日本の戦国時代もそうであったが、戦国の世はまさに下克上。
行き過ぎた実力主義によって、下が上を喰らうことが正当化される時代だ。
中国の戦国時代も、当然ながら下克上が蔓延った。
一番顕著なのは、すでに紹介したように晋の有力な六家が権勢をほしいままにし、最終的にはそのうちの三家が晋を分割してしまった。
この晋が趙・韓・魏の三国へと分裂したときを、戦国時代の始まりとする歴史かも多い。
そしてもうひとつ、戦国の七雄のひとつである斉でも、主君の座を奪ったものがいた。
それが田家である。
田氏によって奪われる以前の斉を太公望の姓から姜斉(きょうせい)と呼び、以降を田斉(でんせい)と呼ぶ。
田氏はもともと陳という小国の王族のひとりで、紀元前672年に斉へと亡命してきた。
もともと重く用いられていたが、斉の景公の時の当主である田乞(でんきつ。この頃、陳氏から田氏へと変える)は、自領民を施す際には大型のマスを用い、課税する時には小型のマスで取り立てることで領民の負担を軽減し、民からの支持を集めた。
この頃から田氏は政敵を失脚させ、いつの間にやら斉公室の権勢すらも上回るようになっていた。
やがて紀元前386年に、田和のときに斉を滅ぼし、斉の君主となる。
この辺りの話は、『田成子の簒奪』(沢周一郎・著)という小説によく書けている。
この小説では、田和自身は気弱で、簒奪にも乗り気ではなく、気の強い甥が暴走気味に物事を進めていってしまう。
時代の奔流に飲み込まれている様がよく描けている。
紀元前379年には、姜氏の家系は断絶するため、このあとの斉は田氏一族によって牛耳られることになる。
よって、戦国四君子のひとり、鶏鳴狗盗で有名な孟嘗君も田氏一族なので、名を田文(でんぶん)という。
田斉は第3代の威王のときにさらに精強となり、斉に隣接する燕や、秦と斉に挟まれている趙・韓・魏は国力を削がれていった。
ちなみに楽毅によって奪われた城を奪回した田単(でんたん)も、斉の田氏の一族の遠縁にあたる。
時代は、秦・斉・楚のみつどもえとなっていき、戦国の世はさらに激しさを増していくこととなる。
次回は戦国四君子を取り上げる。

行き過ぎた実力主義によって、下が上を喰らうことが正当化される時代だ。
中国の戦国時代も、当然ながら下克上が蔓延った。
一番顕著なのは、すでに紹介したように晋の有力な六家が権勢をほしいままにし、最終的にはそのうちの三家が晋を分割してしまった。
この晋が趙・韓・魏の三国へと分裂したときを、戦国時代の始まりとする歴史かも多い。
そしてもうひとつ、戦国の七雄のひとつである斉でも、主君の座を奪ったものがいた。
それが田家である。
田氏によって奪われる以前の斉を太公望の姓から姜斉(きょうせい)と呼び、以降を田斉(でんせい)と呼ぶ。
田氏はもともと陳という小国の王族のひとりで、紀元前672年に斉へと亡命してきた。
もともと重く用いられていたが、斉の景公の時の当主である田乞(でんきつ。この頃、陳氏から田氏へと変える)は、自領民を施す際には大型のマスを用い、課税する時には小型のマスで取り立てることで領民の負担を軽減し、民からの支持を集めた。
この頃から田氏は政敵を失脚させ、いつの間にやら斉公室の権勢すらも上回るようになっていた。
やがて紀元前386年に、田和のときに斉を滅ぼし、斉の君主となる。
この辺りの話は、『田成子の簒奪』(沢周一郎・著)という小説によく書けている。
この小説では、田和自身は気弱で、簒奪にも乗り気ではなく、気の強い甥が暴走気味に物事を進めていってしまう。
時代の奔流に飲み込まれている様がよく描けている。
紀元前379年には、姜氏の家系は断絶するため、このあとの斉は田氏一族によって牛耳られることになる。
よって、戦国四君子のひとり、鶏鳴狗盗で有名な孟嘗君も田氏一族なので、名を田文(でんぶん)という。
田斉は第3代の威王のときにさらに精強となり、斉に隣接する燕や、秦と斉に挟まれている趙・韓・魏は国力を削がれていった。
ちなみに楽毅によって奪われた城を奪回した田単(でんたん)も、斉の田氏の一族の遠縁にあたる。
時代は、秦・斉・楚のみつどもえとなっていき、戦国の世はさらに激しさを増していくこととなる。
次回は戦国四君子を取り上げる。
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