コミュニケーションスキルとは何なのか?  ということについて考察してみたい。何故なら情報社会で上手く、楽しく生きていくにはこのすきるは必要不可欠であり、仙人にでもなるか、無人島で暮らすかでもしない限りコミュニケーション無しでは生きれないからである。  

さて、まずはコミュニケーションについてかんがえてみたい。この言葉を説明することは意外と難しいのではないだろうか。なぜなら、この言葉はもはや日常語であり、意味を深く考えるまでもなく使用可能だからだ。    日本語では、意思疎通という訳が多いらしい。   意思疎通の手段はおおまかに書く、話すという手段があるだろう。ただここで注意したいのは意思を疎通させるには相手の聞く、読むという行動が同時に伴ってくるということだ。   よほどの変わり者でない限り意思疎通の目的は相手に理解してもらうことにある。つまり、コミュニケーションは意思疎通という主観的なものであるはずなのにじつは、受信ありきである。ということは、話す、書

く側は主観に客観を盛り込むこむことが要求されるはずだ。これが、俗に言うコミュニケーションスキルなのではと思う。自分の世界観を相手の世界に落として初めて意思疎通が成り立つ。 

発する側は常に内容を相手の言語に変換する義務が生じるのである。



参考図書  20代から身につくドラッがー思考法  藤屋 伸二

最後に一言   発信側は相手のばかの壁を意識することが求められる。

私が私として存在していいという理由はどこに求めることができるだろうか。

はたして、{わたし}とは、国家のものなのか、家族のものなのか、恋人のものなのか、はたまた宇宙の塵もくずか。  これは一度思慮すべき問題ではなかろうか。なぜなら、現代人なら殆どの人が突き当たって然るべき問題だからだ。   私の考えでは、わたしの存在条件は人のつながりの間にあって自分のなかにはないと思う。  つまり、わたしがわたしである為には人のなかに自分を位置づける必要があると思う。    これまた難しい命題が抽出された。    なぜなら、生き方が一つでない以上つながりをもとめる方法も一つではないからだ。     ただ、嬉しいことにネットの普及によって、薄いつながりを持つことは容易になった。  これにより救われるような人も多いだろう。ちなみにかくいう私もその一人だ。  いいたいことが沢山あり、それらを大勢に知ってもらうためにはネットはかかせない。

薄いつながりだろうが生きて声をあげたもんがちだと思う。  小さな一歩でも、たとえそれが後退になろうとチャレンジしないよりましというものだ。    何度失敗しようがそのたびに大きくなって帰ってくればいいとおもうのである。今の時代をすごすこつはだるまにあると思う。

だるまと独立の精神で一人一人が国をうごかさなくてはいけない。これは義務であり、日本というめぐまれた民主主義国家にうまれた定めである。  全は一  一は全  この言葉の意味がますます重くなる時代がきてしまった。

参考図書  鋼の錬金術師

最後に   数学の概念を用いて思考すると哲学的でおもしろい 経験則

われ思うゆえにわれあり これは哲学者デカルトの名文句である。ご存知のかたも多かろう。

これは、思うが私の存在するための十分条件であるといえる。ちなみに、十分条件とは前提条件ともいえるであろう。    さてこの抽出された命題の真偽を問いたい。

「私が」「思うに」唯脳論で述べられているように、脳あるいは脳の投射物ばかりに囲まれてしまった今、必ずしも十分条件」とは言えないのではと思う。なぜなら、多様化した資本主義体系により、何も考えず何もせずただ生きるという人生を選択しうるからだ。そうそれは人間失格にでてくるような廃人である。いやしかし、仙人もいるにはいるが。  それぞれ脳の世界がその人の世界である。すべては個々人の問題に収斂していく。そんななかどう生きるのが「われああり」なのだろうか。それは常に自分の

解を求めるか、流れにみをまかせ人に流され、情報に振り回され、何も考えずに生きるかのどちらかだろう。前者のたくましく生きる道を選ぶ人は解なしの事象にも耐える力が必要不可欠だ。世の中正しいことばかりではないのが道理だからだ。ただもしだめになりそうになったらJUST BE YOURSELFと唱えて欲しい。これは「われ」を失うなということである。   どんな生き方を選んでも「こころ」だけは失ってはならない。こころを失うときは情報の渦に飲み込まれてしまうときだろう。「こころ」をもって情報に自分なりの配色をほどこしながら生きていってほしい。緩急「自在」のアメーバのような生き方ができれば苦労は少ないだろうに。。。  われありゆえにわれ思うの順番を間違えないことが求められる時代な気がする。