『灰の中の花』
冬の風は、骨の奥まで冷たかった。
灰色の空の下、佐倉澪は炭鉱跡の小さな丘に立っていた。足元には、かつてこの町の心臓だった採掘場がぽっかりと口を開けている。
彼女の手は震えていた。寒さのせいではない。都会で働いた数年、澪は心を擦り切らせるように生きてきた。連日の長時間労働、パワハラ、家族からの無関心――気がつけば、まともに眠れず、食べることも忘れ、ただ生きていた。
そして、心が壊れた。診断は「うつ病」と「PTSD」。
もう都会では暮らせないと判断した主治医に促され、澪は幼い頃過ごしたこの町に帰ってきた。だが町の空気は冷たかった。
「失敗した人間が帰ってきた」
誰もそうは言わないが、誰の目もそう語っていた。
実家でも居場所はなかった。母は「早く働け」と吐き捨て、父は目を合わせようともしなかった。部屋に閉じこもり、澪は何度も自傷した。肌に刻まれる傷だけが、生きている証のようだった。
そして今日、彼女は決めた。ここで終わりにしよう。
だが、その瞬間。
「死ぬんなら、俺の分の飯残してってくんない?」
背後から声がした。驚いて振り返ると、そこには薄汚れたダウンジャケットを着た少年がいた。目は鋭く、だがどこか空っぽだった。
「……誰?」
「陽斗。ここに住んでる。ってか、隠れてる。家、逃げてきたから」
陽斗――17歳。彼はこの町で虐待を受け、学校にも行かず、廃墟で寝泊まりしていた。食べ物は捨てられた弁当、暖は新聞紙。誰にも頼らず、誰にも期待せず、生きていた。
それから、二人は奇妙な共生を始めた。言葉は少なかったが、必要最低限のものを分け合い、寒さをしのぎ、たまに笑った。
ある日、廃墟の片隅に、小さな黄色い花が咲いているのを見つけた。冬の最中、誰にも気づかれず、誰にも見られず、それでも咲いていた。
「どうせ枯れるのに、なんで咲くんだろうな」陽斗がつぶやいた。
澪は答えられなかった。でも、心のどこかに小さな光が差した気がした。
その夜、澪は提案した。
「空き家を、直さない?」
「は?」
「居場所を作りたい。私たちみたいな人の、逃げてもいい場所」
最初は笑われた。陽斗も呆れていた。だが澪の目に宿った光に、彼も次第に動かされた。二人は町の外れにあるボロボロの空き家に目をつけた。
電気も水道も通っていない。窓は割れ、床は抜け、ゴミだらけ。それでも澪は「ここから始めたい」と言った。
少しずつ修繕が始まった。床に板を張り、割れたガラスを新聞で塞ぎ、近くの川で洗った椅子を並べた。澪は町の図書館に頼んで、不要になった本を分けてもらい、壁に手作りの本棚をつけた。
ある日、一人の少女が訪ねてきた。吹雪の中、震える体で立っていた。
「家にいられなくて……泊めてもらえませんか?」
それが、最初の来訪者だった。彼女はリストカットの痕を隠すように長袖を着ていた。澪は静かに手を引き、暖かい紅茶を差し出した。
その日から、少しずつ人が来るようになった。
親の期待に押し潰されそうな高校生、出産うつに悩む母親、退職後、生きがいを失った老人。
彼らは名乗らず、話さず、ただそこにいた。澪と陽斗は、ただ一緒に座った。話しかけず、急かさず、そこに「いること」を許した。
ある日、陽斗が言った。
「なあ、ここ、名前つけようぜ」
澪は考えた。あの花を思い出した。
「“灰の中の花”ってどうかな」
陽斗は笑った。「……ダサいけど、悪くない」
新聞に小さく載ったその日から、町の空気が少し変わった。
冷ややかな目もあった。だが、静かに応援する人も現れた。
地域のパン屋が、売れ残りのパンを提供してくれた。 古道具屋が、使わなくなったストーブを持ってきた。
澪は、少しずつ、腕の傷を見せることに抵抗がなくなっていった。誰かの話を聞くたび、自分の痛みも肯定されていく気がした。
そして春。
庭に、黄色い花が咲いた。あの日見た雑草の花だった。澪はそれを見て泣いた。初めて、何のために生きているのか分かった気がした。
「ここにいてもいいって、思える場所がある。それだけで、生きていける」
陽斗は隣で頷いた。
「俺も、もうちょい生きてみようと思う」
町は大きくは変わらない。偏見も、冷たさも残っている。 でも、「灰の中の花」は確かに咲いていた。
その日、澪は外の黒板にチョークでこう書いた。
今日も生きた。えらい。
そして、それを見た誰かが、そっと横に文字を足した。
また来るね。
灰の中に咲いた、小さな希望は、確かに息づいていた。
END