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ふるさと納税?クラウドファンディング? 何でも良いので是非やらせてください。
 
 ”あなたの支援で、私があなたの代わりに、日本各地の小学生を対象に『躾』の講演を行って参ります。”
 私も今後、これを生業としてゆく為、無償ではできません。しかしながら、学校からお金を頂くこともできません。
 従って、皆様の善意で寄せられた寄付金を『躾の講演』として各学校に寄贈する形をとり、私が講演を行う報酬として頂く仕組みを考えました。
 近じか これをクラウドファンディングで公募したいと考える次第です。
 皆様、是非ともご協力くださいますようお願い申し上げます。

 <2月17日>
 訳有って休止状態で済みません。この間、9月中旬から転職した会社の賃金が思うように払い込みされなかったりした問題の対処、専門学校に通っている末息子が成人し、就職も決まり、東京に独り住まいをするための契約や、お別れ会やら・・・何かと多忙でした。
 この件、諦めている訳では決してありません。・・・クラウドファンディングの情報も確認しつつ、どうしたら事が上手く運ぶか試行錯誤しているところです。
 私の考えていることは、自分自身でも決して間違っているとは思いません。・・・ただ、私如きが進めて良いものかと、何時も自問自答しているのも事実です。・・・でも、誰かがやらなければ・・・誰かが・・・。
 
<11月26日>
 ふるさと納税(その他でも)で私の考えている事が実現できますか?

 私は、昭和32年に沼津市のとある海岸線の地区で産まれました。兄弟は一番上の兄とは学年で10離れており、その下に8歳違いの姉と5歳違いの姉がいる4人兄弟の末っ子です。家は戦後に父が材料を買い集めて建てたと聞いていますから、私が物心付いたときには既にオンボロの小さな家でした。煮炊きをする土間の横にある風呂場には囲いがなく、誰か来ても丸見え状態でした。風呂は薪をくべて炊いていましたが、木の楕円形の湯船には底にスノコのような板を沈め入っていました。しかし私には、その底がどうなっていたのか分かりません。外の窯は中にも見えていて、時々足が触れるとビックリするほど熱かった記憶があります。そしてトイレとは到底呼べない和式のボットン便所は、外からは、その下側に汲み取り口の戸があり、家族の汚物は、桶で家のすぐ横の家庭菜園に運んで肥やし(肥料)で使っていました。
 その家には、多い時で13人程が住んでいたそうですが、私の記憶では父の妹と家族(兄妹)の3人が、4.5畳の一部屋を使って住んでいました。
 私は、その大家族の末っ子として産まれましたので、恐らくマスコットというよりは、ペットみたいな感じでチヤホヤされて育ったのでしょう。ですから、甘えん坊や自分勝手な性格は、そういった環境も大いに影響があったと思っています。ただ、祖母は躾に厳しく行儀作法は煩いほどに注意されました。食事中にテーブルに肘を着いたり、立て膝をしてたりは当然叱られたと思いますが、一番印象に残っているのは、丁度60年安保の時でしたか、私が家の6畳間で「安保反対!安保反対!」と意味も解らず、叫びながら歩き回っていて、祖母から「そんなことを言っちゃダメだよ!」と酷く叱られたことを憶えています。考えてみれば、それは私が3歳の時の記憶だったのです。

 それから幼稚園に入った位のことでしょうか?祖母の姉の住んでいる茨城(県)に行ったことがあります。確か、あの時は、祖母の姉の夫が亡くなって葬式に行ったのだと思いますが、先に話しました父の弟夫婦が祖母と私を連れて行ってくれました。その時、仕事で休めない父から「星野家を代表して言って来てくれ。」と言われたことは今でも憶えています。
 今の御殿場線だったのでしょうか?それは蒸気機関車でした。途中、それは国府津だったのか?列車の後部が切り離されました。その様子を叔父と見ながら、その開口部から、切り離された列車が少しずつ遠のくと同時に空間の明るさが広がる光景、次第に走り出した列車の最後尾から眺めた変わりゆく線路や景色が懐かしく思い出されます。
 そして、もう行きか帰りか定かではありませんが、東京の両国に立ち寄りました。食事をしたのだと思いますが、何故、両国だったのか?今思えば、恐らく、叔父が自分の父にあたる人が元相撲取りで、その聖地である両国を自分の母と訪れたかったのではないでしょうか?と勝手に考えてしまいました。その時、ある店先に眠るように横たわっている大きな死んだイノシシが置かれていたのを鮮明に憶えています。それで、茨城の家に着くと祖母の姉が私を見るなり「これは輝夫のこだね。」と言いました。(実際にはナマっていて、他の話しは全く聞き取れなかったのですが、このことだけは聞きとれました)そして私は何故だか、とても嬉しく幸せな気持ちになったことを憶えています。私は父の言葉もあり、子供ながら緊張していたと思いますが、お陰で周囲の人の振る舞いを注意深く観察していたと思いますし、葬式での礼儀作法は、かなり年上の兄や姉よりも、また他の誰よりも早く経験し、また学ぶことができたと自分なりに思っています。

 <11月27日>
 それから幼稚園・小学生の私は、友だちは結構沢山いましたし、親友と呼べる子も、その時々で何人かいました。また幼なじみの子とも毎日、日が暮れるまで遊んだものでした。野球が一番好きでしたが、人数で三角ベースにしたり、2人の時は、1塁とホームベースだけにして遊んでいました。その他、かくれんぼ、ビー玉、メンコ、コマ回し等をして遊びましたが、その中でも、あまり仲間外れにされたということはありませんでした。1人でいても歌うことが好きだったので、つまらないということは、あまり感じなかったように思います。また、勉強は4月生まれということもあり良く解りましたから、どちらかと言うと好きな方でした。母が父の新聞配達の仕事を夕刊だけ手伝っていたこともあり、学校から家に帰っても誰もいないことが多く、宿題は先に終わらせて明日の支度まで済ませてから遊びに出掛けるということが日課でした。そして母は、仕事から帰ると私のランドセルから予定表を見て、その中身をチェックし、その他、必要な物を用意しておいてくれました。
 そんな勉強も遊びも活発にしていた私の運命を大きく変えてしまったのは、小学校4年生の時のことでした。3年生の時の担任だった女の先生は、男っぽいくらいのサッパリした明るい先生で、叱る・褒めるを上手に使い分ける凄く良い先生でした。その先生に4年生でも受け持たれたのだと思いますが、ある時、突然、産休に入ってしまいました。そして私のクラスは暫くの間、担任不在になり隣りのクラスの教室の後ろに立って授業を受けていました。その後、臨時で来た男の先生は、いつもパイプを銜えていたので、そのまんまですがパイプ先生と呼んでいました。この先生は、中国の上海に住んでいたということで、何かにつけて上海の話しをしてくれました。とても楽しい授業でしたが、かなり短い期間のことだったと思います。
 そして、その後に来た若い女の先生が担任になりました。この先生は、如何にも勝気といった印象の先生でしたが、その時、学級委員だった私は、よく先生の用事を手伝わされていました。また当時の私自身も、よくオシッコを漏らす子がいたのですが、自分がするしかないと思い、雑巾とバケツを用意しては、その後始末を積極的にする等していました。・・・そんなある日のこと、学校が終わる前に漢字の小テストが行われるようになりました。10問の書取テストですが、その前に先生の独断で班替えが行われました。5人程の班だったと思いますが、私の班は、私以外は勉強のできない子を集めた班でした。そして班毎の点数で最下位の班はバツ掃除をして帰ることになりました。当然の結果ですが、私がいつも満点でも合計で毎日が最下位でした。毎日、毎日バツ掃除をして帰るということが1~2カ月続いたのだと思います。
 
 <11月29日>
 今、考えれば先生は私に相当な期待をしていたのかなとも考えられますが、その時の私は、何だか凄く損をしているような気持ちで、勉強ができても何も良いことが無く、つまらないなと考えるようになったのだと思います。そんな折、勉強のできない班の人達が遊びに誘ってくれるようになりました。そして、今まで行ったことがない少し離れた彼らの家まで自転車で出掛けて行くようになりました。彼らの遊びは、私がそれまで経験した遊びとは全く異なり、かなり危険を伴う遊びもありましたが、とても面白く、むしろ私の方が彼らと積極的に遊びたいと思うようになっていったと思います。
 最高に面白かったのは、確かローリングストーンと言っていました。彼らがローリングストーンズを知っていたとは思えませんが、その遊びは、当時、新校舎移設に伴い廃校になっていた沼津商業高等学校のプールでした遊びです。そのプールは25mだと思いますが、手前側が2m位の深さで先端側から5m位が一番深く、5~6m位あったと思います。そして、そこから先端までは、3~4m位の深さといった傾斜のあるプールでした。そして、そこには何故か、大型トラックの古タイヤが散乱していました。誰かの「やるぞ!」という声で、2人がプールの先端側に駆け出しました。2人でタイヤを立てて、あとの1人がタイヤの中央の穴へ身体を丸めて入り込むのを両サイドから補助します。先端側にいる2人が定位置に着き、タイヤの中にいる人がOKを出すと、補助の2人がタイヤを少しずつ安定するまで転がして行きます。・・・すると、タイヤは坂をどんどん加速して転がって行きます。そして先端の登りになる地点で最後2人がタイヤをキャッチして静止させるという遊びです。
 この遊びは、本当にスリル満点で凄く楽しかったのですが、難点は、最低5人揃わないとできないということと、タイヤを元の位置に戻すのに、かなりの体力を消耗するので1人がタイヤに乗れるのは精々2回位ということでした。・・・でも勉強がダメな彼らが、安全には十分気を使っていたということが驚きでした。
 でも、どうしても一緒にできない遊びがありました。それは当時、2B弾(ニイビイと呼んでいました)・クラッカーといった10センチ弱くらいの長さで5~6ミリの筒状の紙に巻かれた爆音と共に炸裂する花火を田んぼのカエルを捕まえて、その口に押し込み破裂させる遊びでした。カエルは仰向けになり、白い腹が黄色く変色し風船のように膨れ上がり死んでしまいます。この遊びだけは、横で見ているだけで精一杯で、とても自分ができるものではありませんでした。
 そんな遊びに夢中になっていった私は、次第に勉強をする意欲も薄れて行き、そして当然、成績も徐々に下がって行くようになりました。

 <11月30日>
 そんな私でしたが、中学に入ると最初の実力テストで思いがけず、クラスで3番、学年で25番という好成績でした。担任の男の社会の先生は、私のことを自分の子供によく似ていると持ち上げてくれましたので私も少しは頑張ろうかなと思っていた矢先、確か春の遠足だったと思います。今でも私の心奥底で悔しさが残っている重大な出来事がありました。
 それは、遠足のプリントが配られた時から始まりました。そのプリントには遠足の服装はジャージとなっていました。・・・当時、中学校に入ったばかりの子は誰もジャージなんか持っていませんでした。2~3年生は皆、着ていたので、いつかのタイミングで買い揃えるのかなと思っていましたので、母にプリントを見せて「ジャージを着て行くんだって!」と言うと、母は「学校で必要なら買わなきゃ仕方ないね。」と言いました。その後、母と一緒にジャージを買いに行きましたが、・・・余談ですが、この時のことで『一杯のかけそば』ならぬ『一杯のラーメン』は、私の心の中に強く残っています。その他、3千円の私の靴を買うために、母は6回の月賦払いにしたこともあります。・・・当時の我が家は、丁度、家を建て替える時でしたし、母は姉達の結婚準備で着物を揃えたりもしていたものですから、お金が無いのは私も理解していました。
 そして暫くのこと、また学校から遠足のプリントが来ました。私は家に帰る前に、その内容を見て愕然となりました。そのプリントには、服装は私服でと訂正されていたのです。物凄いショック・・・でした。でも、私は母の苦労も解っているし、さすがに母に私服になったとは言えず、そのプリントも家には持ち帰りませんでした。それで私は、当日は覚悟を決めてジャージを着て出掛けて行きました。そして学校に着くと、もう1人ジャージを着ている子がいたので妙な安心感を憶えましたが、その子は学校から直ぐ近くの家だったので、先生から「着替えて来い!」と言われて、一度家に戻り、私服に着替えて来ました。・・・その結果、ジャージで遠足に行ったのは私だけということになりました。先生は勿論、皆に色眼鏡で見られて、ジャージはダメなんだよ!と念を押す馬鹿野郎どもがいたりで、どうしようもなく気まずい想いをさせられました。
 ・・・ここで言い忘れましたが、当時は小学生は半ズボン。中学生は何処に行くにも征服という時代ですから、中学に入ったばかりで私服なんか持っていませんでしたし、中学生が小学生と同じ半ズボンを身に着けることも可笑しなものです。恐らくジャージのない父兄から苦情が来て私服に変更したのでしょうが、もし、私がその時の先生の立場なら、その時代の状況からも、2年生までにはジャージが必要になるのでと言い切ったと思います。・・・兎に角、この時は、また私服を買ってくれとは母が可哀そうで、とても言えませんでした。そんなことがあり、私は先生たちに対して物凄い不信感を募らせたのです。・・・それ以来、チョット、いや相当に学校ではグレテいたと思います。授業中に先生の話しの上げ足を取ったりして邪魔ばかりしていました。それが皆の爆笑を誘ったりしていたものですから、次第に快感に変わって行ったのかも知れませんが・・・。
 そして、成績の方は、どんどん下がる一方で、中学2年生の一学期の時には、国語で赤点を取る破目に陥り、夏休みの補習授業を受けたこともあります。最悪の時は、学年約190名中、150位くらいまで下がったのでしょうか?(先の裁判の話しでは、私は誰も恨んでいないと言いましたが、この時の先生たちは一生恨むのでしょう。毎年、同窓会の案内が来ますが、一度も参加したことがありません。中の良かった人には、皆には会いたいけど、あの先生たちが死んだら行くよと言ってあるくらいです)

