久しぶりにここを開いてみた。瀬戸での更新が最後のようで、反対に瀬戸で更新してたことにびっくり。

 

あまりにもプライベートよりな内容なので、切なくなりつつも昔の写真を見て、なつかしさに浸りました。

 

あまりにも色んなことのある日々ですが、私は瀬戸の窯業の訓練校デザイン科を終了して、岐阜県土岐市に移動しました。

そして一年と何か月か、ある製陶所で轆轤師の仕事をしていました。

そしてあまりにいろんなことがあり辞めました。

そしてそこで仲良くなった何人かの職人、作家さんたちは、皆、私が辞める前後にばたばたと皆やめていきましたが私が辞める、まだお付き合いがあり、時々あったりあします。

 

そして私は土岐に残り、今、工房を借りています。

陶磁器を作っています。なんかくすぐったいですが最近なれました。陶磁器です。

イタリアにいるときはチェラミカと言っていたけど、今は、マヨリカ以外のものつくれるのです。日本です。

温度が高く、いろいろ限界がありません、その分、難しく、苦しみもあります、でもその分限界のない窯の中の魔術が実感できます。

 

はじめて陶器を始めた時は、私はフィレンツェにいて何も知らなくて、私より長くいる学生の子に、この後、、この液体塗ったのがつるつるになるの?って聞いたほどでした。

不思議で不思議でまるで魔法のようだともいました。

 

そして、マヨリカではその魔法が自分のなかで打ち止めになったのを自分の中で感じました、、何年も何年もイタリアにいる間に、もっと違う粘土を使ってみたい、グレースをやりたい!磁器だって経験したい。

 

イタリアを引き上げる勇気はすごくいったし、、、、横浜に帰ってもなかなか産地に行きたいと、四十過ぎの出戻りバツイチになった私は言いだせず、、、でもそこで、父が、おまえ、試験受けないでいいのか?とホテルやら調べてくれて、そして新幹線で送りだしてくれて、、、そして、学校に奇跡のように、、私の頭で結構難しい試験に受かり、カーテンだけ鞄に入れて、私は瀬戸に引っ越し、ネットで決めた学校に近い部屋、タクシーで布団を買いに行き、、、、そんな感じだったのに、あっという間にモノにあふれる土岐の部屋、絵付けと型の机二つアパートに置き、工房を借りてろくろを回し、、、今に至っています。

 

久しぶりの記録です。

 

 

写真はこないだなんと窯の温度計が壊れてて、、引っ張ったつもりが上げ続けてたらしく、釉薬がくっついちゃって、、、うろこになってしまった商品たち。

 

本当は作れていることに感謝なんだと思う、、少し忘れてた、いろんなことがありすぎて、、、。感謝。

今、パソコンを持ってません。タブレットの更新でやり方がよくわかっていません。
そして4月から移動してきた愛知県で暮らしています。

こんなことをしています。

季節の変わり目。

書くことがあまりない日々、図書館と家の往復{こんなに勉強したのはイタリアの語学学校以来だと思う}、そしてちょっとある事が必要で行った職安。
ちょっと最近のと遠出と言えば、瀬戸に行ったくらい。

でも新幹線で新横浜から名古屋までひと駅、しかも1時間半ほど、遅れることがほぼない。
すごいな、、、文明。時間まで買える。

なんてずっと日本にいたら当たり前の様に、過ごしていたであろう些細なことにすごく「すごいなぁ」と感心してしまう。
本当にすごい国だと思う、日本。未だに。

で、気がつけば、イタリアと日本と両方の国で職安に行った。
日本はすごく丁寧で本当すごいなぁってまた感心してしまった。

イタリアが雑かって言うと、、、雑、超雑。でも親切は親切にして貰った。
一番最初に、イタリアで職安に通ったのは、かなり前で、2008年とかだったと思う。

前もこの話を書いたかもしれないが…メールでだれかに書いたのか、ブログで書いたのか思い出せない、しかし自分でも記憶にとどめておきたい事なので書くことにする。

2008年のある日、夏、私が元々4年半通っていた学校の校長先生から連絡があったのだ。
「商品を全く今までと違う新しいデザインで売り出したいっていう会社があるんだけど、あなた履歴書持っていく?若いデザインを出来る人を探してるのよ」
私が仕事をしたいと知っていた校長先生からの電話で、私はすぐに履歴書を先生と一緒に制作して、cdに写真を{それまで作ったもの}を入れて、そのラストラ・シ―ニャという町にある陶器工場に持っていったのだ。

その工場の商品はマヨリカ。
私もコインやリナシェンテやドウモ近くの大きな大きな食器や調理道具を置いてる専門店で、この会社の商品を見たことがあった。空港でも見たことがあったのでかなり手広くやってる会社だったんだと思う。
オレンジ色がベースで、フルーツや花、幾何学模様、その辺を取り入れたデザインで、写真を載せればイタリア在住の人なら、ああ見た事ある。というと思うくらい時々目に入る食器だった。

