シンガーソングジャーナリストから報道コメディアンへの転落
Amebaでブログを始めよう!

自己紹介

 タイトルの下にあるように、自分はテレビ局の報道にいながらにして、シンガーもやるという泣く子も黙る「報道のボブディラン」になるはずであった。唯一無二のジャンル「シンガーソングジャーナリスト」。それを目指したきっかけは実は結構シリアスだ。


 1994年に取材したルワンダの内戦。50万人が殺害され200~300万人が難民となった。

フランスはルワンダを植民地支配した際、フツ・ツチ両民族を、差別と対立によって、統治した。その対立はルワンダ独立後、皮肉にもフランスという重石がとれたことで、エスカレートしていった。内戦は遠いフランス植民地時代に起因していると言ってもいいと思う。

 ま、自分の講釈はこの程度にして、そのルワンダの孤児キャンプを訪れた際、ある10歳くらいの女の子の話を聞いた。昨日まで仲の良かったはずの隣人が、対立する民族ゆえに、斧でその子の家を襲撃。目の前で両親を惨殺されたその子は、命だけは助かった。しかし逃げる際に打ち下ろされた斧の深いあとが、額と腕に痛々しく残る。心の傷はいかばかりか。

 しかしその子は孤児キャンプの友達と手をとって歌うのだ。故郷を思う歌を。

 

 孤児キャンプにも、他の難民キャンプにも、目の前で消えていく多くの命があった。

 

 その頃、日本では自衛隊のルワンダへのPKO派遣について、違憲か合憲かでもめていた。しかし、問題は、あの目の前で死んでいく子どもたちを、どうしたら救えるのか、ということである。その結果が自衛隊であるならば、その時、憲法論争でもしたらよかろう。

 現場を忘れ机上の憲法論議とは、まさに本末転倒、愚かの極み。

 閑話休題。

 自分はあの日の孤児キャンプでの女の子の歌が忘れられなかった。元々ライブをやっていた自分は、報道の使命と、歌の感動が相まって、そこで短絡的に単純に「目指せ!報道のボブディラン」。


 そこから、自分はアルバニア内戦、イラク危機、コソボ紛争などを転戦し、日本に帰ってきてから、大手レコード会社からコンピレーションではあるがCDなんぞも出した。しかし、ラジオで初めて曲がかけられたとき、DJの紹介は「報道のボブディラン」でもなく「シンガーソングジャーナリスト」でもなかった。

 「次の曲は報道コメディアンが歌う '大家に捧げるブルース' !」

 

 なぜ「シンガーソングジャーナリスト」から「報道コメディアン」に転落したのか、日々の生活をつづることで、私自身、考えてみようと思うのだ…