長く、ブログを書いてなかった理由は少なくとも自発的なものではない。


デカルトの我思う→我ありを間違えていると思う人はどのくらいいるのだろう。


反対者の存在ではなく、その反対者にたいしてあれこれ思う、そういった我、これのほうが通じるだろう「実存として」我思う故我ありは間違えてると思うひとは。


スピノザは、我思うというリアルを柱にして、デカルトがなぜそこでわざわざ、我ありと結びつけたのかを問い詰めた。


「我思う」だけで充分ではないか。その「我」を問うのが近代哲学から始まる諸学問だ。


「我あり」は徹底的に疑われ、だれも本気では我ありと思えないのに便宜上我と言う顔をしているから、その間で胃を悪くする。「我あり」がなぜ日常から駆逐されないのだろう。


ところで、スピノザは「我」の多分重要な要素である自発性をまず否定した。0からの創造は人間には不可能。同じく0から想像することすら人間には不可能だ。従って我に先んずる何かが、我の想像、それに続く考えを生み出している。


なのに、0からの想像、自発という存在しないものを重んじるように言うのが我々の世界だ。で、本当に言いたいのはうまく受信する能力くらいのことだろう。


第一発信者が誰であろうと、すでにバトンは渡され、自発性が混ざり合った不純なバトンは、それを読み取るよう促している。


その読み取りが成功しているかどうかは実のところだれも基準を持たないのだが、とにかくバトンが渡されることが重要と言うか、必然なのだ。スピノザはそのように言っている。


だから、ゲームなのである。スピノザも一応ゲームの存在は認めるだろう。一応ルールを決めて、それにしたがう、あるいはそれを読み取り、そのルールを保持できないもの、は我を失ったものとされた。


スピノザは我を失っていると思われただろう。それに対して、失われるような我のことを我と言ってるのか?と言い返した。


ゲームであることを忘れることで、我を忘れたものを恐れることになる。我=ゲーム、入れ替え可能な基準であるのに、ついつい本気になってしまう時に本当は、スピノザ的な我を失っている。


フーコーに近づいてきた。スピノザ側から掘り進もう。