【シオンの議定書】#01

□権利は力の中に横たわっている □自由・・単なる思想 □リベラリズム □金 □信仰 □自治 □資本の独裁□内部の敵 □群集 □アナーキー □政治対道徳 □強者の権利 □ユダヤ/メーソンの無敵の権威□結果は手段を正当化する□群集は盲人である□政治のABC□政党の不和 □独裁支配の最も理想的な形態 □アルコール □因習陋習 □腐敗 □ユダヤ/メーソン政府の原理と原則□テロル □「自由・平等・友愛」 □王朝支配の原則 □ゴイム(非ユダヤ人)貴族の特権の壊滅 □新貴族 □心理学的計算 □「自由」の抽象性  □人民代表交替の効果 

 

……美辞麗句はさておいて、ひとつひとつの思想の意味を語ろうと思う。

我々を取り囲む諸々の事実に比較と推論の光をあて様と思う。

ここに私が提案したいのは、2つの視点、我々自身の視点とゴイム(即ち非ユダヤ人)の視点から見た我々の体系である。
 
悪い本能をもった人間の数は、善い人間の数を遥かに凌ぐ。

私は指摘しなければならない。彼等を統治するには、学者ふぜいの論議によってではなく、暴力とテロリズムによって達成する事が、最良の方法である、と。

どんな人間も権力を目指し、誰も彼もができる事なら独裁者になりたがる。

わが身の利益を手中にする事を抑えて、万人の利益の為に我が身を犠牲にしようという者は、滅多に居るものではない。

人間という名の猛獣を抑えてきたのは何であったか。


今まで彼等を牽引してきたものは何であったか。


社会の仕組みが始まった頃には、彼等は残忍で盲目的な力に服した。

後には、法律に服した。


法律も同じく力であり、仮面をつけた暴力に過ぎない。


私は、自然法則に従って権利は力の中に横たわっていと結論する。
 
政治的自由は単なる思想であって些かも事実ではない。
が、政権をもっている党派を粉砕すべく、この思想を餌として人民大衆を自陣に引きつける必要があれば、その撒き方や使い方を知っていなければならない。

その際、相手方が自由思想、所謂リベラリズムに感染していれば、そして、思想の為になら喜んで全力を投げ打つ積りが有るならば、仕事は更に遣り易くなる。

この場合には、我々の所説が勝利する事は目に見えている。
支配の手綱が緩められると直ちに、新しい手に手綱なが執られるのは、自然法則の赴く処である。

国家は盲目な力であっ て一日たりとも指導者なしには済まされず、新しい権力者は単に既にリベラリズムによって弱められた前任者の地位に座るだけだからである。 

我々の時代には、リベラルであった支配者の位置にとって代るのは金力である。 

かつては信仰が支配した時代があった。
自由思想は誰ひとりとして程よい使い方を知らない。
故に、実現不可能である。

人民を無秩序な群集に一変させるには、彼等に一定期間自治を与えるだけで十分である。

与えた瞬間から、共食い闘争が勃発し階級間戦争に発展し、その真っただ中で国家は焔に包まれて炎上し、彼等の権威は一山の灰燼に帰するであろう。 

国家が内乱によって消耗するか、内部不一致の為に外敵の手中に落ちるかでは・・

どの道、その国は回復できず滅亡する他ない。
その時こそ、我等の出番である。
 

完全に我々の手中にある資本の専制力が、その国に救いの藁を差しのべると、否応なく彼等はそれに縋りつかなければならない。

拒めば・・底に沈むのである。
 
リベラルな考えを持って居る人が、上述の様な考えを不道徳であると言うならば、私は次の問いを投げ返したい・・

どの国も両面の敵をもっているとする。


外敵にはあらゆる策略を用い、例えば敵には攻撃防御計画を伏せておき、夜間奇襲あるいは圧倒的優勢な戦力で撃破しても不道徳ではないとされるならば、更に悪質な敵、社会と福利の破壊者に対して同じ方法を用いる事が、いかなる理由で不道徳かつ許し難いと呼ばれなければならないのか? 

愚にもつかぬものではあっても反対とか批判とかは有り得るし、上辺の事にしか理性の力が働かない人民は、反対という事を喜ぶものである。

かかる場合に、健全で論理的な精神が、道理の通った助言や議論の助けを借りて巧く大衆を導く希望を持てるのだろうか? 

