前回「仏教と性欲(その2)大天の五事」の続きです。
「阿羅漢でも夢精することがある」
大天のこの発言は上座部の長老たちによって「妄言」とされ、激しく非難されますが、他方、大天の主張を認める人々が一派を成して「大衆部」というグループを形成したことを考えると、必ずしも一笑に付するような浅薄な考え方ではなかったのかもしれません。
阿羅漢とは、仏教僧の中でも修行を究めて悟りを開いた聖者のことです。悟りを開いた者は「煩悩の炎が吹き消された安らぎの境地(涅槃寂静)」にあるとされるので、文字通りに解釈すると、女性を見て興奮して射精するということはないでしょう。
ただ、最古の経典である阿含経によると、悟りには以下の二種類があると記されています。
〇 有余涅槃(うよねはん)
全ての煩悩を滅していても、未だ生存の根源である肉体が残っているため、五感によって快や不快などを感じる状態のこと
〇 無余涅槃(むよねはん)
全ての煩悩を滅し尽し、肉体も滅して心身の束縛から完全に離れた状態。つまり、悟りを開いた者が死んだ後の状態のこと
以上の内容から、悟りを開いたとしても、人間である以上は痛みや空腹といった生理現象を回避できないことを、仏教が認識していることが分かります。
そして、釈尊の臨終の様子を記した「大パリニッバーナ経」という経典には、以下のような記述があります。
尊師が鍛冶工のチュンダの食べ物を食べられた時、激しい病が起こり、赤痢が迸り出て、死に至らんとする激しい苦痛が生じた。尊師は実に正しく念い、よく気を落ち着けて、悩まされることなく、その苦痛を耐え忍んでいた。
さあ、アーナンダよお前はわたしのために外衣を四つ折りにして敷いてくれ。私は疲れた。私は座りたい。さあ、アーナンダよ。私に水を持って来てくれ。私は喉が渇いている。私は飲みたいのだ。
【大パリニッバーナ経】
釈尊は、食中毒となって激しい苦痛に襲われたものの、定(精神集中)によって、うまく苦しみをコントロールしている様子がうかがえます。しかしながら、何事もない状態になっているわけではなく、「疲れた。座りたい」「喉が渇いている。飲みたい」などと述べており、人間の生理的欲求に従う様子もうかがえます。
では、苦痛ではなく快楽の場合はどうなのでしょうか。例えば、釈尊が美味しい食べ物を食した結果、味を感じないのでしょうか。浅学な私ですが、思うに、釈尊は、美味しい食べ物を食べると、美味しいと快楽を感じるけれども、ただそれに一切執着しなかった…ということではないでしょうか。
次回に続きます。