面接に行って作品の写真の入ったcdを置いて行った。
こんな美人、見た事ないってくらいの美人の担当者がいろいろ工場を見せてくれた。

そこには轆轤職人もいて、当時まだ職業訓練校に行く前で轆轤職人に習いたいと思ってた私は、ちょっと轆轤の方を見てわくわくした。腕が太くてお腹の大きいいかにもイタリアでの轆轤職人が何人かいた、『ここに入ったら寿司を作ってくれよ』と声掛けられた。

そのすごい美人のマンダレーナから後日連絡が来て『研修って事で最初の1カ月はうちに通って貰うことになるけど、朝だけ、でも午後もいていいのよ、あなたの自由。ただ、研修期間はお給料は出ないからあなたの自由ってだけで、色々やりたい事があれば残ってくれていいのよ、絵付けも轆轤もできるのよね、轆轤は無理だけど絵付けは是非手伝って貰いたいし」
との事だった。私はわくわくした。

でも大変だったのはここから。
研修手続きに色々な書類がいるのでそれを出してもらわないといけなかった。

私は職安から、今となっては名前も忘れてしまったが移民局系の職業の相談も載るような場所とか、移民や外国人専用の警察クエストゥーラなど、、色々たらいまわしにされたのだった。
『大丈夫だから、この滞在許可証で』と言われ持っていくと『うちのコンメルチャリスタはこれではだめだと言ってる、うちのは優秀だから間違うわけない。』

そしてまた行くと『大丈夫だよ、法律でそうなってる』で、こっちに行くと『これでは無理なのよ、滞在許可書がファミリーでしょ、変えてこないと、、あなたは外国人だから研修って通らないって言われたの、だからあなたを正式に一日4時間で雇うから、で、フルになるかどうかは1,2カ月あなたの働きぶりを見て決めるで良い?うちで働いて貰える?でも滞在許可証を労働が出来るラヴォ―ロに変えてきてね』と言われ、、、クエストゥーラまで行く。

クエストゥーラでは『大丈夫だよ、主婦で外人でも働けるんだから、このままで、途中でなんか変えられないよ』
で、また同じことの繰り返し、、、、

これを私は約2,3カ月繰り返し、ほとほと嫌になってしまった。
本当にこの国は何でこうなんだろうって、、、、。

私ももうマンダレーナにあまり連絡をしなくなった。
彼女も、3、4カ月かかるこのやり取りにげんなりしたのか、外人を雇うのは大変と身にしみたのか連絡が途絶えた。

時期はもう冬に差し掛かり、その頃に、今まで2年間、沈黙してたモンテルーポの職業訓練校が2009年はやると友達づてにきいたのだった。

私は2006年度に申し込みに行って駄目だった事がある。結婚したのと、法律がその時に変わったため、私が滞在許可証がそのまま切り替えが出来なくなったためであった。私は悔しくて
トラックがビュンビュン通る道を30分、大雨の中、悔しくて泣きながら帰って行った。今思うと何も泣かなくともって思うけど・・・。

あの悔しさはなんだったんだろう。多分、間をあけたくなかったんだろうと思う。
実際、私は2005年の夏から3年半ブランクをあけることになった。

私は夫に黙って試験を受けに行った。
『いまさら、、、』と反対されるのは目に見えてたから。

試験は、筆記のテスト、(電子辞書使って可)テスト内容は覚えてないけど数学や理科の類は全く出なかった。用紙にして、4,5、枚程度だったと思う。頭を使った覚えがないので多分アンケートの様なテストの様な、、、そんな感じだったと思う。

そしてデッサン(30分ほど)そして面接だった。
倍率2倍、面接では言いたい事は言えず・・・。無料で一年イタリアの税金で通える学校、当時も、もう仕事がない人が充分にいた状況だったので、陶器に興味なくとも来てみた。という人もいた。

その帰り道、マンダレーナから着信が入ってたのに気がついた。
私は彼女に電話するか迷った。
迷って、しなかった。

そしてその後、私は職業訓練校に受かり、通った。
フィレンツェからモンテルーポまでは電車で約30分。
途中にフィレンツェ・リフレディ、シ―ニャやラストラ・シ―ニャがある。

ラストラ・シ―ニャの駅からはマンダレーナのいた会社が見えた。春くらいまで普通だったか確かに夏ごろから駅を通る電車の中から違和感を覚えた。なんか人気がないように感じたのだった。

