春先に知り合いのおばさんの白寿(99歳)のお祝がありました。
足が悪くて車いすでの生活ですが、頭はとてもしっかりしています。
子、孫、曾孫など、大勢の関係者が集まった会の最後に、
おばさんがあいさつをすることになりました。
簡単にあいさつを述べた後、お礼に数え歌を歌いますと言って、
「一番はじめは一宮・・・」と歌い始めました。しっかりしていると言っても99歳。
大丈夫かなという思いもありましたが、よどみなく最後まで歌い切りました。
参加者は皆、ビックリしたのですが、最後に付け加えた「この歌は、兵隊との別れ歌だったんだよ。」
という言葉に、さらに驚かされました。小説「不如帰」の主人公である武男と浪子を材料にした、単なる
お手玉の数え歌ではなく、言うに言われぬ思いを込めて歌ったことから、忘れられない歌になっている
のかと思わされました。

そのおばさんのご主人は、すでに故人ですが、50歳の時に人生を振り返った言葉を残しています。
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 半世紀を振り返って  T.S 
 昭和13629日、朝からの雨降りしきる中、村人達に祝って頂き、天狗さまの境内にて
出征の式を行い、10キロメートルも有る遠路、敷島駅まで日の丸の小旗を振って御見送りを
して頂き、頼む、元気でとの別れの言葉。今でも身にしみて居る。
 汽車は、横須賀へと第一歩の汽笛を鳴らして静かにすべり出す。行って来ます。後はよろ
しくと故郷を後にして。この日は鎌倉の一泊にて、いよいよ明日30日は入団。41分隊8教班
に配置され、渡辺教班長の下で教育を受ける事になった。
 思い出の数々、楽しかった事、又、苦しかった事、夢中で過ごした新兵生活。中でも、
辻堂の演習、又、横須賀海軍集会所で20銭、30銭を使って御機嫌よくした一時の喜び。
 昭和1311月、海兵団教育は終わった。三等航空兵と成る霞ケ浦海軍航空隊から友部
分遣隊へと転勤。
 昭和143月、筑波海軍航空隊と成る。赤トンボ訓練航空隊。新しい基地だ。基礎を作る
のだとばかりに、毎日の作業に、居住生活に。甲板掃除は、又、特別だった。貴様達の根性
を造る為だとばかりに、体力の有る限り廻れ廻れをさせられる。此れが人間のする事か。
現代の若人に此の様な事をさせたらどう成るだろうか。努める人は居ないだろう。御国の
為だ、御奉公だと教育を受けた我等兵士は、泪を呑んでも心棒した。
 146月。九六陸攻飛行員として、十四航空隊付きの命を受け、筑空より佐世保海兵
団迄、一人旅。佐世保港より、神川丸に便乗。着いた所が海南島、今日も明日もと九六陸攻
は飛ぶ。大陸攻撃は続く。我が兵は一人、二人と此の世から命を落とす。
 あゝ、戦争って此れ程無残な事かと身に答える。
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先日の上毛新聞の三山春秋欄に、コラム氏が車を運転中に車道上をフラフラ歩く高齢の女性
に出会い、話しかけるが要領を得ない。何とか、女性の緊張を解きたいと声を掛け続けると、
この数え歌で女性はにっこり笑い、お手玉で遊ぶような手つきまでして、指示通りに安全な
ところに移動してくれたとのことが書いてあった。
もしかしたら、知り合いのおばさんと同じような思いで、この歌を歌ったことがあったのだ
ろうかと新聞を読んで思った。
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一番はじめは一の宮
二は日光東照宮
三は讃岐の金比羅さん 
四は信濃の善光寺
五つ出雲の大社(おおやしろ)
六つ村々鎮守様
七つ成田の不動様
八つ八幡の八幡宮
九つ高野の弘法さん
十は東京招魂社(注:現在の靖国神社)
これだけ心願かけたなら
浪子の病も治るだろう
ごうごうごうと鳴る汽車は
武男と浪子の別列車
二度と逢えない汽車の窓
鳴いて血を吐くほととぎす