 その後、自分でも少しは奮起して、高校は何とか県立の沼津工業高等学校の工業化学科に入ることができました。本当は、もう少し上の学校にも入れたと思いますが、(誤解のないように・・・当時は、そう思っていただけで、今は、そこで親友もできて妻とも知り合うことができて本当に良かったと思っています)何せ内申点が悪過ぎて先生が受けることさえさせてくれませんでした。でも、高校では今までの先生たちもいない訳ですから、心機一転、学業は頑張りました。特に専攻の化学では、いつもトップクラスの成績だったと思います。そして、就職の時のことになりますが、また、とんでもないことがあったのです。

 
 <12月4日,12月24日>
 (前述11月29日の遊びの話しで少し追加修正しています)
 高校1年の時、最初に友だちになったのはチョットだけやんちゃな子のグループでした。きっかけを話すと長くなりますので・・・でも、そういう人たちとは私は過去の経験から直ぐに親しくなれる特技とも言うべき才能があるみたいです。その子たちの影響で直ぐに原付免許を取り、バイクで
 ※ここまで書いて、どうにも気が進まず、その日は眠ってしまいました。夜の8時頃、長男の帰って来た声で目が覚めました。・・・酷く怒っている様子でした。起きて事情を聞くと、仕事先の駐車場で車の左サイドミラーが折られていたと言うのです。警備員という立場から、警察沙汰はクビにもなり兼ねません。やむを得ず警察への届け出は避けましたが、保険会社には連絡し、翌日、車の破損状態を観て貰いました。しかし、当て逃げという結論に達し私の車両保険では修理費が出ないというので、実費で4万円超の出費になりました。・・・その他、ここ1カ月位の間に様々な不運が続きました。最初はバイクのパンクで始まり、後輪を新品に交換して2万円位の出費となり、その後、リビングの蛍光灯が点灯し難くなり、蛍光管を交換しましたが直らず、一昨日、とうとう点灯しなくなり、昨日、妻が一番安いLEDの蛍光灯を買ってきましたが、それでも蛍光管と合わせて1万円位の出費。そして、その間にも9月中旬に勤め始めた会社の給料が3カ月連続で一部未払い状態でした。会社は1月に精算すると言ってきましたが、それでは、年が越せません。会社を辞める覚悟で「もう良いですよ。」と捨て台詞を残し、メールを終えると会社から直ぐに電話が掛かってきました。頭にキテイタ私は電話には出ず、携帯の電源も切って眠ってしまいました。すると翌日、会社から差額を現金で約6万円貰うことができました。・・・それでも、また計算ミスをしていて、あと1万円位の未払いになっています。
 あと、これで最後になって欲しいのですが、91歳の母が、20日、日曜の朝、ベッドから起きるときに転倒して大腿骨を骨折してしまいました。22日、火曜日に無事手術を終えましたが、もう年も年ですので、兄が看ているとはいえ、これから頻繁に顔を見せに行くことになります。・・・このような状況ですので、私としても大変、不本意ですが、年内に終わらせたかった※日本の文化『躾』をグローバル スタンダードに!の話しは、ひとまず中止させていただきます。・・・でも、このことは私に与えられた使命と思っていますので、年明け早々には、また再開したいと考えています。・・・最後に、全く別な意味で、今回の不幸続きの話しの中で不可思議な事が3つあります。1つ目は、車の当て逃げの前のことですが、私は車を降りる直前にサイドミラーを格納した方が良いかなと一瞬思ったのですが、まあ良いかと思ってそのままにしてしまったことを記憶しています。そして、仕事から帰って12月4日に文章がどうにも書けなく止まってしまったことです。2つ目は今回の不運の出費と会社の賃金未払いの金額が同等金額だったということです。そして3つ目は、母の骨折と同時刻に妻が私の大事にしていた、娘が数年前に買ってくれたマグカップを落として割ってしまったということです。・・・愛読してくださいました皆様、今年1年ありがとうございました。・・・良いお年をお迎えください。


<1月13日>
 (やっと再開します。・・・と言っても少々、事情が変わりまして、事を先に進めなくてはならない現状に至りました。・・・遅れましたが、今年もよろしくお願い致します。結局のところ、私は自分がこの先、やろうとしていることが、こんな私でも実現できるのだろうかという問い掛けをするために、このブログを書いていた訳でして、時間もなく、悪質なイタズラは今年に入ってからも続きましたし、母の見舞いもあったので・・・もう今は、とても書く気にはなれなかったのです。ですから、計画を変更せざるを得ない訳でして・・・悪しからず。しかし、この章だけは完結させます。いつか次の章で社会人になってからの私を紹介しますが、先に、その次の章で私の志す事を紹介して終わりたいと思います)
 その子たちの影響で直ぐに原付免許を取り、父に毎日、バイクのカタログを見せ、やっとの思いでヤマハのミニトレール(通称、ミニトレ)を買って貰いました。色はライトグリーンでした。(確か、6.7万円だったと思うのですが、このバイクは数年後に友人に5万円で売り、父に全額渡しました)それで、そのバイクで友人と山梨方面、箱根方面、伊豆方面とツーリングをしたりしていました。・・・そして、高校2年になると、私はそれまで遊んできて友人に何か違和感があったのでしょう。今度は、ロックバンドをやっているグループの仲間に加わりました。私はバンドには参加していませんが、その中の1人とは、家も近かったため、よく彼の家に遊びに行っていました。そして或る時、もう時効なので話しますが、彼の家で二人でウィスキーを飲んでいたのですが、話しも煮詰まって、私のバイクで深夜に二人乗りで富士の方へ向かって走りました。彼が無免許は知ってましたが、私の方が酔っていたため彼が運転し、私が後ろで彼にしがみ付いて走りました。そして、富士の直前でパトカーに捕まってしまったのです。(詳細は省きます)
 パトカーに乗せられた私達は、その後、どうしたのでしょうか?全く記憶にありません。でも、その結果、後日、沼津の家庭裁判所に送られました。そのことも、殆ど記憶にありません。ただ、父と一緒に、友人は母と一緒だったことだけしか記憶にありません。幸いなことに公にはなりませんでした。そして、アルコールが入っていたことも、その時のお巡りさんが私達に配慮してくれたのか?公になりませんでした。このことを境に彼とは一時疎遠になりました。同じクラスでも殆ど口も利かない状態が続きましたが、高校3年になり徐々に話すようになり、その夏、二人で免許を取る約束をしました。私は、4月生まれなので、先に教習所に通い始め、夏休みには免許を取得しました。その後、何時だったか、学校から免許を取得した人は免許証を学校で預かりますということがありましたが、私だけは早くに取得したためか名簿にはなく免許証を没収されませんでした。彼も勿論、免許を取り上げらました。このことが私が他の人とは違った人生を送るキッカケにもなったのです。・・・そして時を同じく、私が妻と知り合ったのが、この高校3年の5月17日のことでした。
 
 <10月13日>
 ふるさと納税(その他でも)で私の考えている事が実現できますか?

 私は、静岡県三島市に在住する58歳の男性です。出身は沼津市です。満50歳で約22年間勤めた会社を定年扱いで退職し、現在は、長男(今年28歳)と共に同じ職場で施設警備の仕事をしています。
 私の半生?を振り返ると、他の人とは全く異なる自分でも『何で?どうして?』と思えるほど、波乱万丈な人生でした。それは、同じ境遇の自分の兄弟と比べても・・・。その一部だけをこの場で紹介いたします。
 何処が他の人と違うのか?自らを冷静に分析して、私の生い立ちを親愛なるご先祖様から遡って幾つかを紹介いたします。

 私の曾祖父は、明治の時代に和歌山から東に向かって海を泳いで来たという逸話があります。その曾祖父は、鉄道関係で一代で財産を築いたと聞いていますが、反面、大酒飲みで死んだ時は、家族一同で赤飯を炊いて喜んだという奇妙な話も聞いています。そして、私は、その曾祖父の名前を一字貰って同じく大酒飲みです。
 また、その子供である私の祖父は、東京の神田で当時としては刷新的な英字を扱う印刷会社を経営していて、お手伝いさんを何人も雇うほどだったということです。・・・しかしながら、その祖父は若くして結核で他界し、私の父が7,8歳の頃、神田の全てを引き払い祖母の実家である沼津に引っ越してきたということです。
 (ここからは、自分の感情ぬきで聞いたままの話しですが)祖母もまた、もの凄い人で、前夫(私の祖父)との間に父を含め4人の子供がいたのですが、当時、元相撲取りで沼津界隈を仕切っていたヤットー?の棟梁と聞いておりますが、私なりに解釈すると、当時、沼津界隈を牛耳っていた日雇労働者(ヒヤトイニンプ)の元締めだった人のオメカケサン(※この辺の漢字は検索不可)となって、新たに3人の子供を産み育てた人です。
 この祖母は恐らく、私の人生観そのものを教えたくれた人だと愛おしく尊敬しています。また、その祖母には信者が1人、2人居たことも覚えています。・・・でも、父はこの件で、良くも悪くも多大な苦労を強いる人生だったと私は高校生の時に実感したことがあります。
 <9月28日>
 その父は、幼い頃、祖父から正座させられ、読み書きを習ったそうです。その性か父が書いた字は誰からも(驚いた様子で)綺麗な字を書くねと言われていました。祖父が他界し、沼津の尋常小学校に通い始めたときは、父だけが、黒い学生服にランドセル、革靴を身に着けていたそうで、友だちが靴を履きたがって困ったと言っていました。そして青年期には、また面白い話しがあります。ある日のこと、海岸線から山の方に向かう途中の通称、根方街道と呼んでいた辺りでチンピラに出会い、お金をタカラレタそうです。その時、父は財布ごと渡して「後でどうなっても知らないよ。」と言ったらしい。・・・すると翌日、そのチンピラは申し訳なさそうに財布を返しに来て、丁重に謝罪していったそうです。・・・そうなんです。ヤットーの棟梁と深く関係した家の人間だと分かったからです。
 また、その逆で、前の話から随分後の話しですが、威勢の良い父親違いの弟が、熱海で暴力団の手下と喧嘩になり、柔道をしていたものですから、その相手をボコボコに叩きのめしてしまったそうです。・・・そして、その後、父は一人で、その暴力団の事務所を訪れて組長に詫びを入れ、弟の尻拭いをしたということです。・・・堅気の人間がそこまでしたのだから、その組長も許してくれたのでしょう。
 <9月30日>
 そして、私が中学3年生の時に大きな事件がありました。2年前に新築した居間でテレビを観て家族団らんの時を過ごしていたら、突然、その私の叔父になる人が玄関から父を目掛けて飛び込んできたかと思うと、いきなりソファーに座っていた父の上に圧し掛かってきたのです。一瞬、父の驚愕した様子と両手で顔面を防御したことは覚えています。母は、その惨状に『オイ、何するの!・・・』と悲鳴に近いワメキ声を発して、その弟を父から振り払おうと必死で背中から引っ張っている様子を今でも鮮明に覚えています。
 私は、こんなショッキングなことは、それまで体験していませんでしたから、無性に悲しくなり、そこまで目撃して一目散に外に駆け出し、自転車を走らせて気が付いたら一年前に自分から別れた筈の彼女の家に向かっていました。その後、彼女をどう呼び出したのか?二人で海岸へ行き流木に腰掛け、2時間程過ごしたのでしょうか?彼女に状況を話し、彼女も同情してくれたので少し気持ちが落ち着き、家に帰ったと思います。幸い父は大きな損傷もなかったのですが、心には深い深い傷を負ったと思います。それ以降、その兄弟とは絶縁状態がずっと続きました。
 そんな父の弟ですが、私のことは我が子のように幼いころから可愛がってくれました。
 <10月1日>
 この叔父だけでなく、父の純粋な叔母たちや父違いの叔母たち、また、母方の伯母、叔父や年の離れたいとこも皆同じで、私のことは本当に可愛がってくれて、代わる代わるアッチコッチと連れて行って、また欲しい物も買ってくれました。でも、この叔父は特別で、幼い私を見つけては、ごくごく自然のように(当時は酒店の中で飲むことが当たり前だった)酒屋へ連れて行き、何時も私にはジュースと三角の透明袋に入ったピーナッツみたいなものを必ず頼んでくれて、私は叔父の横で大人の会話を聞いていました。時にはバーに連れて行って貰ったこともあります。バーのお姉さんたちは、とっても優しかった記憶があります。・・・ここでも、社交の場での女性との接し方みたいなことは、随分と後々の人生勉強になったと思います。
 ですから、話しを元に戻しますが、この叔父が父に対してしたことは、私にとって当時は、物凄く辛く悲しい出来事だったのです。・・・まだまだ、この叔父のことでも、他の叔父さんや叔母さん、いとこのことでも語りつくせぬ思い出がありますが、一応、私の育った環境を少しだけ理解して頂いて、次回は私の生き様を紹介したいと思います。
 
