前回の記事「仏教と霊魂(その3)」の続きです。

 

 前回の記事では、部派仏教や大乗仏教の大変な努力によって、仏教の輪廻思想が論理的に確立したことについてお話ししましたが、今回は、その輪廻思想に基づき、霊魂に関するお話をします。

 

 仏教の輪廻思想では、人間の生まれ変わり先として「六道」を想定しています。六道とは、天界・人間界・修羅界・畜生界・餓鬼界・地獄界という6種類の世界のことを言います。人間は、死後、生前に善行を行っていれば、天界や人間界に生まれ変わり、悪行を行っていれば、餓鬼界や地獄界に生まれ変わるとされ、悟りの境地に達して「解脱」しない限りは例外なく六道のどこかに生まれ変わるとされます。

 

 この説に従えば、人間は死んだ後に必ずどこかの世界に生まれ変わることになるわけですが、いくつかの疑問が生じます。というのも、人間は死んだ直後すぐに人間界に生まれ変わって別人として誕生するかもしれません。そうなると我々が故人のために葬儀を行う理由がよく分からなくなります。また、死んだ後に現世に留まる霊魂、すなわち幽霊の存在については全く説明がつかなくなります。これをどのように考えるべきでしょうか。

 

 この疑問への回答の一つとして「中有」(ちゅうう)という考え方があります。前回の記事で紹介した部派「説一切有部」の論書「大毘婆沙論」(だいびばしゃろん)によると、死後から生まれ変わるまでの中間の期間を「中有」とし、7日から49日の間、霊魂が彷徨う状態になります。その期間は、生まれ変わり先の母体を探すなど来世への準備期間と位置付けられます。

 日本人お馴染みの四十九日ですが、これはこの中有における最長期間を意識したものであり、故人が他の世界に生まれ変わる前に、少しでも良い世界に生まれ変わってもらえるように供養(回向)を行うというわけです。中有は7日単位で最大6回まで延長が可能らしく(笑)、日本仏教では、これに合わせて七日ごとの供養が行われています。葬儀の意義を理解するには、この「中有」の思想を知っておくと良いと思います(中有は「中陰」ちゅういんともいいますが、「中陰」でネット検索すると葬儀屋さんのWEBサイトばかりが表示されます)。

 ちなみに、中有の期間中に彷徨う霊魂については天眼通(超人的な視力)によって見ることができるらしいので、死んでから間もなく故人の霊を目撃したという話をよく聞くのは、ひょっとしたら、この中有思想の正しさを表しているのかもしれません。

 

 なお、この中有については、説一切有部・正量部・大乗仏教(唯識思想)などが存在を肯定しているものの、大衆部や経量部・上座部仏教・大乗仏教(空思想)は存在を否定しており、仏教各派によって意見が分かれる状況となっています。

 ただ、日本仏教では、中有の存在を肯定する説一切有部のアビダルマをまとめた「俱舎論」を古代から大切にしてきたという経緯もあって、中有の思想が根付く結果となっています。

 

 次回記事「仏教と霊魂(その5)」に続きます。