尚人さんの部屋に寝泊まりして、数日が経った。結局私は、この人と暮らすことになった。

 私の姿を唯一見ることができる、彼と。


 土曜日で尚人さんの仕事が休みなので、私たちは買い物に出かけた。本格的に一緒に暮らすとなると足りないものがあるから、と尚人さんが無理やり連れ出したのだ。

 尚人さんは周りに人がいるときでも構わず私に話しかける。

 私は透明人間に話しかけると周りの人に変な目で見られますよ、と言ったのだけれど、まったく気にしなかった。

 私が透明人間であることをまだ信じていないのかもしれない。

 

 ある服屋に入る。私の服を選びながら、尚人さんは笑う。

 気づいてみると、尚人さんはよく笑っている。すぐ側に鏡があって、私の姿が映っている。無表情だ。

 

 決して楽しくないわけじゃない。笑い方が、よく解らない。

 

 笑い方だけじゃない。怒りも悲しみも、感情そのものを忘れてしまった。

 

 今までは誰にも姿が見えなかったのだからそれでもよかったけれど、今は尚人さんと一緒にいる。

 私がこんな顔をしていても、この人は一緒にいてくれるのだろうか。

 

 それとも、また前と同じように、ひとりになってしまうのだろうか。


 「どうした?」


 ぼーっと鏡を見ていた私に尚人さんが声をかける。私はあわててなんでもない、と言った。

 そして尚人さんはまた笑う。私の手を引いていく。

 少なくとも今はひとりじゃない。そう思った。


 両手に買い物袋を提げるようになるころには、もう日が傾いて、私たちは家路を歩いていた。

 

 私は尚人さんを見失わないように後ろをついていき、尚人さんはそんな私を時々振り返って確かめていた。

 

 そんなことしなくてもいいのに、と私は恥ずかしくなって視線をそらした。

 

 すると、尚人さんがいきなり立ち止まったので、私は彼にぶつかってしまった。顔をあげると、尚人さんは知らない男の人と話をしていた。

 

 歳は尚人さんと同じくらい。身長は男の人のほうが少し高くて、茶髪で黒い服を着ていた。

 

 かなり親しく話していたので、尚人さんの友達なのかもしれない。何を話しているかは、周りの人の声にさえぎられてよく解らなかった。

 

 ふと、男の人と目が合う。私は透明人間なのだから、私の姿は見えないはずなのに、私が見えるとしか思えない視線だった。

 

 私はすぐに視線をそらし、尚人さんの後ろに隠れた。人に見られるのは慣れていなくて、少し怖かった。


 「お待たせ」


 尚人さんの声が聞こえて顔をあげると、男の人はいなかった。話は終わったらしい。

 

 尚人さんが歩き出し、私はまたその後ろをついて行った。あの男の人に姿を見られるのは怖かったけれど、尚人さんといるのは怖くない。

 

 どうしてなのだろう。今はまだ、理由は解らない。


教会には召しと責任、っていって役割が与えられるんですけどね、

わたしは図書委員に任命されました。

本好きなわたしにはぴったりの仕事。。。


頑張れたら…いいなぁ。

 電車で2駅。歩いて10分。尚人さんに連れられてきたのは彼が住んでいるマンションだった。

 2階建てで階段は外についている。尚人さんが階段を上る。私もそのあとをついていった。

 部屋は各階ごとに4部屋。尚人さんの部屋は扉をふたつ越えたところ、203号室だった。

 尚人さんは鍵を開け、扉を開いて「どうぞ」と言って私を先に入れた。ひとり暮らしだと聞いていたけれど、部屋は綺麗に片づけられていた。

 うちとは大違い、と私は思った。うちはお母さんの服や、食べたお弁当のからなんかが散乱しているから。私も、急に部屋が綺麗になったらお母さんが驚くだろう、と思ってそのままにしておいた。

 靴を脱いで中へ入る。後ろで尚人さんが電気のスイッチを入れる音がした。一瞬遅れて、薄暗い部屋が明るくなる。


 「どこでもいいよ、座って」

 尚人さんは言って、奥の部屋へ消えた。


 私はいつもの癖で、部屋の隅に座った。着替えをして出てきた尚人さんはその姿を見て笑った。


 「もっとこっちにおいで」


 お茶をテーブルの上に置いて座った尚人さんが言う。私は、尚人さんには自分の姿が見えるのだから踏まれることもないか、と思い近づいた。

 尚人さんがお茶をすすめる。私は湯気の立ったカップを持って一口飲んだ。

 とても不思議だった。

 姿が見える人とこうして向き合って、与えられたお茶を飲むなんて。

 今まで何かを与えてくれる人なんていなかった。全部自分で、盗むように飲んでいた。

 体の中を温かいものが流れていく。それは、お茶のせい?

 ピンポーンとチャイムが鳴った。尚人さんは立ち上がって、私に奥の部屋に行っているように言った。

 私は透明人間なのだから誰が来てもかまわないと思ったけれど、尚人さんは私の姿が見えるのだからどうも、私が透明人間だとまだ信じていないらしい。私は素直に、尚人さんに従った。

 訪ねてきたのは女の人だった。私はふすまを少し開いて様子を見ていた。

 女の人は尚人さんに触れようとするのだが、尚人さんはそれを拒んでいるように見えた。

 そして、15分くらい話していただろうか。ふたりは立ち上がった。

 尚人さんは玄関に向かい、歩いていく。女の人は一瞬こちらを見た。

 目が合う。

 けれど彼女は何も言わず去って行った。それを見て私は、やっぱり透明人間なんだなぁ、と思った。

 手の中にあったカップは、すっかり冷めていた。