 <10月13日>
 ふるさと納税(その他でも)で私の考えている事が実現できますか?

 私は現在、前にも言っていますが、58歳です。ここで幼少の時からの生い立ちを書こうと思い悩みましたが、どうしても、まず先に話しておかなければならないことがあります。
 そのこととは、私は50歳で約22年間勤めた会社を定年扱いで退職しています。そして、その会社に対して労働裁判を起こしたのです。・・・この話しは、親兄弟の意見も聞かず、家族の将来をも顧みず、自分自身がどうにもできなくなり進めたことですが、自分自身、忘れよう忘れようと言い聞かせてきたことです。ですから、このことを話すのには少々、時間がかかりました。・・・でも、自分と家族の、これからの将来をもっと有意義なものにするためには、ここで避けて通れないものと考えお話しします。
 今、思うと結果として社会の不正に対抗しただけの本当に辛く空しくなるようなことで、必死に忘れようとして、家族、親族には、(そのことには触れず)明るく逞しく生きている素振りをずっと見せるように努力してきましたが、年収も最盛期は800万円超あったのが、分社化の1年前には年俸720万円になり、分社化・売却後、約1年で540万円。(それで良かったかも知れないが・・・)そして退職!退職金が諸々合わせて1500万円。その後は、約1年間の失業保険。そして、それが切れて約1年間を退職金で生活。(この2年で退職金と貯金の全てを使い果たした)以降、数種類の仕事を経て、年収480万円。~年収360万円。~320万円。~今度の仕事は推定280万円と下がる一方なので・・・、もう限界がきているのかも知れません。
 これから、その労働裁判のことを記憶の中で、少しだけお話しします。・・・それは小泉内閣時代の規制緩和政策でのこと。会社分割・売却が従業員の個別同意を求めずに、組合の同意の下に一括して速やかに合意に結びつける法律が制定されました。(労働契約承継法:会社分割に伴う労働契約の承継等に関する法律)これにより、会社は分社化・売却した後に従来の賃金その他の労働条件は変わらず(承継する)としているにも関わらず、1年にも達しない内に賃金引き下げの提案をしてきました。・・・この時の会社代表の説明で、会社譲渡契約書の中でも売却後、速やかに賃金の引き下げを検討する内容が盛り込まれていたという内容の話しを突然、聞かされ一同が騒然となりました。代表の横に座っていた数人の会社幹部も、代表が言ってはいけない言葉を発したので、皆、青ざめた表情で一時、説明が中断されて、代表!それを言っては困りますみたいな、お身内騒動が挟まれた説明会だったことを記憶しています。
 私が何故、その裁判に係わったかと言いますと、・・・

 <10月17日>
 遡ること1985年、私は28歳で御殿場の或る工場に中途採用されました。(実名を挙げて、書いたりしましたが、今は・・・まだ、その時ではないと想い直し伏せておきます)その会社は、本当に風通しの良い会社で、会社のトップからの情報(経営会議等)が全て班長会議の報告で社員全員に知らされていて、ああ~、ものスゴク良い会社に入れたなあ~と、ずっと感していました。・・・それまでは・・・。
 私は、入社後5年で現場のある部門の班長になり、その後、数年でラインリーダーになり、1年を経ず、別格のラインリーダー・・・、そして、40歳の時に別センターの主任になりました。班長時代に一度、3交代の代表として組合執行部に3年間在籍し、その後、主任になってから3年間、支部長としては2年2期勤めています。・・・そもそも、そこで支部長を引き受けたのが発端です。当時のことを振り返ると、何も経験のなかった工場製品の中枢部署とも言える別センターの主任になって、この部署の仕事をしっかり覚えなきゃと思っていた矢先、毎日のように入れ替わり立ち替わり、元組合執行部OBの幹部が私の所に押し寄せ、次の支部長を受けてくれと・・・半ば強制のようにも思えました。
 私は、班長時代に執行部経験があったことは話しましたが、その時、まだ長男が幼く、あまり相手をしてあげられなかったことと、その5歳上の長女が小学校5年生まで一緒にお風呂に入っていたのに、それが、その為に途絶えてしまったことが強烈な後悔としてあったものですから、・・・勿論、その間、妻には大変な想いをさせていたことは言うまでもありません。また、次男が2、3歳の頃だったので長男と、ダブル想いもあったかと思います。・・・私は、そこで、もう会社を辞めるか?執行部を引き受けるか?の過酷な選択を強いられました。・・・ひたすら断り続けていましたが、どこかで前向きになって考えてみたんでしょうね。・・・この立場や重責といったことは、『私が断れば、誰かが代りにやらなければならない』という考えに至ってしまったことから、結局、引き受けてしまう破目に陥った訳です。・・・でも、この事は、私にとっては後に強烈なストレスになったことは間違いありません。(この話しは何時か?に)
 それで、その後、私が支部長をしていた時にスカウトし、執行部に入れた技術部の人間がいます。そいつとは、かなり打ち解けた友人だと思っていました。・・・時が過ぎ、私は執行部を全うし、会社の主任の立場で、また組合執行部OBとして組合を陰で支えている立場でもありました。・・・そして、その後、その彼が組合中央書記長という立場になり、会社分社化の際の会社との交渉に当たった当事者です。・・・彼は、分社化売却された直後に会社を退職し、また、その直後に元会社に(再?)就職したのです。そして、その数カ月後だったか?人事部の課長に就任しています。・・・これを皆様どう思うでしょうか?(でも、私は今も彼は友人だと思っていますが・・・)
 
 <10月21日>
 私自身、本当に自分の心奥底に封じ込めてきたことですから、これから先のことは、どう話したら良いか?全く判りませんが・・・・、兎に角、話しを進めなければ、・・・終わらないので・・・。
 。。。というようなことで、私は分社化・売却の諸問題に関して、組合が組合執行部経験者10数名?を選択し、新たに作った専門委員会『分社化・売却対応委員会』(名称も定かではありませんが・・・)の委員長になりました。・・・その経緯も、詳細には述べられませんが、私自身が当時の支部長に専門委員会を作るべきだと助言してのことでした。そして、このことが、その先、私自身の一生を棒に振るような出来事になるとは思ってもいませんでしした。
 その専門委員会も8回ほどでしたか?私自身がメンバーをメールで招集して開催しました。・・・その時、私は当時の組合執行部を補佐する立場で動いていましたから、会議では過激な発言をする人が大半で、その取りまとめには非常に苦慮しました。帰宅してからも会議の議事録を徹夜状態で作成して、翌日にはメールでメンバー全員に配信していました。また、その間は、勤務中にも過激な発言をする委員会メンバーの数人を個別に訪れては、今はこういう状況なので・・・といったような説明や説得といった根回しもして、この件が円満に解決するようにと一人で翻弄していました。・・・そうして、ようやく組合執行部に対する意見を取りまとめた要望書を提出したのですが、数日後に組合執行部から届いた回答書では、要望した事項は『労働条件は承継される』ということで、ほぼ全てが片付けられた内容でした。・・・私は何故か虚しかった記憶がありますが、その時、過激な発言をしてきた委員会のメンバーは、比較的、冷静でした。
 そのような状況を経て、会社の分割・売却交渉は進展し、成立したのです。当時を振り返ると、その時の私は、会社の為にも、組合執行部の後輩達にも自分自身が役に立ったと秘かに喜びを味わっていたと思います。・・・それが、こんなことになるなんて当時は思ってもいませんでした。
 先に話した会社分割・売却後に一年も経ず、会社代表の説明で、会社譲渡契約書の中でも売却後、速やかに賃金の引き下げを検討する内容が盛り込まれていたという話しの裏付けとなる、会社と組合の交渉時の議事録が発覚したのです。それには、会社売却時における譲渡契約書に『譲渡後、速やかに賃金の引き下げを検討する』ということについて、会社から組合に問いかけがあり、組合側は、組合員も理解しているというような文言が盛り込まれていました。(組合員は全く知らないこと)・・・つまり会社と組合は、そのことを承知の上で事を進めていたのです。ですから、今、初めて裁判でも言わなかった当時の私の想いは、私自身が会社と組合の後輩執行部に踊らされ、その悪の片棒を担がされたということです。それまで、私が信頼していた会社の代表や幹部、組合執行部の後輩達の全ての人に私は裏切られたのです。・・・自分が良いと思い頑張ってやってきたことの全てが裏切られたのです。

 <10月25日>
 そして、私は分社化・売却対応委員会のメンバーの一人と最終的には一緒に行動し、裁判にまで至ることになりました。彼は、当時の委員会の席でも会社の将来を見据えて、その時点で先に不利益分を要求するべきだと強硬に主張していました。その時点では、私が半ば、その彼をナダメタという経緯がありますが、会社と組合執行部に裏切られた私は、その彼にも申し訳なかったという想いがあり、意見が同調して二人で最終的には労働裁判にまで至ったという訳です。そして、会社を退職した二人で東京の弁護士事務所に相談したりしましたが、弁護士も勝てる見込みがなければ話しに応じてくれません。・・・その後、全国200万人組織の建交労という組合未加入の労働者団体組織に加入して、その委員長であった和渕さんの指導に従い、会社との団体交渉を始め、静岡県の労働基準監督署・労働局という機関にたらい回しに会いながら、労働調停を経て裁判に至りました。
 会社は「我々は、日本一の青山の弁護士集団が対応するので、あなた方には勝ち目がなく、打って立ちますよ。」みたいなことを当初から、ずっと言っていましたが、私達が頼って対抗してくれた、労働裁判を専門に扱っていた静岡合同法律事務所の阿部浩基弁護士が見事に裁判に勝利してくれました。その間、一緒に裁判までした彼は裁判の途中で仲違いし、私は一審勝訴で終わり、彼は上告し、そこでも勝訴しています。・・・と単純に言ってしまえば、それまでですが、私は、その間にも誰一人恨んでいません。その彼は勿論ですが、裁判中にも相手会社の先に述べた代表がガンで亡くなりましたが、皆、私にとって大切な人でした。・・・この事を理解してもらうには、もっと長く話す必要がありますので割愛いたします。・・・兎に角、私は誰も恨んでいないということだけ知っておいてください。・・・まあ、今となっては、そういうこともあったというくらいのことです。
 (やっと裁判の話しを完結させました。詳細はかなり不十分ですが、今の私でも精一杯の内容を話したつもりです。・・・次回は、ようやく幼少からの話しをします)

 <11月 6日>
 ※日本の文化『躾』をグローバル スタンダードに!③(私の幼少期からの話し)は大変申し訳ございませんが、暫くの間、掲載を中断させていただきます。・・・私の少ない空き時間で、10月中に本件を全て掲載したかったのですが、諸事情により残念ながらできませんでした。・・・現在、『日本躾の会』http://www.c2k.or.jp/introduction/に投稿用の原稿『警備員から見て困った人たち』と題し、これを最優先で執筆しています。こちらも完成次第ブログにアップするつもりですので、その際は、是非とも、ご覧くださいますようお願いいたします。
 ふるさと納税(その他でも)で私の考えている事が実現できますか?

