、五段階目に入ってようやく手に入るものなんですよね。


このお母さんも、まだまだ最後の段階に行ってなくて。

その前四段階のどこかで立ち止まって悩んでいたんだろうな。


こういう事件があると、人は「どうしてすぐに相談しなかったのか?」と言い、相談しなかった(支援を受けなかった)親の責任を問う。


けど。

全ては気持ちなのです。


確かに、外に、いろいろな機関に相談するのは必要不可欠だと思うんです。

けど、この一段階、二段階にいる親御さんにとって、「相談する」というのは非常に難しいことでしょう。

更にプライドの高い親御さんだと、三段階、四段階でも難しいかもしれない。


できるものなら、あの母親もとっくにしてたんだと思います。

けど、知らなかっただけなのか。

できなかったのか・・・。


福祉支援・療育支援、親が「必要ない」と突っぱねたり、申請しなかったりすると、強制はできないのでいくら受けられるものがあっても受けられない。


時間はどんどん過ぎていくけど、親の気持ちの揺れは、その人によって違う。

そこで発生してしまうタイムラグ。

デリケートすぎて、決して事務的に扱って済むことじゃなくて・・・。


私の場合。

多分、完全に五段階に行くまでには3年くらいかかったのではないかと思う。

それでも支援を受けながら考えるという、最良の方法を選択できたと思うし。

表向きは理解した顔をして日々を過ごす、ある意味での柔軟さと心の強さがあったのかもしれない。


でも、それすらできないで悩んでしまう人がいるということ。

これは今後の障害福祉の大きな課題なのではないか、と思います。


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五段階目に至るには、自分の「普通」の概念を捨てること。


それはものすごい恐怖をはらむかもしれないけど、越えなくてはいけない壁なんだと思う。


でも、あの母親は自分の「普通」を捨てられなかった。


子どもの「普通」を認めてあげられなかった。


時間はゆっくり過ぎるほどゆっくり停滞してしまったんだろう。


あの母親の心の動きをフォローしてくれる「何か」があったら。


あとほんの少しだけ、彼女に勇気があったら。


結果は違っていたかもしれないと思わずにいられないが、あの日は、すでに巡ってしまった・・・。



それが、今後の課題をイヤというほど見せ付けられた、あの事件だったんだろう。



発達障害は、いけないことではない。

今からでも遅くはない。

彼女は、息子さんのことを認めてあげて欲しい。

一人の人として。

一つの個性として。

生まれてきたことを、ただ認めてあげて欲しい。


それが、彼女が真っ先にしないといけないことなのだと思う。