人権の主体⑬

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九 人間存在の属性に関わる問題

 辻村みよ子東北大学名誉教授は、「社会のおける人権状況を念頭に置く場合も、さまざな人権種亭の態様を認めることができる。1994年国連総会での「人権教育のための国連10年」の決議をうけて日本政府が1997年のまとめた国内行動計画、さらに2000年制定の「人権教育及び人権啓発の推進に関する法律」に基づいて刊行されている『人権教育・啓発白書』などでは、女性・子ども・高齢者・障害者・童話関係者・アイヌの人々・外国人・HIV感染者等・刑を終えて出所した人・犯罪被害者その他の項目をあげて個別に課題を提示している。これらの主体の多くは、法的・社会的な差別の対象となってきたため、おもに憲法14条の平等権の問題として捉えられてきた。しかし、最近では、おのおのの人権の内容を明らかにし、人権を完全に保障するという方向で議論することが求められている。」と述べている。(辻村みよ子「憲法」第6版p106~p107)

 

十 人権の始期と終期

1.人権の始期

 人権の始期の問題は胎児に関連して問題とされるようになったものであるが、胎児は将来人として誕生する存在である以上その人権享有主体性を肯定する余地があるとする積極説と、それは無理であるとする消極説とに分かれる。(佐藤幸治「日本国憲法論」p140)

 この問題は、とりわけ女性の妊娠中絶の自由との関係をめぐって各国で議論されている難問である。これについて、アメリカやフランスでは、女性の権利を重視して胎児の生命に対する利益を相対化しているのに対して、ドイツでは国家の基本権保護義務の対象として胎児の生命(権)を重視している。(辻村みよ子「憲法」第6版p103)

①積極説

  戸波江二早稲田大学教授は「胎児は将来人として誕生する存在である以上、胎児の人権享有主体性そのものを肯定する余地がある。具体的には、生命や健康に対する権利とその前提としての個人の尊厳の原理、また、場合によっては財産権の保障などが考えられる。」と述べている。(戸波江二「憲法」新版p150)

②消極説

 初宿正典京都大学大学院法学研究科教授は「現行民法は、私権の享有は出生に始まる(第3条1項)としつつ、損害賠償請求権(第721条)および相続権(第886条)については、《胎児》をすでに生まれたものとみなす旨の規定を置いている(第965条も参照)。アメリカやドイツでは、妊娠中絶の問題に関連して胎児の権利能力が憲法上の問題として議論されているが、胎児それ自体が憲法上の基本権の享有主体となるとすることは無理であろう。もとよりこのことは、胎児の生命を侵害する自由が認められることを意味するものではないことは言うまでもない。」と述べている。(初宿正典「憲法2基本権」第3版p69)

 佐藤幸治京都大学名誉教授は、「この問題を考える際に、自己意識能力ないし精神活動能力等を決め手にすることは適切でないが、人との関係性・社会性といった要素は考慮しなければならず、また、「人権の享有は出生に始まる」と定める民法3条との関係の問題もあり、消極説に与せざるをえない。ただ、胎児はいわば人という個別的生命の萌芽であり、端的に基本的人権の享有主体ではないとしても、「物」とは異なる個別的利益主体として憲法的に扱うべき存在と解される。」と述べている。(佐藤幸治「日本国憲法論」p140~p141)

 中山茂樹西南学院大学専任講師は「憲法は、政治社会の集合的意思決定において、立法府(議会)に委ねられるところと委ねるわけにはいかないところを定めている。憲法上の権利の主体は、自己の一定の利益が憲法上の権利として、保護されており、それが侵害されたと主張して司法的救済を求めることができる。憲法上の平等権の主体は、他の主体と平等に扱われることを憲法上保障されている。憲法上の権利の主体であるということの重要な意味は、この政治社会における「われわれ」の一員であるということである。胎児を憲法上の権利の主体とすることは、胎児に対して立法府をはじめとする国家機関がとるさまざまな政策が、「われわれ」に対する政策と同じものであることを要請する。胎児を保護する手段が、「われわれ」を保護する手段と同じものでなくてはならない。このような縛りを立法府にかける必要はないように思われる。もしここで胎児の特殊性を強調して、同じ政策の要請を緩めるのであれば、胎児に司法的救済の制度の利用を保障しなければならないというのでないかぎり、胎児が権利主体であることにこだわる理由は、なおさらないように思われる。胎児の存在者性が曖昧であるとすれば、憲法が胎児に司法的救済を保障しているとは考えにくい。平等権の(ないし平等の要請があてはまる)主体ではないが生命に対する権利の主体であるような法的主体を構想することは、論理的には可能であるけれども。」(中山茂樹「胎児は憲法上の権利を持つのか」法の理論19p41~p42)

2.人権の終期

 何時「人」でなくなるかの人権享有の終期の問題についても、類似の側面がある。人間の死は基本的人権を失う時であるとされる。一方、「死者の人権」について論じて特に死者の人格権が問題にされる。(佐藤幸治「日本国憲法論」p141)

 判例にも、遺族の利益を中心に救済をはかることで死者の人格権を間接的に保護しようとしたものがある(東京高判1979〈昭54〉.3.14高民集32巻1号33項)。(辻村みよ子「憲法」第6版p103)

①積極説

 戸波江二早稲田大学教授は「死者に対する名誉毀損の正否について、民法学説では、死者自身の人格権を肯定する直接保護説と、近親の遺族の利益を中心に救済を考える間接保護説とがある。判例は後者に傾いているが、(「落日燃ゆ」)事件に関する東京高判昭五四・三・一四高民集三二巻一号三三項参照)、前者は死者の人格権を直接に認めようとするものである。また、臓器移植について、死者の生前の臓器提供の意思表示が必要とされる(臓器移植法二条・六条参照)場合に、臓器提供の意思表示のない死者から臓器移植された場合の損害賠償請求は死者自身が行うものと構成できる。このような事例は、死者自身の人権享有可能性を間接的に示すものといえよう。」と述べている。(戸波江二「憲法」新版p150)

②消極説

 佐藤幸治京都大学名誉教授は「「死者の人権」を一般的に語ることは難しいが、人の死後も人という個別的生命の残影ともいうべきものがあり、端的に基本的人権の享有主体ではないとしても、個別的利益主体として憲法的に扱うべき存在とみる余地がある。」と述べている。(佐藤幸治「日本国憲法論」p141)