前回「仏教と性欲(その7)性行為禁止の理由」の続きです。エロ話は尽きませんが、とりあえず一旦まとめたいと思います。

 現代の日本仏教において一切の性行為を禁じるという「不淫戒」を遵守する必要性がどれほどあるのか。そんなことを言えば、そもそも不淫戒に限らず全ての戒律で当てはまる問いであるような気がします。というのも、「念仏を唱えて極楽に往生する」とか、「真言を唱えて即身成仏を目指す」とか、「座禅中はすでに仏である」など、日本仏教の各宗派において、釈尊が絶対に言わなさそうな独自のゴールが設定されているわけで、釈尊が説いた「悟り」とは全く別物のゴールを目指すにも関わらず、釈尊が説いた戒律に固執することは非合理ではないかと思えるのです。

 

 また、衣食住に心配せず、ただ修行だけに集中できるという釈尊時代のサンガと同じような仏道環境を現代の日本で探すのは難しく、日本の僧侶は、修行よりも寺院の維持のために本来禁止されている経済活動(金銭の扱い)をせざるを得ない状況にあります。先日、師僧に戒律について色々相談した際には、「戒律は重要だけど、あまり囚われすぎないこと」との助言を受けたのですが、これをどのように捉えたらよいのか、未だ私には知識・経験ともに不足していると感じている次第です。

 

 しかしながら、これまでお話ししたとおり「戒」「定」「慧」という三学のプロセスのうち、「戒を守ることで仏道に適した環境を整えることができる」という考え方については、正しいという強い感覚があります。実際、今年春以降、一切の飲酒を禁ずる不飲酒戒を実践してみたら、以前よりも格段に高い仏道パフォーマンスを発揮できていますので、同様に、不淫戒も実践することでパフォーマンスを向上させることが可能であるか確認してみたい。そのため、現在、最低100日間の不淫戒を実践中です。その後の効果をみて、一切の性行為を禁じる「不淫戒」を継続させるか、今日本の多くの僧侶が採用している不適切な性行為を禁じる「不邪淫戒」を実践するかを考えてみたいと思います

 というわけで、この話の続きは100日後の11月ころに改めてしたいと思います。性の話は奥深い。

 

 ちなみに、不適切な性行為を禁じるという不邪淫戒についてですが、一般的には「妻以外とのセックスを禁ずる」という内容で知られています。しかし実のところ、それ以外にもルールがあり、例えば、「阿毘達磨倶舎論」や「瑜伽師地論」などの様々な論書において、アナルセックスやオーラルセックス、また、妊娠・月経・授乳・病気の期間における性行為が、不邪淫戒違反であるとされており、そして、龍樹の「大智度論」では、「不適切な性交は、女性の心が楽しまないので、不邪淫戒違反となる」という旨が記されていたりします。どうやら、不邪淫戒とは、男性本位の自分勝手なセックスをしてはいけないという戒めのようです。

 

 次回に続きます。