専ら浅はかな情熱、詰まらない信念、習慣、伝統、感傷的な理論だけに囚われている間違いだらけの人々は党派根性にとらわれる。

そうなると、完全に理の通った議論を基にしたどんな合意をも妨げる。

群衆の解決というのはどれも偶然の結果か、表向きの多数決によるものであり、政治の裏を知らずに管理の中にアナーキー(無政府・無秩序の状態)の種子を蒔くという奇妙な解決を出航させる。

政治は、道徳とは全く関係がない。


道徳で統治する支配者は練達の政治家ではないから、彼の王座は動揺する。


支配したいと思う者は・・我々が所有する新聞に感謝する・・気付かれぬ様に欺瞞と偽善との双方を用いなければならない。

率直とか正直とかの様な、偉大な国民資質と称されるものは、政治にとっては悪徳である。 

それらは支配者を王座から転がり落とすのに効果あるもの、最も強力な敵よりも確実な破壊力をもつものなのである。

その様な資質は、ゴイムの王国の属性でなければならないが、我々は決して彼等の轍を踏んではならない。
 
我々の権利は力の中に横たわる。

『権利』なる言葉は抽象的な思考であって、なんら具体性はない。
その言葉は次の事を意味するに過ぎない・・わが欲するものを我に与えよ。

我が汝らよりも強き事を証せんが為に。
 
権利はどこから始まるか?どこで権利は終るか? 

権威の仕組が薄弱で法律が空疎であり、リベラリズムの乱用により権利を乱発支配者達が脆弱となった国家ならどんな国でも、私は新たなる権利を行使できる・・
 
強者の権利によって打撃を与え、既存の秩序と法規の一切を粉砕し、全ての機構を再構築し、リベラリズムの中で放棄されて我々に残された彼等の権威ある権利を継ぐ王者となる。
 
全ての形態の権力が動揺している現在、我々の権力は、他のいかなる権力にもまして目に見えないであろう。

如何なる狡猾な者も覆せない強さに到達する瞬間まで、我々の権力は表面には現われないからである。

我々が目下用いざるを得ない一時的な悪から、確固たる支配という善が顕現する。

この善は、自由思想によって形無しにされた国民生活の仕組を平常の状態に修復するだろう。

結果は手段を正当化する。

しかしながら、我々の計画においては、必要と有効な事以上には、善とか道徳とかには拘らない事に留意し様ではないか。
 
我々の前には戦略的に敷かれた計画がある。数世紀にわたる我々の辛苦の労働が無に帰する危険を顧みるならば、この路線から逸脱する事は許されない。 

満足すべき行動を練りあげる為には、群集の狡猾さ、だらしなさ、情緒不安定、彼等の理解力の欠如を考慮に入れ、彼等自身の生活状況、あるいは彼等自身の福利を顧慮する必要がある。

群集の力は、盲目的であり、愚かしく、何かからの暗示にかけられるがままに動き、道理をわきまえないという事を理解しなければならない。

盲人が盲人を導けば奈落に落ちこむのは必然である。群集の何人かが天才的な賢者であったとしても成上がり者であり、政治を理解する事はできず、指導者として前を進めば全国民を滅亡の淵に落とし込むのは必然である。 

幼児時代から特別の方式によって訓練された者だけが、政治の基本を成り立たせているABCを理解する事ができるのである。 

人民が人民に任せれば、即ち人民の中から出た成上り者に任せれば、権力と名誉を追うあまり党派間の軋轢とそこから生ずる無秩序状態に自滅するのが関の山である。

人民群集が穏やかに、詰まらぬ嫉妬を交えた非難を言いたてずに、個々人の関心をごちゃ混ぜにしている国の諸問題を処理する事が可能だろうか?外敵に対して自分自身を守る事が可能だろうか?それは考えられない。

群集の頭数と同じだけバラバラになった計画が、一切の同質性を失って理解を絶し、実行不能となるからである。 

全体を適切に国家の幾つかの部分に割り当てるといった風に、大規模かつ明確な諸計画を念入りに練れるのは独裁支配者だけである。

この事から、どんな国でも申し分ない統治形態は、一人の責任ある人間の手に全機能を集中したものであるという明白な結論が得られる。

絶対的な独裁なしには、その人が誰であろうとも、群集によってではなく彼等を指導する事によって遂行される文明の存在はありえない。 

群集は野蛮人であり、尽くの機会にその野蛮さを発揮する。
群集は自由を手にしたとたんにいち早くアナーキーに転ずる。
アナーキーそれ自体は野蛮の最高の段階である。 

飲酒で馬鹿になりアルコール漬けになった動物どもを見よ。
自由が彼等に節度なき飲酒の権利をもたらしたのである。
それは我々や我々一族の歩む道ではない。

ゴイム々はアルコール飲料に酔いしれ、彼等の若者達は因習陋習とごく若いうちから性的堕落痴呆状態となって成長する。

その性的堕落は、我々の特別な代理人・・富豪の邸宅の家庭教師、下男、女性家庭教師によって、書記その他によって、しばしばゴイムの娯楽場にいる我等の女性達によって手程きされた。

