ケン太「さぁ、今回で最終回だね!」
諏訪「それはどうかな?」
岩田「なヌ?」
諏訪「ウソウソ、一応今回でラストな」
ケン太「じゃあさっそく…、レッツゴー!」
犬千代「ニャー」
…
ケン太「先生、今回は結論から先に出して」
諏訪「そうだな。 教景だらけの系図はなぜ作られたかというと…」
神崎「いうと…?」
諏訪「…それは……」
岩田「…それは…?」
諏訪「……これは俺の考えだよ」
ケン太「良いから早く!」
諏訪「俺は…慈視院光玖が、朝倉家系図から斯波家臭を排除したかったんだと思う」
神崎「……説明をお願いします」
諏訪「おう…ではまず、光玖が作ったであろう系図を見てほしい」
【朝倉系図1】(推定)
景行天皇
┃
(略)
┃
広景
┃
高景←足利尊氏(高氏)の一字拝領
┃
氏景←足利尊氏(高氏)の一字拝領
┃
貞景
┃
教景←足利義教の一字拝領
┃
教景←足利義教リスペクト
┃
教景←足利義教リスペクト
┣━━┳━━┓
氏景※教景※教景(宗滴)
ケン太「あぁ、宗滴さんトコの系図ね」
諏訪「この光玖系図の特徴は、徹底した斯波家からの一字拝領の痕跡の消去だ」
岩田「なるほど…この系図上では斯波家からの一字拝領が見えないな」
諏訪「第1夜でも説明したけど、結城合戦の戦功を賞される際、当時62歳の美作守教景が将軍足利義教から一字を拝領したってのは、割と無理のある話だ」
ケン太「まぁ…そう……・かな」
諏訪「本来なら、斯波義重が義教に改名した応永七年(1400)、21歳の時に主君から一字拝領する方が、よほど自然じゃないかな?」
神崎「…普通なら…そうですね」
諏訪「…一方で、足利義教が心月教景ではなく、英林孝景に『教』の一字を与えたのなら、辻褄が合う点がある」
岩田「どういう風にじゃ?」
諏訪「長年、織田家の歴史を調べてる人間にはな… 英林と同じ応永末年~永享初年頃に生まれた世代ってのは、とても判別しやすいんだよ」
ケン太「…だから、なんで?」
諏訪「永享八年(1436)、斯波義郷(義淳の弟)が三条中納言家からの帰宅中に落馬し、翌日その怪我で死ぬ…という事件があった」
神崎「落馬して死んだんですか?」
諏訪「義郷は死ぬ2年前まで僧籍にあった身だから、乗馬は慣れてなかったというのもあるだろう」
ケン太「武士が落馬で死ぬのは恥ずかしいからね」
諏訪「ともあれ、斯波家の家督は義郷の子で、まだ数え2歳の千代徳丸が継ぐんだけど…」
ケン太「…けど?」
諏訪「千代徳丸が宝徳三年(1451)に元服して『義健』を名乗るまで、斯波家中は主君から一字拝領できない状況だったんだ」
ケン太「なるほど。 主君から一字拝領が受けられない時期だから、英林の初名が将軍足利義教からの一字拝領でもおかしくない…と?」
諏訪「その通り!」
諏訪「もう一つ…」
神崎「なんでしょう?」
諏訪「時代は遡るが…朝倉2代高景・3代氏景親子は室町初期の文和四年(1355)に南朝方の斯波氏頼の元にいたはずなのに、光玖系図ではなぜか北朝方の足利尊氏の直臣として戦っていた事になってる」
ケン太「そこで奮戦を見た尊氏から、旧名の「高氏」の二字を、それぞれ朝倉親子(高景・氏景)に与えた事にしたんだよね」
岩田「酷いこじつけじゃな」
諏訪「とまぁ見たように、この光玖系図では割と色々無理があるのは判ったかな」
神崎「…はい」
諏訪「これに対し、実際の系図はこんな感じだろう」
【朝倉系図2】(推定)
孝徳天皇
┃
(略)
┃
広景
┃
高景←斯波高経の一字拝領
┃
氏景←斯波氏頼の一字拝領
┃
貞景
┃
教景←斯波義教の一字拝領
┃
家景
┃
教景←足利義教からの一字拝領
敏景←斯波義敏からの一字拝領
┣━━┳━━┓
氏景※教景※教景(宗滴)
神崎「…こうしてみると、朝倉家は、斯波家に寄り添った家だという事が判りますね」
諏訪「割と現代資料では触れられてないけど、3代朝倉氏景が斯波氏頼から一字拝領を受けた事は間違いない」
ケン太「なんで?」
諏訪「『太平記』巻三十三で…
尾張左衛門佐カ後陣ニ朝倉下野守カ五十騎許ニテ通リケルヲ追切テ討ント六條河原ヨリ京中ヘ懸入ル朝倉少モ不騒~(中略)~左衛門佐是ヲ見テ朝倉討スナツヽケトテ三百餘騎取テ返シ
…とあるけど、この尾張左衛門佐が斯波氏頼で、朝倉下野守が朝倉高景だから、その子氏景の一字は誰のか判るよね?」
岩田「なるほどの…」
ケン太「じゃあさじゃあさ、慈視院光玖はなんで陳腐な嘘ついてまで、系図を作ったの?」
諏訪「じゃあ、光玖系図が作られた時期と意味を、考えてみようか」
神崎「はい」
諏訪「まず光玖系図の作成時期だけど…最遅期は光玖の没した明応三年(1494)だ」
岩田「当然じゃな」
神崎「…では、最早期は?」
諏訪「斯波家から二度目に訴えられた延徳三年(1491)だろう」
ケン太「え……あ、そんな狭い期間に限定できるの?」
諏訪「光玖系図が作られた理由は…今後また斯波家に訴えられる事を予見して、未来の朝倉家に我が家は、将軍家の直臣であり斯波家の被官ではないという事を、系図で示したかったんだと思う」
ケン太「ほ~」
諏訪「その際、、朝倉家に初めて将軍家から一字を与えてくれた足利義教を、最大限利用しようと考えたんだろう」
岩田「………」
諏訪「だから、その『教』の一字を使った『教景』の名前を、代々引き継いだ」
神崎「そういえば、文明九年(1477)生の宗滴は、斯波家が将軍に朝倉家を訴えた延徳三年頃には、ちょうど元服できる歳になってますね」
諏訪「そうなると、宗滴に『教景』と名付けたのは?」
ケン太「………光玖?」
諏訪「…たぶんね」
神崎「だから、宗滴さんの家に、教景だらけの系図が残ってたんですね」
ケン太「じゃあさ、現代に残っている孝徳天皇を祖とする系図は?」
諏訪「そっちは天文二十年(1551)、
朝倉義景の時代に、氏寺である心月寺の住持に、『赤淵大明神演起』を作らせた折に、一緒に作らせたとされている」
岩田「こちらは、教景だらけではないんじゃな」
諏訪「この時代は、既に斯波家から越前返せと言われるような状況がなかったから、割合まともな系図を作れたんだと思うよ」
ケン太「なるほどね~」
諏訪「3人とも納得した?」
3人「はい!」
諏訪「…なら、神崎くん」
神崎「はい」
諏訪「朝倉義景さんに連絡して。 頼まれていた案件の調査・考察が終了しましたってね」
神崎「承知しました!」
ケン太「これにて、一件落着!」
犬千代「ニャー」
~終~