 私は、静岡県三島市に在住する58歳の男性です。出身は沼津市です。満50歳で約22年間勤めた会社を定年扱いで退職し、現在は、長男(今年28歳)と共に同じ職場で施設警備の仕事をしています。
 私の半生?を振り返ると、他の人とは全く異なる自分でも『何で?どうして?』と思えるほど、波乱万丈な人生でした。それは、同じ境遇の自分の兄弟と比べても・・・。その一部だけをこの場で紹介いたします。
 何処が他の人と違うのか?自らを冷静に分析して、私の生い立ちを親愛なるご先祖様から遡って幾つかを紹介いたします。

 私の曾祖父は、明治の時代に和歌山から東に向かって海を泳いで来たという逸話があります。その曾祖父は、鉄道関係で一代で財産を築いたと聞いていますが、反面、大酒飲みで死んだ時は、家族一同で赤飯を炊いて喜んだという奇妙な話も聞いています。そして、私は、その曾祖父の名前を一字貰って同じく大酒飲みです。
 また、その子供である私の祖父は、東京の神田で当時としては刷新的な英字を扱う印刷会社を経営していて、お手伝いさんを何人も雇うほどだったということです。・・・しかしながら、その祖父は若くして結核で他界し、私の父が7,8歳の頃、神田の全てを引き払い祖母の実家である沼津に引っ越してきたということです。
 (ここからは、自分の感情ぬきで聞いたままの話しですが)祖母もまた、もの凄い人で、前夫(私の祖父)との間に父を含め4人の子供がいたのですが、当時、元相撲取りで沼津界隈を仕切っていたヤットー?の棟梁と聞いておりますが、私なりに解釈すると、当時、沼津界隈を牛耳っていた日雇労働者(ヒヤトイニンプ)の元締めだった人のオメカケサン(※この辺の漢字は検索不可)となって、新たに3人の子供を産み育てた人です。
 この祖母は恐らく、私の人生観そのものを教えたくれた人だと愛おしく尊敬しています。また、その祖母には信者が1人、2人居たことも覚えています。・・・でも、父はこの件で、良くも悪くも多大な苦労を強いる人生だったと私は高校生の時に実感したことがあります。
 <9月28日>
 その父は、幼い頃、祖父から正座させられ、読み書きを習ったそうです。その性か父が書いた字は誰からも(驚いた様子で)綺麗な字を書くねと言われていました。祖父が他界し、沼津の尋常小学校に通い始めたときは、父だけが、黒い学生服にランドセル、革靴を身に着けていたそうで、友だちが靴を履きたがって困ったと言っていました。そして青年期には、また面白い話しがあります。ある日のこと、海岸線から山の方に向かう途中の通称、根方街道と呼んでいた辺りでチンピラに出会い、お金をタカラレタそうです。その時、父は財布ごと渡して「後でどうなっても知らないよ。」と言ったらしい。・・・すると翌日、そのチンピラは申し訳なさそうに財布を返しに来て、丁重に謝罪していったそうです。・・・そうなんです。ヤットーの棟梁と深く関係した家の人間だと分かったからです。
 また、その逆で、前の話から随分後の話しですが、威勢の良い父親違いの弟が、熱海で暴力団の手下と喧嘩になり、柔道をしていたものですから、その相手をボコボコに叩きのめしてしまったそうです。・・・そして、その後、父は一人で、その暴力団の事務所を訪れて組長に詫びを入れ、弟の尻拭いをしたということです。・・・堅気の人間がそこまでしたのだから、その組長も許してくれたのでしょう。
 <9月30日>
 そして、私が中学3年生の時に大きな事件がありました。2年前に新築した居間でテレビを観て家族団らんの時を過ごしていたら、突然、その私の叔父になる人が玄関から父を目掛けて飛び込んできたかと思うと、いきなりソファーに座っていた父の上に圧し掛かってきたのです。一瞬、父の驚愕した様子と両手で顔面を防御したことは覚えています。母は、その惨状に『オイ、何するの!・・・』と悲鳴に近いワメキ声を発して、その弟を父から振り払おうと必死で背中から引っ張っている様子を今でも鮮明に覚えています。
 私は、こんなショッキングなことは、それまで体験していませんでしたから、無性に悲しくなり、そこまで目撃して一目散に外に駆け出し、自転車を走らせて気が付いたら一年前に自分から別れた筈の彼女の家に向かっていました。その後、彼女をどう呼び出したのか?二人で海岸へ行き流木に腰掛け、2時間程過ごしたのでしょうか?彼女に状況を話し、彼女も同情してくれたので少し気持ちが落ち着き、家に帰ったと思います。幸い父は大きな損傷もなかったのですが、心には深い深い傷を負ったと思います。それ以降、その兄弟とは絶縁状態がずっと続きました。
 そんな父の弟ですが、私のことは我が子のように幼いころから可愛がってくれました。
 <10月1日>
 この叔父だけでなく、父の純粋な叔母たちや父違いの叔母たち、また、母方の伯母、叔父や年の離れたいとこも皆同じで、私のことは本当に可愛がってくれて、代わる代わるアッチコッチと連れて行って、また欲しい物も買ってくれました。でも、この叔父は特別で、幼い私を見つけては、ごくごく自然のように(当時は酒店の中で飲むことが当たり前だった)酒屋へ連れて行き、何時も私にはジュースと三角の透明袋に入ったピーナッツみたいなものを必ず頼んでくれて、私は叔父の横で大人の会話を聞いていました。時にはバーに連れて行って貰ったこともあります。バーのお姉さんたちは、とっても優しかった記憶があります。・・・ここでも、社交の場での女性との接し方みたいなことは、随分と後々の人生勉強になったと思います。
 ですから、話しを元に戻しますが、この叔父が父に対してしたことは、私にとって当時は、物凄く辛く悲しい出来事だったのです。・・・まだまだ、この叔父のことでも、他の叔父さんや叔母さん、いとこのことでも語りつくせぬ思い出がありますが、一応、私の育った環境を少しだけ理解して頂いて、次回は私の生き様を紹介したいと思います。
 (今日は夜勤開けの休みで、眠い中、他にもしなければならない用事がありますので、ここで中断します) 

今までで、一番「いいね!」がついた記事は? ブログネタ:今までで、一番「いいね!」がついた記事は? 参加中
本文はここから



私の一番の「いいね!」は、20014/04/07投稿の【SFファンタジー小説『ナノ・ボーイ』あとがき】です。決して多くの「いいね!」ではありませんが、50歳を超えている私にも初めての経験であり驚愕的な感動を味わったことを今でも鮮明に覚えています。・・・尚、私のブログ(ツイッターも含め)は現在、メルアドを消失した状態で一人歩きしています。・・・家庭の事情で私が理解していない間にプロバイダー契約を急きょ変更したことが原因です。・・・新アドレスに変更しようとしても、前アドレスのパスワードを取得できず、アドレスは現在も変更できません・・・。このような時は、昔懐かしいアナログ時代の方が便利でしたね。
私のこのブログを始めて見た方は《SFファンタジー小説『ナノ・ボーイ』を公開します。》まで遡って降順に読んでいただけたら幸いです。・・・タイトルに番号を付加してしておけば良かったのですが・・・。


    あとがき

 先ず、この物語を出版するにあたり、本文中に、様々な企業名や固有名詞が挿入されていますが、それは全て、家族で実際に行った想いでの場所であったり、子供たちが好んでいたものであります。本文中に使わせて頂きましてお礼申し上げます。決して悪い意味での表現は、していないつもりですので、何卒ご理解くださいますようお願いいたします。
 特に、パックマンの製作者、岩崎徹氏を始め販売元の株式会社バンダイナムコゲームス様には、私が可愛いキャラクターをイメージして、ロボットの名称に引用させていただきましたことを、この場をお借りして、お詫びとお礼を申し上げます。
 そして、私が常々感銘を受けていました、水素・酸素混合ガス発生装置を開発した日本テクノ㈱、大政龍晋氏と、チューブ・トレインを考案された近藤弘明氏には、開発内容と、お名前を使わせて頂きましたことを、この場をお借りして、お詫びとお礼を申し上げます。
 それから、三宅久之先生、長嶋茂雄さん、八代亜紀さん、天地真理さんには、ご迷惑も考えず、お名前を使わせて頂きまして、お詫びとお礼を申し上げます。

 この物語は、私の想いを私の家族に投げ掛けたものです。まだまだ伝え切れないことは、山ほどありますが、物語の構成を考慮すると、ここまでに留めて置きました。
 未来のことなんか誰にも分かる訳がないと思いつつ、書き始めると、私の頭の中には、常に家族がそばにいて、自分でも驚くほど、とても楽しく書くことができました。
 世知辛い世の中ですが、これを読んだ皆様が少しでも明るく生きて下されば幸いです。

【最後の最後に】
子供たちへ・・・お母さんも含め、みんなのセリフは、みんな一人ひとりが言いそうな、言葉を考えたものです。特にカヅキのセリフに関しては、お父さん自身が子供だった頃の、お父さん(お爺ちゃん)の言動に感銘したことを付随しています。また、お父さんの発したセリフは、勿論、お父さん自身と、両方のお爺ちゃんが言いそうな言葉を色々と考えて決めたものです。

妻へ・・・高校三年の五月十七日に知り合ってから、もう~三十五年が経ちます。その間、何もしてあげられず、何時も振り回して来て、本当に申し訳なく想っています。
月の差で二十一歳と二十歳で結婚して、それから何度も転職を重ね、苦労をかけた私を常に支えてくれたことに感謝します。そして、掛け替えのない子供たちを産んでくれて、育ててくれたことに感謝します。

 最後に、私と関わりのあった全ての人に感謝申し上げます。
    新たな展開(そのⅢ)・・・更に新たな家族との出会い

 それから、『PMG1』も一緒に僕たち全員が、またリビングに戻って、また話しの続きをしていた。お父さんが「山本さん。皆さん。本当にありがとうございます・・・。」と、お礼を言って『PMG1』に向かって「良かったなあ、お払い箱にならずに済んで・・・。」と言った。『PMG1』は「オハライバコッテ、ナンダ?」と聞いていた。そこに居るみんなは、ただ笑っていた。・・・僕は凄く嬉しかったけど『PMG2』が気掛かりだった。
 すると、お母さんが「『PMG2』は、どうなるんですか?」と心配そうに聞いてくれた。塩川さんが「それは、心配要りませんよ。『PMG2』は、元々お手伝いロボットですから今まで通りですよ。」と答えた。
 そして、お父さんが「何処も出る杭は打たれるで、細く長く。が、良いんですかね。」と言った。博士が「お父さん。そういうことだから、社会がダメになるんですよね。」と同調したように言っていた。(作者から・・・ロボットどうしの役割の違いを言っているだけで、決して仕事を差別するものではありません)
 お父さんは「昔から日本の社会は、その傾向がありましたよね。・・・自分が機械の一部のように、毎日、八時間を会社で過ごせれば良いと思っている人と沢山出会いましたよ。
 酷いのは、組合が折角、条件を良くしようと頑張っても、休んでも何もすることがないからなんて言って、全く休暇を取らないヤツも居ましたからね。結局、有給休暇の取得率が悪い結果を招いて、それ以上は会社に要求する根拠が無くなってしまう訳ですよ。・・・まあ、結構、昔の話ですけどね・・・。」と不満をブチマケルように話していた。・・・結構、昔じゃなくって、大昔の話しをしていたんだけどね。僕には、お父さんの話が理解できなかったんだ。それで、お母さんに後で聞いたら『PMG1』を褒めている話しだったと知って凄く嬉しかった。

