拙僧の法道寺で残る
染筆があります。
西国観音霊場29番札所 松尾寺さん
の住職も務められた
等空大阿闍梨です
残念ながら保存状態が悪い
松尾寺ホームページ
等空大阿闍梨は江戸時代の方で
昨日ブログでも書いた
第46世の祐海法印さまが
当寺での伝授会で
お招きさせて頂いたようです
この等空大阿闍梨が、約100年前に
光明真言を説いておられた
覺雲法印の事を聞かれ
顕彰の詩を読まれました。
《 顕彰碑 訳 》
亀岡山を再興した先人である覚雲和尚は薩摩国の人である。法名は高尊という。氏族はわからない。
心身の修行のため様々な場所を訪れていたが、誘いを受け法道寺に来られた。
かつて萬治(1658~1661)の頃、僧堂において修行しながら、
十年ばかりで崩れた祖廟などの建築物を復興された。
生まれつき優れた資質を持ち、精悍な顔つきで、朝早くから夜遅くまで祈りを捧げ、
心の奥深くまで仏道の教えが澄み渡るようで、災いを払い除け、
幸福を求めるその声は谷に響く鐘の如きものであり、名声が世に広まった。
しかし、ずる賢い人がその評判を妬んで役所に訴えた。
ある夜、いつものように本堂でお経をあげていると、天から巨石が降り、
地を大きく震わせ、驚いた浄人(僧に仕える人)は怖れ走って来た。
和尚は落ち着いて、微笑みながら話した。「それはこの石であろう」と。
早朝に和尚は、午後に役人が来る、と言われた。
そしてその通り役人が来て和尚は江戸に向われることとなった。
江戸では役人より密教の教えについて問われ、持ち前の上手な語り口で明確に答えた。
その教えに越前候は感心し尊敬の念を抱き、
和尚を愛染寺の住職に待遇した。そしてそこで三年間教化に努められた後、
亡くなられた。享年四十七歳。寛文十一年(1671)正月三日であった。
祐海阿闍梨が覚雲上人のすばらしい足跡が無くなることを惜しんで、
私に詞の作成を頼んで来られたので、その心に感じ入り無知ではあるがこの詩を記した。
享和三年(1803)八月
等空(とうくう)比丘 撰 文並びに書
中興十七世嗣 祐海(ゆうかい)法印 敬建
拙僧もこの法道寺に来て2年経ちました
まだまだ寺の歴史も探って行きたいです