上野東照宮1・・・東京の上野は藤堂家縁りの地  | 余所モノ社長の伊賀・三重大好き日記

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三重県伊賀は青山地区にある青山ガーデンリゾートホテルローザブランカ。このホテル、バブル崩壊で所有者が3回変わり、オペレーターも私で4代目。経営変更により地元とのつながりも切れ、集客に苦戦する日々、でも、でも、と~っても素敵なホテルなんです。

 
 前回、「半蔵門」の評判が意外に良く、今日は東京での伊賀あるあるで、「上野」編。 
上野東照宮です。

実は私、東京住まいで上野は好きで何度も訪れているのですが、上野東照宮は初めて行きました。
日光の東照宮は小学生時代の修学旅行と大人になってから、2度の計3回行ってるのですが、「初」上野東照宮は流石、重要文化財、こじんまりとしながらも中々の趣きです。
最初の写真、よう~く見ると端に観光客写ってますが、外国の方、昨日は外国の観光客の方が日本人より多い位でした。

上野東照宮は、1627年(寛永4年)、津藩主藤堂高虎と天台宗僧侶天海僧正により、東叡山寛永寺境内に家康公を お祀りする神社(徳川家康公→東照大権現)として創建され、1646年(正保3年)には正式に宮号を授けられ「東照宮」となりました。 現存する社殿は1651年(慶安4年)に三代将軍・徳川家光公が造営替えをしたものです。

上野は、江戸城からみれば、北東の鬼門となり、日光は江戸の北東て鬼門ですから、死してもなお、神として徳川家の治世を300年に亘って護った訳ですね。
その後戊辰戦争や関東大震災でも焼失せず、第二次世界大戦にも不発弾を被っただけで社殿の倒壊は免れました。
これも凄いですね・・・・家康公の霊験なのでしょうか・・・・

しかし、我らが伊賀の国主、藤堂高虎公。
築城の名手、戦上手の武将とは言え、生涯に7度主君を代えた「外様」大名なのに、猜疑心が強く、慎重な家康公から菩提寺や霊廟を任されたとは単なる世渡り上手ではない凄みを感じますね・・・
江戸の鬼門を護るのが、上野なら、近畿地区と東海を結ぶ関所は伊賀上野だったのですから、どれだけ家康公に信頼されててたのでしょうね。(?_?)

上野という地名も、諸説あるそうですが、高虎公が伊賀上野に似ているからと命名したという説もあります。もともと上野は開けた土地でなく、上野山〈山というより、丘でなんと旧名は忍丘!)に高虎公が江戸屋敷を持ち、徳川家の菩提寺の寛永寺が作られてから繁栄しました。
ちなみに、藤堂家のお墓は上野動物園の敷地内に在ります。(一般の人は訪れることは出来ないそうです。)


 
 これは、唐門。解説は、上野東照宮のHPから、コピペします。

1651年(慶安4年)造営。国指定重要文化財。正式名称は唐破風造り四脚門(からはふづくりよつあしもん)。
柱内外の四額面には左甚五郎(ひだりじんごろう)作の昇り龍・降り龍の彫刻があり、 毎夜不忍池の水を飲みに行くという伝説があります。
偉大な人ほど頭を垂れるということから、頭が下を向いている方が昇り龍と呼ばれています。
上部の錦鶏鳥・銀鶏鳥の透彫は精巧で美しく、室町桃山時代の技術を集大成したものとして高く評価されています。 内側の透彫は諫鼓鳥(かんこどり)という中国の故事に由来し、皇帝が朝廷の門前に太鼓を置き、 政治に誤りがある時は人民にそれを打たせ訴えを聞こうとしたが、善政のため打たれることは無く、 太鼓に鶏が住みつくほどであったと言う話に基づいています。 天下泰平の願いを込めて彫られたと考えられています。 

 上野東照宮ては、いろいろ面白い発見もあったので、明日、続き書きますね。
それでは(=⌒▽⌒=)