「孫牧人・服部良一 韓日音楽100年の友情」

2013年、孫牧人(久我山 明)生誕100年を迎えることになる。先生の生誕100年を記念して日韓大衆音楽交流の青春映画を作って、先生に恩返しをしたいと強く感じている。

私と孫先生の関係は後に語ることとするが、日韓の偉大な作曲家の功績を広く知らしめることが使命のようにも思うのである。私は映画を作る能力も経験も全く持っていませんが、思いを発することで事が動き出すことに少し期待しながら妄想プロジェクトブログを始めました。

今回は、孫先生の自叙伝「他郷暮らし」の中から、服部良一先生との係わりを筆した部分を紹介します。

11.「朝鮮楽劇団」を指揮して

私は、引き継き金陸人とのコンビで、南人樹のデビュー作「愛も要らない、金も要らない」を始め、高福寿の「口笛」「砂漠の恨」金貞九の「海の交響詩」などのヒット曲を続けざまに出し、OKレコードの名声を日本、中国、満州などで高めた。李哲社長は1937年に「朝鮮楽劇団」を結成し、私はこの総指揮車兼編曲者に就任した。初公演は商工会議所の建物内にある公会堂で行われた。舞台装置もなく、背景にはOKレコード社の大きな垂れ幕がかかっているだけだった。だが定員500名のこの公会堂に1000名以上の観客が押し寄せる大盛況だった。予想以上の盛況に、李社長は、私の意見を受け入れて楽士隊を結成した。歌手には高福寿、李蘭影、南仁樹、金貞九、宋達協、李寅権、張世貞、金花子、李銀波などがおり、その他にコメディアンの李鐘哲、そして舞踊団の20名で構成される豪華軍団だった。

「朝鮮楽劇団」の名声は止まるところを知らず、その噂は日本にまで伝わり、東京ピカデリー劇場会館祝賀公演に招かれることになった。日本側は服部良一の指揮する「松竹歌劇団」が出演し、両国の熱の入った競演が話題となった。韓国側の出演歌手は金貞九、南仁樹、張世貞とチョゴリ・シスターズで、日本側はやんちゃガールズという女性4人グループと笹置シズ子らが出演した。我がチームのチョゴリ・シスターズも5人組の女性歌手という構成で、人気を博していた。

第一部は「松竹歌劇団」、第二部は「朝鮮楽劇団」の順で公演は進み熱演となった。次の日、日本の新聞の朝刊には「チームワークの面でも演奏の面でも、朝鮮楽劇団の実力が圧倒的に上だった」という、我々の舞台を激賞する記事が載っていた。
服部良一は日本コロンビアレコードの専属作曲家で、「夜のプラットホーム」「東京ブギウギ」「別れのブルース」など数多くのヒット曲を生んだ、日本でも屈指の大作曲家だった。公演が終わると私と服部氏は抱擁し、観客の声援に応え、互いの舞台を心から讃え合った。国は敵同士の関係にあり、互いによい国民感情を持っていない時期だった。しかし音楽では肩を並べ、むしろ我々の方が優れた舞台を演じたことで、誇りを持つことができたのである。

この舞台で出会った服部良一氏(現83歳)とはこれが縁となって、いまなお私が日本を訪ずれる度に力になってくれいる。 【他郷暮らしより】

写真は当時の朝鮮楽劇団

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また、孫先生と服部先生の関係はもっと深い関係にあったのでは? 現在その資料を収集しており、それをブログで紹介していこうと思っております。
やっとここまでたどり着きました。

とりあえず画像のアップロードにチャレンジです。

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他郷暮らし(タヒャンサリ)―孫牧人80年の人生賛歌 [-]
孫 牧人 (著), 李 康彦 (翻訳)


この本から妄想は始まるのです。ご期待を!
   師走祭りに馳せたおもい

 何故、千年以上も続いている祭が歴史の表舞台に登場することがなかったのか?

 百済滅亡前後して「大化の改新」、「壬申の乱」と続いた日本国内の政変の過程で起きた
「悲劇のドラマ」が現代に伝承された理由は? 

 禎嘉王は誰なのだろうか? 

 そしてなぜ神門神社に祭られているのか? 

 色々な疑問が未だに残っている。

 少し調べて見ると百済最後の義慈王には41人の子供がいたと伝えられている。子供の一人である善光は、百済王氏などとして平安中期まで歴史の表舞台で活躍し、大阪の枚方市には百済王神社が継承されているなどその他、6名ほどの王子の名は歴史に残っているが、禎嘉王に関する記載は見つからない。

 歴史素人の私では限界を痛切に感じてしまった。

 九州の片田舎にある神門神社のお祭が継承された理由を深く考えてふと気がついたことがある。もしかして日韓の近代100年間と、それ以前の1000年以上の歴史変化は同じぐらいの長さではないだろうか? 
 師走祭りのような伝統は日本全国何処でも伝承されてきた物で特別な物では無かった筈ではと思うのである。
 近代百年で無くしたもの、消えうせたもの、忘れられてしまったもの、気がつかなくなったもの、必要がなくなったもの。
 それ以前の1000年間で伝承されなくなったものの数がどれほどの数になるのだろうと考えてしまった。ふとすると? 当時の人々が百済王族が親族を祀る儀式、仕来りに感銘を受けたことが引き継がれたものでは? 当然、親族や親しい人が亡くなった悲しみは理解できるが、人間はその悲しみを背負って人生を全うしなければならない定めである。ただ、亡くなった禎嘉王の墓を年に一度、お墓参りする福智王を見て先祖を思う「恨」に感銘を受けたのでは、その後、福智王も亡くなりその子孫が同じように、年に一度お墓参りを行う様が今の師走祭りに繋がっているのでは?
  
 韓国人同様、私(在日3世)自身も、年に2度必ず日本に戻り、盆とお正月は親戚一同集まる 祭祀(チェサ)に参加しており、8月15日と1月1日は、1日がかりで堅苦しい仕来りに則り祭祀(チェサ)行っている。師走祭りを見て祭りの原点は祭祀(チェサ)が始まりなのであろうと強く感じたものである。そうすると、両国民が持つ情緒は同じように流れてきているのではと感じてしまうのである。時にはその情緒が独占的なものとなったり、排他的になったりし、孤立してしまうことがあったにせよ感覚的な情緒は合い通じるものがあるはずである。
 
 最後に師走祭が伝承されている理由が、一時的に部分的な権力闘争などで争ったとしても双方被害のない、相互理解できる未来平和への思いであってほしいと希望する。

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祭り最後のへグロ塗りの場面