 そして、その長い会話を黙って聞いていた、山本先生が話しの頃合いを見計らって話し出した。「あの~、私にも・・・まだ、お話があるんですけど、・・・実は、この話は少し難しい話しで、私も、どういう風に話したら良いか迷っているんですけど・・・。」と少しどころか、凄く迷っている口調で言って、酷く困っている様子を見せていた。
 お父さんが「そんなに硬くならないで、何でも言ってください。私たちは、少々のことで驚きませんから・・・。」と言い、博士も「そうですよ。何でも言ってください。」と言った。
 それで少し気が楽になった山本先生は「実は、大統領が皆さんの功績を称えて、皆さんに色々としてくれたんですよね。・・・それで、この『ナノ・カプセル計画』の全貌を知った大統領は、皆さんの前の二家族についても、それなりのことをしてあげなくてはいけないと考えたそうで、側近の人に、その二家族を探すように指示を出していたんです。
 それで先日、その二家族が見つかりまして、・・・その~・・・身分を保障することは、既にできてはいるんですけど、・・・あの~・・・住む家がないんですよ。・・・ここは、テロリスト掃討作戦の直後に大統領命令で、軍の所有している土地を皆さんに払い下げて、直ぐに、皆さんの名義の家を建てたんですけどね。・・・いずれ決まると思うんですけどね。それまでは皆さんと同居して欲しいそうなんです。」と如何にも言い難そうに話した。
 お父さんと博士は息を合わせて「それは良かった。」と言って喜んでいた。・・・僕たちは凄く驚いて、ただ、うなずくように黙って聞いていたけど、見つかって本当に良かったと思っていた。
 そして、お父さんが「住むところがないなら、ここは広い土地があるんだから、この土地に家を建てて貰えば良いんじゃないですかね。・・・ねえ、博士。」と言った。博士も「うん。そうだよ。それで良いんじゃないですかね。」と言っていた。
 山本先生は、それが聞きたかったみたいで、急に笑顔になり「ありがとうございます。それでは、大統領の側近に早速、伝えてみます。」と嬉しそうな表情で言った。
 それで、ある意味で任務を終えた四人は帰って行った。

 その後、僕たち家族と博士は暫く話しをしていた。博士が「カヅキ君、良かったね。」と言った。僕は「はい。良かったです。・・・でも僕たちと同居するって、色々面倒じゃないですか?」と言ったんだ。すると、お母さんが「そうだね。お互いに何て呼び合えば良いんだろうね。」と言った。・・・それを聞いた、お父さんと博士は考え込んでしまった。
 暫くして、お母さんは「自分たちだけで考えても仕方ないでしょ。他の家族が、どう考えているかも分からないのに。」と言った。・・・それで、お父さんと博士は考えるのを止めて、また酒盛りを始めたんだ・・・。

 それからは『PMG1』が、お姉ちゃんのボディーガードになって、仕事の行き帰りは勿論のこと。仕事中でも、お姉ちゃんに危害を加えそうな人を察知して守っていたんだ。凄いのは報道陣の不法に撮影した映像のみならず、音声も瞬時に消してしまう装備を備えていたことだ。・・・これは塩川さんと加藤さんが、『PMG1』を僕たち家族に引き渡す話が出た時から、二人が徹夜状態で協力して、その装備を持たせてくれたんだ。・・・これで、ようやく僕たち家族に平和な時が訪れたんだ。
 ・・・やがて、お姉ちゃんが『PMG1』を連れて一緒に歩く姿や、回転寿司の店先でクルクル回っている『PMG1』の可愛らしい姿が、島の人たちや観光客からも話題になり、沖ノ鳥島の一大名物になって行ったんだ。・・・今では、お姉ちゃんは島のアイドルになって、『PMG1』は島のマスコットになっているんだ。

 それから数日が経った、その日、あの二家族が僕たちの家に来ることになったんだ。・・・その前に山本先生は、僕たちに連絡をしてくれて、その日は、山本先生が家まで二家族を連れて来ることになっていた。
 僕たちは朝早くから起きて、家族で何をするでもなくソワソワして、二家族が来るのを待っていた。『PMG1』が「ミンナ、ドウシタンダ。ナニカ、アッタノカ?」と言っていた。僕は「新しい家族が、これから来るんだよ。」と教えてあげた。『PMG1』は「アタラシイ、カゾクッテ、ナンダ?」と、また聞いた。僕は面倒になり「来れば分かるよ。」と言ったんだ。
 その日は、お父さんから言われて、お姉ちゃんも休暇を取っていた。お父さんが、お姉ちゃんに「休ましちゃって悪いな。でも大事な顔合わせだからな。」と言って、お姉ちゃんは「大丈夫、解っているから・・・。」と答えていた。すると、お兄ちゃんが「お腹が空いた。」と言ったんだ。・・・それで僕たちは、まだ朝ご飯を食べていないことに気が付いた。
 お母さんは慌ててキッチンに行くと、手早くハムエッグを作りパンと合わせて、みんなに食べさせた。・・・お兄ちゃんは幸せそうな顔で「お母さん。美味しいよ。」と言っていた。
 それからも僕たちは、リビングに移って、また待ち続けていた。山本先生から言われていた時間を既に一時間以上も過ぎていた。・・・シビレを切らせたお父さんが、山本先生に電話を掛けたんだ。すると山本先生は、まだ島の離発着所で、その二家族が着くのを待っていたんだ。僕たち家族は、急きょ、『PMG1』を家に残して、博士を誘って離発着所へ向かったんだ。・・・僕たち家族も博士も何かあったのではないかと心配していた。
 僕たちは観光用の車両に乗ってホテル街で降りると、直ぐに離発着所へ向かった。そこには山本先生が、ひとりで立ち尽くしていた。僕たちは山本先生に駆け寄り、博士が山本先生に「どうしたんですか?何かあったんですか?」と慌てて聞いた。山本先生は「私にも、分からないんです。」と答えた。・・・実は二家族を東京エアーターミナルに迎えに行ったのは柴田さんだった。山本先生は、柴田さんに何度も連絡しているんだけど、繋がらないという事だった。
 それから暫く僕たちは、その場で待っていた。・・・すると澄み渡った北の空から観光用の共用機が次第に見えて来たんだ。・・・僕は、何かワクワクした気持ちになっていた。
 その後、共用機は着陸して、そこから降りて来る人を僕たちは見守っていた。だけど、目的の人たちは中々降りて来なかった。もう随分と観光客が下りて来て一瞬人の列が途切れた。・・・僕たちは、これにも乗っていなかったのかと落胆し掛けていたら、その直後に柴田さんの姿が見えた。そして、それに続いて、その人たちは降りて来たんだ。
 柴田さんと他のみんなは、僕たちを見つけると、笑顔を見せて大きく手を振っていた。僕たちも、それに合わせて大きく手を振った。それから、みんな誰ともなく駆け寄って、手を取り合ったり抱き合ったりして喜び合った。・・・僕は、初めて会った人たちだけど、何も違和感がなくってホントの家族のように打ち解けられた。そして、みんな元気そうで本当に良かったと思った。・・・不思議なことに、僕は自分の家族が一瞬、判らなくなってしまったんだ。
 僕は、パニックになり掛けたけど、家族が着ていた服を思い出して、ようやく自分の家族を見分けたんだ。・・・でも服のセンスも、やっぱりみんな似ていたんだよね。
 そして遅れたことには、やはり理由があったんだ。・・・実は、東京エアーターミナルで、僕たち家族と勘違いされて、二家族ともメチャクチャにされたそうだ。それで、予定していた共用機には乗れなかったそうなんだ。だけど、山本先生が柴田さんに連絡が取れなかったのは、単純に柴田さんが携帯電話を忘れただけだったんだ。

 それから、そこで山本先生と柴田さんとは別れて、僕たち三家族と博士の三人で、総勢十八人は、北側の遊歩道を歩いて家まで帰って来たんだ。・・・歩いている途中でも、何も気兼ねすることなく、みんな自然に会話ができたんだ。
 そして、家に着くと、博士たちとは別れて僕たち三家族は、その家の中に入って行った。『PMG1』が玄関に来て「アレッ!ドウシタンダ。」と言った。すると、僕の年上の二人が『PMG1』に抱き付いて「『PMG1』!会いたかったよ!」と同時に叫んでいた。
 その後、舞踏会の大きな部屋で三人のお父さんが同時に喋ろうとした。三人は、お互いに顔を見合わせた後に、結局、一番年下の僕のお父さんが喋り出した。「皆さん。ようこそいらっしゃいました。これから家族の一員として、よろしくお願いします。」と言った。
 それから続けて「二、三カ月すれば、新しい家も出来るでしょうけど、それまで、この家で十五人が住むことになります。幸い部屋も九つありますから、ひと家族三つの部屋を割り当てて住もうと考えています。・・・それから、私たちは名前も一緒で、年の違いこそあれ、容姿もほとんど見分けがつきません。これから、その相談をしなければならないと思いますが、それまでは個人で家族を見極めて、なるべく自分の家族で纏まるようにしてください。」と言った。・・・そこに居るみんなは、誰一人お父さんの意見に異論を唱える人もいなく、ただ黙って微笑んで聞いていた。僕は、お父さんは色々考えていたんだと思った。

 その後に、お父さんどうしの三者会談がリビングで始まった。その間、僕たちは他の家族のみんなと自然に寄り添い楽しく話しをしていた。・・・僕に優しかったのは、やっぱり、お姉ちゃんだった。僕には、この日から三人の優しいお姉ちゃんができたんだ。その他のみんなも、一番年下の僕のことは、特に優しく接してくれたんだ。
 そして、その三者会談は、アッケなく終わってしまった。・・・結局、考えていることは、みんな同じだから、ただ考えたことを確認しているようなものだったんだ。
 その内容は、家族を年上の順からA・B・Cに分けて、名前にはセカンドネームとして、そのアルファベットを付けて呼ぶこと。だから僕は、『C家族のCカヅキ』になる訳だ。
 そして、二階の部屋は東側の部屋をA家族が、反対の西側の部屋をB家族が、玄関から一番奥の北側の海沿いの部屋を僕たちC家族が使うことになった。・・・最初は中々慣れずに呼び方に困ってしまったんだ。特に困ったのは本人どうしだった・・・。
 その後は博士の三人も交えて、芝生の庭でバーベキューをすることになったんだ。・・・どのお父さんも、どの博士も、やっぱり、お酒が大好きだった。それから、どのお兄ちゃんも食べることが大好きだった。他のみんなも性格や、行動が全て同じだった。
 そして、そこに居た全ての人たちが、離れていた家族と何年ぶりかで再会したかのように楽しんでいた。・・・結局、二家族と博士の二人は、みんな三つ違いだった。夫々が少しずつ老けたなという感じだった。違いがはっきりしていたのは、お父さんの髪の毛が更に、ハゲテゆく過程を見ているようだった。そして僕は、顔が引き締まり家族の中で一番背が大きくなっていて、驚くと共に何か不思議な感じがしていた。

 それでね。どちらの家族も、どちらの博士も、研究施設を出た時は、身分が保障されないから住むところも仕事も中々見つからなくって、お金も研究施設で働いて貯めた貯金を切り崩して生活していたんだって。・・・A家族は、その貯金も使い果たしてニューヨークのクローン人間の居住区に細々と暮らしていたそうだ。B家族もほとんど残っていない貯金で東京のトアル町から、同じようにニューヨークのクローン人間の居住区に移り住むことを考えていたらしい。だから、お互いを全く知らなかったそうだ。
 それから博士の二人は、暫く夫々の家族に付いて、家や仕事を探す世話をしていたけど、結局は自分自身も生活に困り、仕方なく夫々の家族と別れて、一人で仕事を見つけては旅をしていたらしい。二人とも最後は御殿場で別々に畑仕事の手伝いをしていたそうだ。

 それで、みんなはテロリスト掃討作戦の時のニュースを見て驚いていたんだって。それ以降のニュースでも、僕たちがヒーローとして持てはやされて、自分たちとは随分違うなと内心は思ったらしい。でも僕が入院したことは他人事ではなく本当に心配したそうだ。

 その後みんなは、この二週間くらいの間に政府から連絡が来て、直ぐに身分が保障されることになって、お金も50万ドルずつ支給されて、この島に来ることになったんだ。
 だから僕と博士は、みんなから凄く感謝されたんだ。・・・僕は、あの特命の任務がなかった時のことを考えたら、僕たち家族も博士も、他の家族や他の博士と同じ運命をたどっていたのかと思うと、他人事ではないなと恐ろしく感じたことを覚えている・・・。

