小説はあまりたくさん読まない。
以前からエッセイやノンフィクションを読むことが多かったが、年を取ってますますフィクションからは遠ざかってしまった。
本を選ぶときの参考にさせてもらっている萩原魚雷さんの本にも同じようなことが書いてあったので、年を取ってくると割と皆がそうなるようだ。
ひどい言い方だけど、この先もはや読める本の数も限られてきているから、誰かの頭の中の寓話を読むのに時間を費やすよりも現実のことをもっと知っておきたいという心境というか、事実は小説より奇なりでリアルの方がよっぽど驚きに満ちているということを年を取ってわかってきてしまったせいか。身もふたもないが。
それでも時々読むフィクションは何だろう・・と読書履歴をたどってみると・・
だいたい「古典」か「短編集」か「ディストピア小説」だった。
昔からカズオイシグロが結構好きなのだが、彼も近年はディストピア小説といってもいいような内容の本が多いし。
ということで最近読んだ小説も、ディストピア小説のひとつ『献灯使』だった。
これは翻訳家の鴻巣友季子さんの『文学は予言する』という書評集(評論集?エッセイ?)で絶賛されていたので、気になって手に取ったのだ。(この本もすごく面白い)
表題作のほかに短編4つが入っており、どれも原発の大事故が起きた後の荒廃した日本を舞台にしている。
「献灯使」は扱っている内容が内容なので、物語全般に暗い影が覆ってはいるが、読んでいて暗い気持ちにならないのは、随所にちりばめられているちょっと人をくったような言葉遊びや食べ物や着る物に対する丁寧な描写のせいだろうか。
(物語の世界では日本は鎖国していて外来語の使用を禁止されている。そのため、これまで使っていたカタカナ外来語を無理やり日本語に置き換えているのだが、その辺のシニカルな面白さは実際に読んでみてほしい)
状況が暗く深刻なときほど、食べ物や着る物などの暮らしのディテールに意識を向けることでなんとなく目の前の状況をやり過ごしていく・・というのは実際よくあることのような気がする。「この世界の片隅に」にもそういう側面はあったと思う。
私にもちょっと似たような経験がある。
父が病気になったとき、母や姉とともに毎日のように病院に通ったときのこと。
病状は重く、先行きは暗かった。
母たちと病室を出ると、父への後ろめたさを隠しながら
何食べていく?と言い合って、お気に入りの中華屋や蕎麦屋でご飯を食べて帰った。
なんかもうほかのことは考えられなかった。
今でもあのつらい時期を思い出そうとすると細かいことは記憶喪失かと思うほど覚えていないのに、よく買って帰った有名店のモンブランケーキ、父の仮退院のお祝いをした中華料理店、父が食べたがっていたマグロの刺身。
食べ物のことばかり覚えている。
話がそれたが、献灯使はそうやって荒廃した世界の中でもひ孫の無名のために生活を整えてたんたんと過ごしている小説家の老人、義郎のまわりの薄暗くもほの明るい世界の日常を描いている。ディストピアといいつつ、どこか細部がリアルで(いかにも今の政府がやりそう政策だからか)、本当に東日本大震災での原発事故がもっと大きかったらこんなことになっていたかもしれないと思いながら読んだ。
しかし本当にありそうだ、と思ったのは収録されているなかで最も短い短編の『彼岸』である。
原発事故の放射能で全国土が汚染され日本人が難民となった世界。
そこで、いわゆるネトウヨのような発言を繰り返していた元参議院議員が、自分が差別発言をしていた国へ移民として入国しようとする場面を描いている。
これ本当に現実化してもおかしくない。
いま在日外国人を差別している人たちは、自分たちが逆の立場で難民になってどこか外国で暮らさなければならない未来のことなど1ミリも考えていないだろうけど、ぜんぜんあり得るだろう。
いや、たいていの日本人が、こんな地震大国であちこちに原発があっていつ大事故が起きてもおかしくない、ほとんど薄氷を踏むような現状であることをまったく考えていない。
私たちは日々、新しくできたラーメン屋やスパイスカレーのレシピや節約飯のことばかり考えながら、ディストピアそのままの世界を生きているのだ。