彼等代理人の最後に、私は、頽廃と奢侈に他の者達を引き込む尖兵である、所謂「社交界の貴婦人達」も入れて置く。 

我々の合い言葉は・・力と偽善である。

特に力が、政治家に本質的に必要な才能の中に隠されているならば、力のみが政治的諸問題を克服する。


暴力は原則でなければならず、新権力の代理人の足もとに王冠を置こうとしない政府に対しては欺瞞と偽善が鉄則でなければならない。

この悪は終局である善に達するための手段に過ぎない。


それ故に、我々は、目的達成の為に役立つときは、贈収賄、詐欺、裏切りをためらってはならない。

政治の上では、支配権を握って屈伏させるためならば、躊躇なく他人の財産を奪い取る方法を知っていなければならない。 

平和的な征服の道を進んでいる我々の国家は、盲目的な服従を強いる為に恐怖を維持する必要から、目につかないけれども効果のある死刑宣告をもって戦争の恐怖にとって代える権利をもっている。

仮借ない厳しさだけが、国家の強さを見せつける最大の力である。

単に利益を得るためのみならず我々の義務としても、また、勝利の為にも、我々は暴力と偽善による計画を保持し続けなければならない。 

報復主義は使われる手段と同じく、有無を言わさず強力である。


それは手段そのものであるというよりも、我々が勝利し、全ての政府を我等の超政府に跪かせる厳格な教義なのである。

我々は容赦なく不服従というものを根絶する事を、十二分に思い知らせる。 

遥か以前の時代に遡れば、我々は人民群集の中にあって「自由・平等・友愛」という言葉を叫んだ最初の人間であった。

以来、幾度となく愚かなオウム達が四方八方から、この餌に群がり集まり、世界の福利と、以前は群集の圧力に対してよく保護されていた個々人の真の自由を、この餌をもって破砕し去った。

ゴイムの内の賢者になりたがり屋共、知識人達は、元々中味の無い、これらの言葉から何も作り出す事ができなかった。

これらの言葉が意味するものと相互関係とを否定する事には考え及びもしなかった。

どこをどう見ても平等はなく、自由等有得ず、自然そのものは、その掟に従わせる様に作られているのと全く同じく、気質、性格、能力が不平等に作られている事を見なかった。

群集が盲目である事、支配を頼む為にその中から選挙された成り上がり者は、政治に関しては群集と全く同じく盲人である事、政治の奥義を授けられたる者は多少愚かであっても統治ができるが、反面、大天才であったとしても奥義を授けられない者は政治に関しては無知蒙昧である事を、決して考え様とはしなかった

 

・・これらの事を、ゴイムは一切顧みなかった。

しかも一貫して王朝支配が保たれたのは、これらの奥義に依ってきたからである。

王室以外の者や統治される者には誰にも知らされない政治統治の奥義は、父から子へ一子相伝で伝えられたのである。

時代が過ぎ、政治の要諦を一子相伝する意義が失われた。
これこそ、我々の主義を成功に導く絶好の機会であった。
 
地球の到る所で、我等の盲目の代理人達のお陰で「自由・平等・友愛」 という言葉が、我等の旗を熱狂的にかざす大群を、我々の隊列に引き入れてくれた。

これらの言葉はまた常に、ゴイムの福利に穴をあけ、到る所で平和、安寧、 協同に終止符を打ち、ゴイムの国家の基礎を破壊する生きたエダシャクトリ[果樹の害虫]であった。

後に述べる様に、この事が我々の勝利を助けた。

 

取分け、我々が切札を手中にする可能性をもたらした・・特権の破壊、言い換えればゴイムの貴族支配の存在そのものの破壊である。

唯一、人民と国とを守るこの階級は、我々に敵対したのである。

ゴイムの血統的な、系図上の貴族階級を滅亡させた所に、我々は、金力の貴族が主導する、我等の教育を受けた階級を貴族として樹立した。

我々はこの貴族政治の特徴を、我々自身のものである富と、我等が学識ある長老達が備蓄した知識とによって確立した。 

我々の勝利をいっそう容易ならしめた事実がある。

好ましい人物達との関係を保つ事によって、我々は常に人間の心の琴線に触れ、金銭欲に、貪欲に、人間のあく事をを知らない物質的欲望に働きかけた。

言うまでもなく、これら人間の弱点の一つ一つには、独創性を麻痺させる効果がある。

 

この弱点の故に、彼等の行為に金を出してくれる人間に、自分の意志の最終決定をゆだねるのである。 

自由という言葉の抽象性の故に、我々は全ての国の群集に、彼等の政府は国の所有者である人民の為の豚小屋の番人に過ぎないのだ、番人は破れた手袋の様に取り替えていいものなのだと説きつける事ができた。 

人民の代表は取り替えられるものなのだ、という事は、我々が自由に利用できるという事であり、言うなれば、任命権を我々に預けた事になるのである。