 僕たちの新しい家族との生活は、こんな感じで始まったんだ。

 そして、その後の僕は、世界中のテレビ局から出演のオファーが殺到して、お父さんが博士の、お母さんは僕のマネージャーになって、四人で世界中を飛び回っているんだ。勿論、お姉ちゃんや、お兄ちゃんも行きたい時にだけ、一緒に旅をしているんだけどね。
 それから、ハリウッドでも既に『ナノ・ボーイ』の映画化が決まっているし、更には、あの僕の大好きなUSJの新アトラクションにも採用されることが決定したんだ・・・。

 もし、みんなも何処かで不自然に飛び交う小さな丸い物体を見掛けたら、それはタイムマシン機能を搭載した『ナノ・カプセルX号』かも知れない。そして、その中には、あの『ナノ・ボーイ』が乗っているんだ。

                             ・・・おしまい。
    新たな展開(そのⅡ)・・・新たな家族との出会い

 その翌日、朝から家のチャイムの音で起こされた。僕はベッドの中でモニターを見ていた。すると、そこには病院から退院する時と同じように沢山の報道陣が殺到していたんだ。最初、お母さんバーチャルが応対していたけど、直ぐに、お父さんバーチャルが現れて、それに加わった。・・・二人のバーチャルは、やはりオドオドしている様子だった。
 そして仕方なく、僕のバーチャルも参加させたんだ。・・・報道陣は、自分勝手に色々な質問を浴びせていた。だけど僕のバーチャルも、やっぱりオドオドしているだけだった。
 その後、興味半分のお姉ちゃんバーチャルとお兄ちゃんバーチャルが加わり、報道陣は一斉にカメラのシャッターを切っていた。お姉ちゃんバーチャルは最高の笑顔でカメラにピースサインを出したりしていた。だけど、お兄ちゃんバーチャルは「お腹が空いた。」と言っていた。・・・結局、報道陣はバーチャルの家族を相手に一時間くらい、その玄関先で粘って、そして諦めて帰って行った。

 その日、お姉ちゃんは仕事を急きょ休むことにしたんだ。そして家族は、外へは一歩も出ずに家の中でバーチャルテレビを観ていた。すると、お昼のニュースで、その朝の様子が映し出されたんだ。驚いたのは、その後に、窓越しから撮ったと思われる僕たちが朝食を食べている様子も映っていたんだ。・・・きっと宙を飛ぶカメラ型のロボット記者の仕業だなと僕は思った。・・・そして家族は、これからどうしようと心配していた。
 お父さんが「考えても仕方ないから、カラオケでもするか?」と言った。僕たち兄弟は、二つ返事で「うん。」と言い、お母さんは黙っていたけど凄く嬉しそうな顔をしていた。
 それから博士も呼んで、みんなで地下室のカラオケルームで歌を唄って楽しんだ。・・・僕は声変わりが遅かったから、まだ自分の声がよく分からなくって上手く唄えなかった。お父さんは相変わらず演歌一本やりで、だけど、あの八代亜紀の歌も唄っていた。お母さんは凄く綺麗な声なんだけど、少し音を外すイワユル少しオンチなんだ。でもカラオケが大好きだから、唄う度に上手になっているんだ。特に、天地真理の物真似は凄く上手で、音も外さないし、身振り手振りも交えて最高に盛り上がったんだ。お姉ちゃんはバンドでボーカルをしているから凄く上手だし、お兄ちゃんも裏声をチャント使えて上手なんだ。だけど博士は、酔っぱらって何を唄っているんだか、さっぱり分らなかった。
 このカラオケ機器は、曲が入っていないと自動的にランダムで今までの曲が演奏されるんだ。それで、お母さんは、それを阻止するために一所懸命に自分の曲を入れていたんだ。

 そして、次の日も全く同じ状態が続いた。仕方なく、お父さんは、お姉ちゃんの仕事に付き添って行くことになった。・・・それで僕たちは、ある作戦を立てたんだ。・・・それは、僕たち家族のバーチャルを玄関先に映し出すと同時に、お父さんとお姉ちゃんは勝手口から抜け出し、北側の遊歩道をホテルの方(西)に走って、落ち着いたら観光コースに出るという作戦だった。
 お父さんとお姉ちゃんがスタンバイを完了して、その作戦が開始された。・・・その結果、あえなく撃沈されてしまったんだ。
 お父さんとお姉ちゃんが勝手口から出た途端に、あの宙を飛ぶカメラ型のロボット記者に詰め寄られ、それに驚いたお姉ちゃんが「キャー!」と悲鳴を上げてしまたんだ。それで玄関先の報道陣も、その声に反応して勝手口に回ったんだ。お父さんは、お姉ちゃんをかばうように引き寄せて、また勝手口から家に戻って来たんだ。その後、昨日と同じように報道陣は、バーチャルの家族を相手に一時間くらい、その玄関先で粘っていたけど、また諦めて帰って行った。

 それから、その日も結局、お姉ちゃんは仕事に行けなかった。・・・その後、事態の深刻さを痛感した僕たち家族は、最終的に警備ロボットを雇うことに決めたんだ。
 そして、お父さんが島の電子メニューで警備会社を調べている時だった。・・・また家のチャイムが鳴ったんだ。何時も朗らかな、お兄ちゃんがヨッポド頭に来て、血相を変えて玄関に走って行き、勢いよくドアを開けたんだ。・・・お兄ちゃん以外の家族は、その光景をリビングのモニターと合わせて同時に見ていた。
 すると、そこには山本先生を手前に、柴田さん、塩川さん、加藤さんの姿が映っていたんだ。・・・お兄ちゃんが慌てた様子で「お母さん!チョット!チョット!」と叫んでいる声がステレオで響いていた。
 僕たちも慌てて玄関に走って行った。・・・山本先生が「お久しぶりです。お元気でしたか?・・・何か、大変な様子で、みんなで心配して来たんです。」と言った。お父さんと、お母さんは声を合わせて「お久しぶりです。・・・ありがとうございます。」と挨拶した。
 それで四人を家に招き入れて、暫く楽しげに会話をしていた。・・・当然、博士も呼んであげた。・・・博士も凄く嬉しそうに話していた。
 柴田さんが「また会えてホントに良かったわ。お元気そうで。・・・色々惑わしたと思いますけど、許してくださいね。それが私の仕事なもので・・・。」と言った。お父さんは、「もう、そういうことは何も気にしていませんから・・・。」と答えていた。
 塩川さんは「私たちは自分の任務を全うしているだけで、皆さんを差別する気持ちは元々持っていないですから、それどころか、毎回、毎回、私たちの仕事に協力してくださる、ご家族に感謝しているんですよ。・・・今回の皆さんは特に、尊敬に値する偉業を成し遂げてくれて本当に感謝しているんです。」と言った。すると、博士が「塩川さん。ありがとう。本当にありがとう。」と嬉し泣きして言っていた。
 加藤さんは「私も、皆さんの活躍は見事だったと思っています。例え、クローン人間と言われようと人間にも勝る正義を貫いたことに誇りを持ってくださいね。」と言ったんだ。
 お父さんは「塩川さん。加藤さん。ありがとうございます。本当に・・・。」と言って、やっぱり嬉し泣きしていた。他のみんなも同じ表情を見せて聞いていた。
 僕はその時、「正義って何?」と誰ともなく聞いてみたんだ。みんな返事を返すのに困っていたみたいだった。暫くして、お父さんが「ガヅ君、人間は人夫々で、考え方も違えば立場も違う。その悪い例が戦争だ。・・・戦争は、お互いに自分たちの正義や大義を盾にして戦っているんだ。だから、お父さんは、それが正義だとは思わない。・・・本当の正義は、もの凄く大きな心で、人の尊厳を慈しむことができる人が語る言葉だと思うよ。残念ながら、今までの世の中に、それだけ器のある人は居なかったけどね。・・・でもね。少なからず、カヅ君と、三石博士は国を超えて世界規模の人々のみならず、生物全般を救ったんだから、カヅ君には理解できないかも知れないけど、それは加藤さんの言うように正義に値する行いだったと思うよ。」と言った。・・・他のみんなは、お父さんの言葉に圧倒されたかのように黙って聞いていた。僕には正義の定義が、まだ理解できなかったけど、頑張った甲斐はあったのかと思っていた。

 そして山本先生が「私もカヅキ君が、私の生徒で誇らしいわ。」と言って、暫く間を置いて「それから皆さん、色々お困りでしょうから、・・・私たちの責任もありますし、実は、上の方を通じて掛け合っていたんですけど、やっと許可が下りまして、・・・。」と言って、四人は席を立ったんだ。そして家から外へ出て行った。僕たちも誘われるように出て行くと、塩川さんと加藤さんが芝生とは反対側(東)の正門に向かって走っていった。そして、そこを出て行った。残った僕たちは、玄関先で暫く立ちつくしていた。

 すると、塩川さんと加藤さんに挟まれて見慣れたロボットが僕たちの方に向かって来たんだ。それは紛れもなく『PMG1』だった・・・。
 僕は「『PMG1』!」と叫んで、一目散で走って行った。・・・そして僕は『PMG1』に抱き付いて「『PMG1』!久しぶりだね。」と言った。『PMG1』は「カヅキ、ドウシタンダ。ナニカ、アッタノカ?」と相変わらずのことを言って、僕は「何もないよ。ただ嬉しいだけさ。」と同じように相変わらずの言葉を返したんだ。
 それから『PMG1』は僕たち家族と一緒に暮らすことになったんだ。・・・実は、今回の僕たちの成果が認められて、研究施設の色々な設備を刷新する許可が政府から下りたそうなんだ。それで『PMG1』も、リストラされてしまったという訳なんだ。
 ここに来た四人は、ニュースで困っている僕たちの事情を知って直ぐに『PMG1』を僕たちに引き渡すように、上の方と掛け合ってくれていたんだ。・・・結局、『PMG1』も救われたんだけどね。
 そして、山本先生の話しには、まだ続きがあったんだ・・・。   
    新生活の始まり・・・島での生活

 翌朝、僕たちが朝食を済ませた頃に、柴田さんが元気な声で「おはようございます。」と言って、僕たちの部屋を訪ねて来た。柴田さんは「色々とお世話になりました。・・・本当に残念ですけど、また何処かで会ったら声を掛けて下さいね。」と笑顔で言った。お父さんと、お母さんが口調を合わせるように「本当にお世話になりました。」と挨拶した。・・・僕たち兄弟は、それに続くように挨拶をした。
 そして柴田さんは、引越しの世話をしてくれたんだ。僕たちは自分の荷物をまとめて、後は部屋の中の家具等を元の状態に戻した。それから家族旅行から帰って来た後に、お母さんが島の中で買い揃えてくれた服に着替えた。・・・僕は脱いだ服を洗濯機に入れてから、目覚まし機能の設定を標準モードに戻すのを忘れていたことに気付いた。・・・でも、まあ良いかと思ったんだ。・・・前の二人もきっと、そうだったんだと思った。
 その後、僕たち家族は三年半以上住んでいた部屋を後にした。柴田さんも一緒に、施設車で1階の出入り口まで降りて行くと、そこにはアロハシャツにスラックス姿の博士と、塩川さん、加藤さん、山本先生、それから、お姉ちゃんの高校時代の先生、お兄ちゃんの先生、お父さんとお母さんの職場の人たちが並んで、笑顔で出迎えてくれた。僕たちが歩いて行くと、その列の後ろから『PMG1』と『PMG2』が、みんなの列を崩すようにクルクル回りながら割り込んで前に出て来たんだ。・・・僕は、思わず涙が溢れ出て来た。
 そして、僕は『PMG1』の所に駆け寄り抱き付いて「『PMG1』、ありがとう!」と叫んだ。『PMG1』は「カヅキ、ドウシタンダ。ナニカ、アッタノカ?」と聞いた。僕は「何もないよ。ただ悲しいだけさ。」と言って、別れを惜しんだ。・・・他の家族も、博士も、みんなグチャグチャになって暫く別れを惜しんでいた。
 それから、山本先生が僕に、柴田さんが博士にヒマワリの花束を手渡すと、声を合わせて「お疲れ様でした。」と言ってくれた。僕と博士も声を合わせて「ありがとうございました。」と泣き笑いの顔でお礼の挨拶をした。・・・そして、僕たちは研究施設を出て行った。

