森が深くなると、風は歌い始める。
その風の中には、一千年以上前のある王のため息が混じっている。
翩翩黄鳥(へんぺんこうちょう)
ひらひらと舞う黄鶯よ、
左雄相依(さゆうそうい)
つがいで寄り添い、仲睦まじい。
念我之独(ねんがしどく)
寂しいことよ、この身の孤独は。
誰其与帰(すいきよき)
誰と共に帰れるのか?
この歌こそ、高句麗の第二代王・琉璃王が詠んだ**「黄鳥歌(こうちょうか)」**である。
最愛の人を失い、独り森を彷徨う彼の目に映ったのは、仲睦まじく飛ぶ黄鶯の姿だった。
その瞬間、彼の胸は何かに締め付けられるように空っぽになった。
彼は王でありながら、愛に見放された孤独な男だった。
この歌が生まれたのは、紀元前17年。
しかし、この歌を口ずさむ人は、今もどこかにいる。
黄鳥歌と演歌、時代を超えた歌
私たちはよく**「演歌は古くさい」**と言う。
しかし、その“古さ”こそが、千年変わらぬ人の感情なのかもしれない。
黄鳥歌と演歌の共通点:
- シンプルな旋律なのに、心の奥まで響く。
- ストレートな歌詞なのに、底知れぬ哀愁がある。
- 一度聴けば、記憶が遠い昔へと引き戻される。
時代が変わっても、人が歌を歌う理由は変わらない。
別れを歌い、想いを馳せること、それは人類が持つ最も根源的な儀式なのだ。
演歌を聴きながら、琉璃王を思う
深夜、イヤホンから流れるのは、
切ない歌詞と、どこか哀愁漂う旋律。
その瞬間、私はふと琉璃王を思い浮かべる。
彼が黄鶯を見上げながら呟いたであろう言葉。
「去りし愛よ、私はどうすればいいのか」
この言葉、どこかで聞いたことがある気がする。
そう、かつて私も、同じ言葉を心の中で呟いたことがある。
そして、あなたもきっと、人生のどこかで同じことを考えたことがあるだろう。
古典は流行であり、流行は古典である
黄鳥歌は千年を超えて歌い継がれてきた。
演歌もまた、単なる流行歌ではない。
それが人を泣かせた瞬間、
それはすでに時代を超えた「古典」となる。
その歌が流れるたびに、
それはもはや王の歌でも、歌手のものでもない。
それは、私たちの歌となる。
だから、今夜も私は歌を聴く。
黄鳥歌も、演歌も。
翩翩黄鳥(へんぺんこうちょう)、念我之独(ねんがしどく)、さらば。