その会社がつぶれたと聞いたのは学校にいた終わり頃だった。
夏につぶれたらしい。

この辺りのマヨリカの工場では一番大きな会社だったのに。と。

あの、試験の日の電話に出たら、どうなってたんだろう。
あの試験の日の電話でマンダレーナは私に何が言いたかったんだろう。

あのいざこざがなく彼女たちの会社にいたら、私は間違えなく職業訓練校に行くことはなかったと思う。
私の行った職業訓練校はユーロ危機の不景気にあおられてだと思うが、今、短期の有料のコースしかしていない。
今のイタリアの様子だと一年コースが再開するのはほとんど無理だと思う。
2009年だって奇跡的に出来たんだと思う。あのときだってイタリア国内は今ほどじゃなくとも本当にひどい状態だった。
でも、正直、、これは本当に私個人の所感だが、私がいた13年の間にイタリアの良い時期なんて見たことも感じたこともない。
でもイタリア人に言わせるとリラの時はこんなに人々が仕事がないわけではなかったという。
私もリラの時にいたが、日本から来たばかりの日本基準の私がそれを感じることはなかったけど・・・。

私が卒業した後も、陶器系の会社が閉めていった。
「だから職業訓練校も意味をなさないんだよ、就職する所がないのだもの」と先生が言った。

職業訓練校で教えるのは、校長先生以外は通いで来てる先生で普段は陶器工場で働いてる職人である。
校長先生だって元職人で轆轤職人で、その後、釉薬の会社で釉薬を作っていた技術者なので元職人である。

私は二人の轆轤の先生にここで習ったが一人は30代なのに、会社がつぶれて無職という状態だった。(学校が終わる頃、先生が新しく勤める工場が見つかったのでそれは教えて貰ってる生徒たちまでホッとした。)

私がラストラ・シ―ニャの会社の件でCGIL(イタリア労働者組合総同盟)に通ってた頃、待合室でペルー人の男の人とおしゃべりしてた時のことだ。確かペルー人と言ってたと思う。

『君、中国人?』
『日本人だけど』
『え?日本人が何でこんなところにいるの?自分の国に帰った方が良いじゃないか。日本人ってあるでけで日本に住めるのに、、、何でこんな国に??』
『結婚してて旦那さんこっちで働いてるから。』
『でも日本に帰った方が良いよ、この国ひどいよね、あ、でも、僕の国はもっとひどくて生きるのも大変だから、息子も呼びたくて今日はそのこと聞きたくてここに来たんだ。』
と言って息子さんの写真を見せてくれた。

そんな事を思い出したので『外国人の方も来るんですか?』と聞いてみた。

『来るわよ。日本人と離婚した後の人、女の人は東南アジア系が多くて男の人はアフリカ大陸系の人が多い。でもバブルの頃に来た人は本当に日本語が話せない人が多いから・・・・。自分の国に帰った方が言葉も通じるし良いんじゃないかなって思うんだけど。』

と、職員の人は言ってた。

日本が楽だから日本にいたいのか、帰れない理由があるのか、、、、。

若い頃はお金がない方が本当は幸せになれるのでは?って思ったりもした。
でもイタリアに住んでその考えは違うと自分の中では答えが出た。
ある程度の経済の発展は幸せの為に必要な事。

でもその国を作るのはその国の人たちなのだ。
その国は国民を見てると、ああだからこういう風になったのかって思うところがある。

こないだ何かの本に書いてあった。

自分の体は自分の結果である。
太った体は自分でその身体を作った生活をした結果である。

きっとよくわからないけど、それと一緒なんだろうなぁ。





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今年は雪が2月も3月も降るとの事。
雪かきの道具は捨てないようにとテレビのニュースで言ってました。

東京横浜では8年ぶりの雪だとか・・・・。それもテレビが言ってました。

東京に出掛ける予定だったのだけど雪で足止め、母もダンス教室に行かず足止め、父は元々予定なしの日、そんなこんなで親子でヒーターの番、そしてテレビ見て、前日買った物を食べあさる、まるで正月の様な祭日でした。

でも成人式の皆さんはとても大変だったでしょうね・・・。テレビに映るたび「きのどくだなぁ」と、でも「ホワイト成人式で思い出に残ります」と、ある女の子が「うん、うん。プラス思考でいいなぁ、そうだよね」とテレビと話す私。

何だか気がつくと一日中、テレビをつけた日でした、、、すいません。
2012年が終わります。
なかなかブログ更新がままならない現状ですが、来年はゆるくながらも、続けていけるといいなと思ってます。

今年はいろいろあった…。(笑)

人生の転換をたくさんした。

来年は沢山動いていける様に。


クリスマスにお正月とクリスマスを兼ねて作った切り絵です。模様は思いっきりクリスマスを意識してデザインしてしまいましたが・・・・。

fbにイタリアのお友達に挨拶代わりに載せたものです。

「あけましておめでとう」ヴァージョンも日本人の友達様に作ろうと思ってたのに、あまりにも時間がなくて出来ませんでした。赤ずきんと蛇で下絵まで出来てたのに・・・・。

というわけで、、、、トナカイですが・・・・。


来年が皆様にとっても、私にとっても思いっきりいい年になる事を願って。
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