釈迦は厳しい修行の果てに真理を悟って仏(ブッダ)になったとされます。そのため、仏教においては、度々、「釈迦の悟った真理とは何か?」が議論のテーマとなります。仏教談義を好む私もこのテーマで語り合うことが好きで、あえて戯言を楽しもうと、様々な意見を述べます。よく口にするのは、「釈迦は、縁起(あるいは空)を悟って仏陀になったのである」とか。

 

 しかし、「釈迦が何を悟ったか?」をテーマにすることは、そもそも愚問であるとする意見があります。実のところ、私もその意見に同意しており、「釈迦が何らかの真理を悟った結果としてブッダになった」とは考えていません。

 

 仏教学者の宮元啓一氏は、「ブッダとは、『ブドゥ』(目覚める)の過去分詞形であり、『目覚めた人』と訳されるのが正しい」と指摘しています。確かに、ブッダを「悟った人」と訳してしまうと、「何を悟ったのか?」という問いが生じますが、他方、「目覚めた人」と訳すと、自動詞であるために目的語をとらず、「何を悟ったのか?」という問いは生じないことになります。

 

 仏教では、「無明」という言葉があります。これは、「人間は、物事と向き合う際、過去の経験、あるいは、言語や情報を駆使して判断・分析する結果、バイアスの発生を回避できず、ありのままに見ることができない」という事実を言い表した言葉のことですが、私は、この「無明」から「目覚め」、物事の見方が劇的に変化すること=ブッダになることであると考えています。「悟る」ではなく「目覚める」がやはり正しいのです。

 

 釈迦は、出家からブッダになるまでの6年間(意外と短い)、3人の師匠に学び、さらには厳しい苦行に至りましたが、これらの過程において、それぞれ、手応えが有ったもの無かったものを感じ取っていたわけで、それぞれの経験(点)が瞑想によって(線で)つながり、「目覚めた人」となった。

 そして、諸行無常・諸法無我・涅槃寂静、仏教の核心となる思想については、ブッダ「目覚めた人」となった釈迦が、ありのままに世界を見ることで得たものであろう…そのように想像しています。