赤膚焼
赤膚焼は奈良県奈良市、大和郡山市に窯場が点在する陶器である。
草創は判然としないが、桃山時代に大和郡山城主であった豊臣秀長が、五条村赤膚山に開窯したと伝えられる。
江戸時代後期には藩主、柳沢保光の保護を受け、幕末には名工、奥田木白が仁清写しなどの技術を披露し、世に広めた。小堀政一(遠州)が好んだ遠州七窯の一つにも数えられている。
赤膚焼は名の如く、器肌に赤みを帯びている。名の由来はその器肌という説と地元の地名から来たという二説がある。その赤みを帯びた器に乳白色の萩釉を掛け、奈良絵と呼ばれる絵付けを施した物がよく知られる。奈良絵とは御伽草子などを題材とした庶民的な絵柄で、微妙な稚拙な構図が器肌の素朴さを巧く引き出している。
奥田木白が中興の祖
大和地方には中世までにはすでに寺社の祭器用の土器を焼く窯があったとされ、
それが赤膚焼のルーツと考えられている。天正13年(1585年)に郡山城に入った豊臣秀長が常滑から陶工を招き、新たに窯を開き、製陶させた。正保年間(1644~48年)には、京都から野々村仁清が奈良に立ち寄り、茶器や皿などの製法を伝え、小堀遠州が「遠州七窯」のひとつに数えたともいわれる。
江戸時代の享保年間(1716~36年)に、郡山藩主・柳沢保光(号・堯山(ぎょうざん))が御用窯を開き、製陶を奨励した。天保年間(1830~44年)に登場した奥田木白は、赤膚焼の中興の祖とされる。楽焼をはじめ、瀬戸、備前など各地のやきものを写すことができたという。白釉に奈良絵を施した木白の「赤膚焼」が世に出てその名が広まった。
奈良絵
赤膚焼の特色として奈良絵を挙げることができる。しかし、奈良絵がいつごろから赤膚焼の特色となったのかは定かではない。構図も単純で明るい彩色の素朴な画風は、奥田木白(江戸末期の陶工、赤膚焼の中興の祖)による「過去現在因果経」(釈迦の前世の生涯から現世に生まれて苦行を経て覚りをひらき、その後多くの人々を得度させたことを説いている。)にみられ、大和絵の伝統を引くものである。
これは奈良時代にその図案があるが、灰釉釉が長石と融合して柔らかい感じの赤膚の器体に巧みな筆觸でかかれた奈良絵は、奈良の豊かな気分を充分にただよわせた、掬めども盡きぬ、雅趣の漾うものである。
更にもうひとつの絵付の基とされるのが室町時代の末期頃から江戸時代にかけて作られた、横本形式の絵草紙「奈良絵本」に描かれた、おとぎ草子や伊勢物語等の古典を出典としているとも言われている。即ち、古都奈良の風景、五重塔や春日野の鹿や、鳥居あるいは三笠山等素朴な絵付を赤絵や金、銀の絵の具で描く奈良絵は赤膚焼に最もふさわしい特色あるテーマであり、他の窯にはない絵付である。
◆奈良絵本
奈良絵本とは、挿絵入りで書写された御伽草子である。
御伽草子とは、室町時代から江戸時代前期に流行した短編の物語集である。現在のところ、約400編の作品が現存している。作者はほとんど不明である。それらの中には、「浦島太郎」や「一寸法師」等、今日まで読み継がれている作品もある。これらの作品名や御伽草子というジャンル名からすると、今で言うおとぎ話や童話にあたるものと考えてしまうかもしれないが、そのような話ばかりではなく、多種多様な内容が記されている。
◆過去現在因果経
絵因果経(えいんがきよう)は仏伝経典の代表的なものの1つである『過去現在因果経』の写本の一種で、巻子本の下段に経文を書写し、上段に経文の内容を説明した絵画を描いたもので、日本において平安時代以降盛行する絵巻物の源流とされている。
『過去現在因果経』は、釈迦の前世における善行から現世で悟りを開くまでの伝記を説いた経典であり、これに絵を描き加えて、釈迦の生涯を分かりやすく伝える手段として作成されたのが絵因果経である。絵因果経の遺品には奈良時代制作のものと、同様の形式で鎌倉時代に制作されたものとがある。前者を「古因果経」といい、遺品の少ない奈良時代絵画の研究上、重要な資料とされている。巻子本の下段に経文を書写し、上段にそれを絵解きした絵画を描く形式は中国にその源流があり、敦煌出土品などに類似の例がある。
絵因果経は、絵巻物の源流とも言われるが、絵因果経の画風はきわめて古風で素朴なもので、平安時代以降に盛んに制作された絵巻物と直接の影響関係があるかどうかについては疑問もある。
奈良時代の作例としては東京芸術大学本(国宝)、京都・上品蓮台寺本(国宝)、京都・醍醐寺本(国宝)、東京・出光美術館本(重文)などがある。『過去現在因果経』は全4巻の経典であり、絵因果経の場合は、各巻を「上・下」に分けた計8巻となっている。ただし、前述の諸本はいずれも1巻のみの残巻である。また、前述の諸本はそれぞれ画風が微妙に異なっており、別々のセットから1巻だけが残ったものと思われる。
赤膚焼釜元大塩昭山