 その後、僕たち家族は、博士と一緒に観光用の一時間コースの車両に乗った。そして、途中、島の東側の休憩所に寄り、お父さんと博士は早速ビールを買って飲み始めた。・・・二人はベンチに並んで美味しそうに飲んでいた。僕たちもジュースを買って、その場所に行き飲み始めていた。
 暫くして、お父さんの方から「博士、ホテルで昼食でもどうですか?」と言った。博士は「良いですねえ。」と即答した。そして例のホテルで、昼食を食べることになったんだ。

 それから僕たちは、そのホテルに入ってフロントへ行き、食事をするためのチェックを受けたんだ。その後、エレベーターで24階のラウンジに行くと、予約をしてないのに見晴らしの良い特別席に案内されたんだ。・・・僕たちは、まだVIP待遇なんだなと思った。
 僕は、トマトの入った軽めのスパとサラダをチョイスして頼んだ。他のみんなも僕と同じような物を頼んだけど、お兄ちゃんは、やっぱり黒毛和牛の焼き肉定食を頼んだんだ。
 それを待っている間に、博士は笑いながら重要な話しをしてくれた。「実はね。さっき、施設の一階で皆さんを待っていた時にね。山本先生が教えてくれたんです。・・・実はね。私たちはクローン人間でしょ。・・・本来クローン人間は、身分が保障されていないんですよ。・・・だけど、私たちは大統領の一任で身分を保障して貰えたんですよ。それもVIP待遇でね。」と話しながら、博士の顔は笑顔で崩れて行った。それを聞いた僕たちは、フロアー全体に聞こえるくらいの驚愕の声を上げていた。
 お父さんが「本当ですか!凄いことだなあ。・・・だけど何故、山本先生がそんなことを言うんですかね。」と言った。博士は慌てて「アアッ!言い忘れました。・・・実は、山本先生が本物の博士のアシスタントだったんですよ。柴田さんは、私たちをサポートする人だったんです。」と答えた。・・・僕たち家族は、またビックリしたんだ。
 お父さんは「そういうことだったんですか。いやー、何か手の込んでいる芝居をしていますよね。」と驚きと嬉しさと不審さが入り乱れた奇妙な顔をして話していた。
 博士は、嬉しさが込み上げて「それでね。・・・」を連発した。お父さんは、それに合わせて「はい。」を繰り返していたんだ。暫く、そのやり取りが続いて二人は突然大きな声で「グアッハッハー」と笑い出したんだ。・・・もうこの二人は誰にも止められなかった。僕と他のみんなは、ただ呆れていた。

 そして、二人が笑うのも疲れ果てた頃、サービスロボットが料理を運んで来てくれた。二人は、やっと静かになってビールで乾杯すると、それを幸せそうに飲んでいた。
 すると、博士が今度は冷静さを装って「いやー、取り乱しちゃって申し訳ありません。さっきの続きなんですけどね。・・・私も先ほど、山本先生、いや、山本さんから100万ドルの小切手を頂きましてね。」と言うと、チョット首を傾げて「イヤッ、違う。つい嬉しくって話す順序を間違えました。・・・あれ?私、何の話をしていましたっけ。」と言った。お父さんが「いやあー、博士。良かったですね。・・・あれ?何の話だったかなあ。」と言っていた。・・・僕たちは、ただただ呆れていた。二人は暫く、何も食べずにビールを飲みながら話しの続きを考えていた。

 その後、食事を終えた僕たちは、ホテルの北側の裏口から出て、島の観光用の離発着所を通り過ぎ、海沿いの遊歩道に出て、右(東側)の方行に歩いて住民地区へ向かったんだ。
 もう冬だというのに海風がとても気持ち良かった。・・・お父さんと博士は、遊歩道を肩を組みながら、片手にホテルで強引に作らせたビールの紙コップを持ち、フラフラと歩いていた。・・・時折、博士は、大統領から勲章を貰った時に言った言葉、「アメリカ万歳!『対等ヨ万歳!』天皇陛下万歳!」を繰り返し叫んでいた。その真実を知らない、お父さんは博士に合わせて「アメリカ万歳!大統領万歳!天皇陛下万歳!」と叫んでいた。・・・僕たちは行き場所が分らないから仕方なく、ただ、その後ろを付いて歩いていたんだ。
 それから、暫く歩いていると、住民地区の表示が見えて来た。博士が「着きましたよ!着きましたよ!」とハシャイデ言って、その表示の階段を右(南側)に降りて行くと、左側(東側)に綺麗に手入れされた植物の垣根がある、石畳の路地を少し歩いたところで止まった。
 そして垣根のアーチ状になった入口(裏口)を開けて入って行った。僕たちも、その後を追い、その中に入ると、そこには、かなり広い敷地の一面に綺麗に刈られた芝生が生えていた。その先には大きな別荘と、少し小さ目の別荘が少し離れて右側に並んで建っていた。

 博士が「カヅキ君!カヅキ君!」と僕を呼び、そして言った。「カヅキ君、今日からここが君たちが住む家だよ。」と。・・・僕たち家族は、エー!というような驚きの声を上げていた。博士は続けて「お父さん!海側の大きな家が皆さんの家ですよ!・・・右側の家には、私が住むことになりますけどね。」と嬉しそうに言った。
 お父さんは「本当ですか!どうしてそんなことに・・・。」と言った。博士は「大統領が、特別ボーナスをくれたんです。『世界のヒーローが住む家もない。』では、アメリカの名がすたるとか言っていましたけどね。」と答えた。更に、お父さんが「そうなんですか!・・・博士は、そのことを二週間前から知っていたんですか?」と聞いた。

 博士は「いえいえ、私も皆さんが旅行に行っている時に、一所懸命に皆さんの家と私の家を探していたんですよ。・・・でも所詮クローン人間には難しいことを実感しました。
 私が知ったのは、大統領の側近の人から、タイムマシンで昔の時代を観に行ける知らせを聞いた時なんです。つい数日前ですよ。・・・大統領は、私たちがクローン人間だということを知らなかったらしいんです。
 さっきした話ですけどね。あの式典の後に、大統領が『副賞で何か欲しい物を言ってごらん。』と聞いて、カヅキ君は『UFOに乗って、昔の時代をもう一度、見てみたいです。』って答えたんですよね。私もカヅキ君の意見に乗っかって『私も、それが良いです。』って言ったんです。
 その答え方に疑問を感じた大統領が、直ぐに、その側近を呼んで聞いたそうなんです。実は、その人も私たちのことを知らなかったんです。それで、その人が調査して、その人も大統領も始めて、私たちがクローン人間だということを知ったんですよ。
 大統領は自分が、その時に『君の希望が叶えられるように努力するよ。』と言った手前もあるし、さっき話した『世界のヒーローが住む家もない。』では、みたいなアメリカのプライドもあったし、それから、あの『プリティー・ボーイ』を無にしてはいけないと言って、私たちを救済するように指示したそうなんです。その結果が、こういうことだったんです。
 私は嬉しくってねえ。これでようやく肩の荷が降ろせた想いでしたよ。・・・でも皆さんを驚かせようと思いまして、ここに来るまでは黙っていたんです。」と答えた。・・・博士は、長い説明を終えて息切れをしていた。・・・聞いていた僕たちも疲れていた。
 お父さんは「そういうことですか。・・・でもクローン人間って、そんなに差別されているんですか?」と聞いた。博士は大分疲れた様子で話し出した。「ああ、そうなんですよ。アッ!やっと思い出しました。さっきの話しの続きを・・・。私たちは、身分を保障して貰えたって言いましたよね。それで、私はホテルに入った時から、内心、心配していたんですよ。・・・でも、チェックも受けられましたし、VIP待遇もされたでしょう。・・・いやー、そのことを話そうとして、先に嬉しさが込み上げてしまいました。」と言って、
 更に「身分の保障といっても、身分証明書がある訳じゃないんです。それは全て政府がデータ管理しているんですよ。その人のデータが登録されていれば、どこに行っても画像チェックで身分が保障されるんです。・・・でも、クローン人間は、それに登録して貰えないんですよ。」と教えてくれた。お父さんは「そうなんですか。私たちはラッキーだったんですね。でも、他のクローン人間は悲しいですよね。」と言っていた。・・・僕たち家族は、みんな疲れてしまい芝生に座って、黙ってうなずくように聞いていた。

 そして博士は「でもね。お父さん。カヅキ君だって痛い想いをして、あの高価な『ナノ・カプセル3号』だって壊すこともなく世界を破滅から救った訳ですから、・・・私たちは、それだけのことをやって来た訳ですから、・・・皆さんの力も大きかったですよ。カヅキ君の精神状態を保つことは大事な事だったんですから、・・・私たちは当然の権利として頂く物は頂いて、これからも堂々と胸を張って生きて行きましょうよ。」と言った。お父さんは「そうですね。・・・博士、本当に、ありがとうございます。感謝しています。」と言った。

 その時、僕には一つの疑問があって博士に聞いてみたんだ。「博士、僕たちの前に二つの家族が居たんでしょ。その家族は、どうなっちゃったんですか?」と・・・。
 すると博士は「そうなんだよ。私も、それが気掛かりなんだよ。私たちは、例の特命があったから、結果的には救われたけどね。・・・あの小切手にしたって、本当は大統領から勲章を貰った直後に、政府から正式に送られて来たものなんです。・・・私は、カヅキ君が私を手伝ってくれた謝礼だなんて思わず言ってしまいましたけどね・・・。
 実は、私は柴田さんから、皆さんに手渡すように頼まれたんですよ。・・・私はその時、私は貰えないのかと思って正直諦めていましたから、それで見栄を張ってしまいまして、・・・どうも済みませんでした。でも、私は悪いウソだと思っていません。そのウソの中には私のお礼の気持ちが含まれていますから・・・。私だって、それくらいのことは言いたかったんですよ・・・。
 だけど、この私も山本さんから、私の任務は皆さんを施設から送り出すまでなのでと言われましたけど、結局、最後には貰えた訳ですからねえ。・・・前の家族は、どうだったんだろう。・・・どうしているんだろうかねえ。」と言っていた。
 お父さんは「博士、別に気にしないでください。博士の気持ちは十分解っていますから。」と博士を慰めるように言った。・・・僕も博士のウソは何とも思っていなかった。だけど、やっぱり、前の家族が、どうしているのか心配だった。

 それから、僕たち家族は博士と分かれて、お互いの家に入って行った。南向きの玄関を入り、そこを上がると一部屋出来そうなくらい広いスペースがあり、その上は吹き抜けになっていた。そこを抜けると、舞踏会でもできそうな、かなり大きな部屋があり、その先には右へ緩やかに曲がる幅の広い、赤いジュウタンが敷かれた階段があった。更に、その奥には、広いリビングとダイニングキッチンがあった。そして、その西(庭)側には大きなジャグジーがあるシャワールームと、広いトイレ、広い洗面所があった。・・・僕は、凄く嬉しかったけど、その反面、なんて場違いな家に来ちゃったんだろうとも思っていた。
 階段を上がると、下を見下ろすように、回り廊下があり、その周りには幾つかの部屋があった。そして、この家には地下室があり、更にその下は、核シェルターになっていたんだ。
 その後、僕たち家族はリビングに集まって、ゆったりとしたソファーに暫く黙ったまま座っていた。・・・僕も、みんなも驚きを隠せない様子だった・・・。
 その時、そこへ博士が訪ねて来た。お父さんが招き入れると「いやー、済みません。夕食をどうしましょうか?」と言って来たんだ。お母さんが「まだ、何も見てないんですよ。」と言い、キッチンの冷蔵庫を開けると、やっぱり、何も入っていなかったんだ。それから、博士と一緒にホテル街のスーパーマーケットに買い出しに行き、その日の夜は、南国の月明かりの下(芝生の庭)でバーベキューをしたんだ。そして、その後は夫々が適当な部屋で眠ったんだ。
 
 こんな感じで、僕たち家族の新生活は始まった。

 翌日、僕たちは疲れ切っていて、お昼を過ぎても寝ていたんだ。そして家のチャイムの音で目が覚めた。・・・誰も起きて出ようとしなかった。仕方なく僕がバーチャルで応対してみたんだ。(昨日、部屋の取説を見て知ったんだけど・・・玄関先で、お客さんに失礼がないように自分の姿を映し出して応対する機能で、本人は部屋に居ながら、その会話の様子を観たり聞いたりできるんだ)
 すると、何か凄く上品な話し声が聞こえて来て、ふとモニターを見ると、また凄く紳士な人がオドオドしたバーチャルの僕と、天皇陛下の話しをしているんだ。・・・僕は慌てて、「お父さん!お母さん!大変!大変!」とそこら中の部屋の前で叫び、やっと二人を起こして、その人を家の中に招き入れたんだ。
 その人は天皇陛下にお仕えする宮内庁の侍従長だったんだ。勿論、僕にも、家族にも、その人が、どんな立場の人か判らなかったけど、言っている事だけは理解できていた。
 その人は用件だけ話すと、二つの封筒を残し帰って行った。勿論、お父さんを始め、僕たち家族は、玄関を出て丁重に見送ったんだ。(みんなパジャマ姿だったけどね)
 その侍従長の話しでは、博士と僕の行って来た研究の成果が認められて、十二月三日に博士と僕は、極めて異例の一か月遅れでの文化勲章を、天皇陛下から直々に賜わることになったということだったんだ。

 侍従長が残していった二つの封筒には、式次第詳細と書かれていて、一つは僕宛てで、あと一つは博士宛ての物だった。侍従長は先に博士の所へ行ったけど、博士は、まだ休んでいるようなので渡してくださいと言っていた。
 お父さんが僕宛ての封筒を開けてみると、その中には二枚の紙切れが入っていて、その一枚は、州知事からの通知書で、何やら文化勲章を授与する経緯等の内容がビッシリ書かれていた。もう一枚には、その日のスケジュールが詳細に書かれていた。
 そして侍従長は、その予定された内容を事前に把握し、くれぐれも天皇陛下に御無礼のないようにしてくださいと言っていた。・・・僕たち家族は、すっかり安心し切っていて、もう騒がれることもないだろうと思っていたから、突然のことで凄く驚いていたんだ。
 その後、お父さんは慌ててパジャマ姿のまま博士に、そのことを報告に行ったんだ。・・・それから、お父さんは、ちっとも帰って来なかった。夕方になって、博士と一緒に帰って来たんだ。二人とも、お酒を飲んで既にでき上がってしまっていた。お父さんは「腹減った!」と言い。博士は、酔っている割には「済みません。何か頂けますかア。」と少々遠慮深げに言った。
 お母さんは、僕たちも既に食べた、水に入れて置くだけで簡単にできるソーメンを二人に出して食べさせてやった。・・・二人は、それを美味しい、美味しいと言って食べていた。
 それから二人は、また焼酎を飲み始めて、博士が何かお父さんを慰めているようだった。僕たちは、一体何があったんだろうと思っていた。翌々聞くと、お父さんは、あの侍従長のことで悔やんでいるようだった。・・・天皇陛下にお仕えする侍従長をパジャマ姿で出迎え、パジャマ姿で見送るなんて、本当に、失礼なことをしてしまったと後悔していたんだ。 

 その日は結局、また博士も一緒に夕飯を食べることになった。お母さんは何を作ろうか散々悩んだ末に、「作るのも面倒だよね。」と言い出して、お姉ちゃんが島の電子メニューで、自分が働いている回転寿司に注文してくれたんだ。
 そして、その直後に家のチャイムが鳴ったんだ。お母さんは、もうお寿司が来たのかと思って、慌てて玄関に走って行った。すると宅急便のロボットで、「オニモツヲ、オトドケニ、キマシタ。」と言っていた。・・・僕たち兄弟は、何が来たのかと思って直ぐ見に行ったんだ。
 それは柴田さんが、僕たちの荷物を頃合いを見て送ってくれた物だった。博士も自分の荷物をここで受け取ったんだ。・・・僕たちは直ぐに自分の荷物を確認した。
 僕は、その荷物を開けると嫌な物を見つけてしまった。・・・それは、あの入院した時に山本先生が持って来てくれたバーチャル授業を映し出す丸い電化製品みたいな物だった。
 そういえば、僕は、ここのところ忙しくて、バーチャル授業もほとんど受けていなかったんだ。お兄ちゃんも同じだった。すると横で、お兄ちゃんが「何だ、これは?」と言って、僕が見つけた物と同じ丸い電化製品を取り出していた。・・・それにはメモが付いていて、お兄ちゃんの先生からのプレゼントだということが解った。
 お母さんが「二人とも色々あったけど、これから一所懸命、勉強しないとね。」と笑って言った。そして、お母さんは「お父さん、これから仕事どうする?お姉ちゃんは、良いとしても・・・。」と心配そうに言った。お父さんは「そうだな。・・・だけど、アセッタところで今の時代は、ロボットばかりで昔より更に厳しいだろうからな。」と言った。
 博士も「そうですよ。私も、皆さんの仕事を世話するつもりで色々探しましたけどね。全く見つかりませんでしたよ。でもね。考えようで何か少し働ければ良いと思えば、それなりに見つかると思いますけどね。」と言っていた。・・・結局、方策は見つからなかった。
 それから博士と一緒に、お寿司を食べながら長い夜が過ぎてゆき、その日は終わった。

 次の日、僕たちは、ゆっくり起きて夫々適当にブランチを食べていた。すると、お父さんとお母さんが何やらソワソワして、ああでもない。こうでもない。と言い合っていた。
 何事かと思っていたら、二人は午後から出掛けて、ご近所とボランティア仲間の林さん、松浦さんの所へ、引越しの挨拶に行くと言って出掛けたんだ。
 お姉ちゃんは仕事に出掛けていたし、僕と、お兄ちゃんは暇を持て余していた。すると、お兄ちゃんが急に走ってリビングを出て行き、暫くして、ゲームを持って走って戻って来たんだ。それは、お姉ちゃんが買ってくれたゲームだった。お兄ちゃんは「カヅ君!これを広い所でやってみようか?」と言うと、それを持って、舞踏会でもできそうな部屋に移ったんだ。それから僕たちは、その部屋にゲーム機をセッティングして遊んだ。
 意外と制度が良くって、かなり広い範囲で飛んだり、浮かんだりできたんだ。僕たちは『PMG1』にも邪魔をされることなく、時間も忘れて夢中になって遊んでいた。
 そして風船割りゲーム(バーチャルの5個の大きな風船を二人で押し潰して割りタイムを競うゲーム)をしている時だった。・・・そこに、お父さんとお母さんが帰って来たんだ。その時、僕は下側で、丁度、入院していた時に『自主リハ』でやっていた、カエル体操のようなカッコウをしていたんだ。・・・僕は、お父さんとお母さんに叱られると思っていた。
 すると二人は、僕たちのカッコウを見て吹き出して笑ったんだ。お母さんが「何、やっているの。・・・変なカッコウ。」と言って、お父さんは「面白そうだな。」と言っていた。僕は安心して「お父さんもやる?」と聞いた。その時は無視されたけど、何時しか二人も混ざって来たんだ。・・・それから四人は、お姉ちゃんが仕事から帰って来るまで楽しんだ。・・・その後に帰って来た、お姉ちゃんも、それに参加したのは言うまでもない。

 そして、十二月三日を迎えた。僕は朝から慌ただしく、例のホテルで調達したタキシードに着替え、博士と一緒に観光用の車両で離発着所へ行き、ホテルの供用機で東京へ向かったんだ。東京エアーターミナルに着くと、係の女の人が一般客とは違う特別な通路へ案内してくれた。僕と博士は、その女性の後ろを暫く歩いて行き、その後、特別な部屋に通されたんだ。そして、その中では、あの時の侍従長が出迎えてくれたんだ。
 それから僕と博士は、宮内庁の立派な車に乗せられて皇居へ行った。そして、その中の宮殿『松の間』に通された。僕と博士は、係の人から二つ用意された椅子に座るように促されて、そこに座り、暫くの間、天皇陛下が入って来るのを待っていた。・・・僕も博士も凄く緊張して、無駄口を利くこともできなかった。斜め右横に居た州知事も何か落ち着かない様子だった。
 やがて回りがソワソワし出して、いよいよ天皇陛下が入って来るんだなということが解った。州知事が僕たちに「間もなく、天皇陛下がお見えになられます。席を立って、姿勢を正してください。」と言った。僕と博士は席を立つと、勉強して来たお辞儀(姿勢を正し、ヒザとカカトをつけてツマサキを軽くVの字に開く。身体を腰から前に45度くらい倒す。両手の指さきを伸ばして、ズボンの横にしっかりつける。視線は足元を見ること)をして待っていた。・・・僕も博士も疲れ切っていた。・・・でも頑張ったんだ。
 暫くすると、静かな気品に満ちた声で天皇陛下自ら「顔を上げてください。」と言われた。僕と博士は、ゆっくりと顔を上げた。・・・天皇陛下は優しい顔で僕たちを見ていられた。
 そして天皇陛下は「二人が日本のため、また世界の人々のために尽くされて来たことを深く感謝しております。」と述べられた。・・・僕たちは、さっきより軽めのお辞儀をした。
 その後、州知事が「お二人、前へ。」と言って、僕たちは、それに従った。・・・そして、天皇陛下から文化勲章を賜わった。・・・その後、博士がお礼の挨拶をしたんだ。「私たちは極めて誠実に、これからも生きて、人々の役に立てるように、努力して参ります。」と随分立派な言葉を言っていた。
 最後に、天皇陛下が「二人が日本を代表する、大きな成果を収められたことを、誠に、喜ばしく思います。」と述べられた。・・・僕たちは、最初と同じ礼を尽くすお辞儀をした。
 それで、文化勲章の授与式は終わったんだ。・・・凄く疲れたけど、天皇陛下に拝謁したことは、博士も僕も一生の宝物になったと思っていた。

 皇居からの帰りも、僕と博士は、宮内庁の車で東京エアーターミナルまで送って貰い、行きと同じように、特別な通路からホテルの供用機に乗り、沖ノ鳥島に帰ったんだ。・・・
 博士は、凄く嬉しそうだった。・・・天皇陛下が、どうのこうのと行きとは全く違い、一人で、ずっと訳の分らないことまで喋っていた。
 それから沖ノ鳥島に着くと、行きとは違って沢山の人が出迎えてくれたんだ。・・・僕と博士は、何があったんだろうと驚いていた。
 僕たちは、共用機を降りると、その渦の中に入って行ってモミクチャニされてしまった。やっとの思いで、そこを抜けると何時しか北側の遊歩道に出ていた。僕と博士は、それを振り払うように、タキシード姿で全力疾走して家まで帰ったんだ。・・・博士はヘナチョコな走り方で直ぐに息切れしていたから、僕は仕方なく博士の手を引いて走ったんだ。・・・それで凄く疲れたことを覚えている。

 そして博士と一緒に家に入ると、家族が暖かく迎えてくれた。・・・みんな「どうだった?ちゃんとできた?」とか色々聞いて、僕と博士は、その騒動のことを話す暇がなかった。
 それで、お昼ご飯にピザーラの僕が好きなトマトが入ったピザを頼んで、帰りを待っていてくれたんだ。・・・僕は、これだけ大変な想いをしてきたのに、まだ午前中の話しだったことにようやく気が付いた。
 その後、僕はタキシードを脱いでラフな服に着替えると、大好きなピザを食べたんだ。博士も僕たちの家で、お父さんの服に着替えて一緒に食べたんだ。・・・博士は、午前中の出来事を得意になって家族に聞かせたんだ。・・・それをみんなも夢中で聞いていた。
 暫くして、お父さんはピザを食べて汚れた手を洗面所に洗いに行くと、真新しいタオルを持って戻って来た。そして僕が貰った勲章を大事そうに、そのタオルで包むように手に取ると、少しの間、それを見つめて涙を浮かべて微笑んでいた。・・・他のみんなも喜んでくれたけど、ピザを食べることに一所懸命になっていた。

 それから、お父さんと博士は言うまでもなく酒盛りを始めたんだ。僕は家族に離発着所でモミクチャにされたことを話すと、家族もそれを不思議に思って、お父さんがバーチャルテレビを点けたんだ。すると、トップニュースで、僕と博士が天皇陛下から文化勲章を授与されたことを報じていた。・・・それで僕は、やっと、あの騒ぎの原因が解ったんだ。
 だけど、それからが本当に大変だったんだ・・・。