キョーコがのろのろと蓮に借りたシャツのボタンをとめていると、コンコンと扉をノックされた。

「最上さん、入るよ?」

「あ、はい。」

「ちょうどいい頃合いだったかな。また抱っこして戻ろうね。」

「あ、ぇ、大丈夫ですっ。」

「ん、いいよ。無理しないで?広い家は体がしんどい時が大変だよね…。」

苦笑した蓮はわたわたとするキョーコを抱き上げると、寝室に戻る。

キョーコをベッドにおろすと、すぐにキョーコの横にするりと入り込んで、おでことおでこをくっつけた。

「体、ゆっくりと休ませようね。あ、ブレスレット外してあげるね?手首に跡が付いてる。(チャリ…)お休み。」

程無くして。ハードスケジュールをこなしていたうえに、時差ボケに陥っていた蓮は、ゆっくりと夢の中に旅立っていった。

キョーコは蓮の優しい拘束の中、何度も深呼吸を繰り返して、蓮の匂いを胸いっぱいに吸い込んだ。

(…はぁ。ほんとうにいい香り。)

先ほどの深い触れ合いが、蓮を感じる「最後」だと思っていたのに、嬉しい誤算でもう一度だけ蓮の体温に包まれることができた。一度固めていたはずの覚悟が鈍ってしまう。せっかく張り詰めていたのに気が緩んでしまって、どんどんと悲しくなってきたキョーコは、どうしても涙が止まらなくなってきた。蓮に背を向けて、なんとか音を立てないように息を整える。

だが、そんなキョーコの涙が一瞬で引っ込んだ。蓮が、背後からいきなりしがみついてきたから。


「キョーコちゃんっ、キョーコちゃんっ、キョーコ…ちゃんっっ!」

蓮は悲痛な声をあげている。

「やっぱりダメだよ!ダメだった…!全然足りないんだ。キョーコちゃんだけを愛してるんだ。キョーコちゃん…っっ!」

(つ、るがさん…震えてる…。そんな縋るように私を抱き締めて…。
ここにいるのは、私なのに。最上キョーコなのに…!!)

キョーコは、蓮がキョーコの中に己を埋め込んだ時に、「最上さん」ではなく「キョーコちゃん」と呼び方を変えたが、キョーコを抱えて風呂場へ運んでくれる頃には、「最上さん」呼びに戻っていることに気付いていた。

(まさか、そこにそんな意図があったなんて。「キョーコちゃん」さんの身代わりだったなんて。)

蓮は、少し乱れた呼吸をしているが、震えは止まってきた。また深い眠りに戻るのだろうか。

キョーコは蓮にしがみつかれて苦しいだけではない、息苦しさを感じていた。

(でも、でもほんとうのほんとうは…わかってた。私、わかってた。私だけじゃない。皆、みーんな、ただの身代わりだ。
「キョーコちゃん」さんを手に入れるまでのただの身代わり。
だから、あんなに大切そうに私を扱ってくれたんだ。労りの言葉をくれたんだ。
でも…でも。身代わりの仕事も今夜で解雇。
三ヶ月か〰ちょうどだったなあ。泉さんとやら、あなたすごいわ。すごい情報通。)

キョーコは心の中で、グラドル泉へ賛辞を贈る。

三ヶ月前の泉の発言、蓮からのお付きあいのお誘い。それらを思い返していると、頭の中に不思議な声が響いてきて、キョーコに話しかけてくる。

《敦賀サンたら。同じ名前だから、声に出したら少しは自分が慰められると思っていたのね。でも結局は、がっかりして萎えちゃったとか?クスクス、ほんとあんた笑える。最初で最後でいいから愛してもらえればとか、もっとマシな体になってから妄想しなさいよ。「お肌をこの日のために磨いてまいりましたーっ」って、あれ、ウケ狙いだよね?爆笑狙ったの?敦賀サン、無表情で固まってたよ。きっとめんどくせーとか思われたんだよ。ハジメテのお子様なんてベッドに誘うんじゃなかったな〰たりーな、しかも、磨いてきたのは肌だけ!?でも言っちゃったし、通例だしサクッと終わらすかって。だからかな、アレ、早かったよね?女子会でお姉様方からきく話によると、明らかに敦賀さんが入ってた時間は短かかったよ?男の人って、好きじゃなくてもいっぱいできるんだよね?なのに、ぷくくっ、すぐに終わらせられちゃうって、あんた、どんだけ〰》

その声を受けて、キョーコも切り返した。

《そうかぁ、じゃあこれから何人か経験を積んで私も技術が上がったら、今度はまともに相手にしてもらえるかな。だって、キョーコはキョーコだし。本当に名前は同じよ?敦賀さんが目をつぶったら、少しは身代わりになるかもよ?》

《さあ、どうかな〰っ。あんたの場合、やっぱりそっちの相手としてだけの需要じゃ押しが弱いよね。他にも敦賀サンにメリットがないと…。でもサ、ごはんだって、この前は作らなくていいよ、外で食べようってサ!あ〰傑作!敦賀サンは、美味しい料亭とかレストランとかに仕事の付き合いで行くんだから、あんたの料理なんて三ヶ月も食べ続けたら飽きちゃって、もう二度とゴメンなんじゃない?唯一の取り柄だったのにそれも必要とされないなんて、ほんと可哀想な子!時々掃除しようかなって見たらハウスキーパーさんが完璧な仕事してたしね〰。プロにはかなわないよね〰。
それに、極めつけ!あんた気付いてたんでしょ?敦賀サン、お風呂の前くらいから、ほとんど笑ってないよね。ただの後輩の頃は神々スマイルさえ見せてくれてたのにね~。この関係に我慢も限界だったんじゃないの〰!?
でも、よかったね?もうこんな無理やりな生活は終わりだよ。ああ、よかった、よかった。あはははははははは……》

その笑い声がグルグル回るなか、キョーコはいつしか眠りに堕ちていた。




朝早く、浅い眠りから覚めたキョーコは、いまだに蓮に抱き締めてられていることに驚いた。本当に「キョーコちゃん」さんのことが好きなんだなあと、もう感心するしかない。そういう感想を抱くことしかキョーコには許されていないのだ。「そんな女の人は忘れて私を見て。」だなんて本音は、おそれ多くて死んでも口にできない。

寂しくなった左手首を見つめる。ブレスレットはついに蓮に外されてしまった。さすがにワンピースや靴は目立つし、かなり高額過ぎて気後れもする。だから大事にしまっておこうと思っていた。でもブレスレットは、近づかなければタインティーのそれとはわからないし、とてもとても可愛いくてお気に入りだったから、せめてもの思い出に、できたらこれからも使わせてほしいな、なんて浅ましい思いも蓮にお見通しだったのかもしれない。蓮がここで外したということは、このままこの部屋のゴミ箱に捨てていけということだろうか。でも、他所様のゴミ箱に貰い物とはいえ私物を捨てることに抵抗があって、自宅に持ち帰って捨てることにした。



キョーコがキッチンで朝ごはんを作っていると、廊下を走ってくる足音がして、蓮が寝起きのまま、息をきらしてキッチンに飛び込んできた。

「最上さん、いた〰。はぁ〰、帰っちゃったんじゃないかと。」

テトテトと音を立てて、背後に立った蓮は、キョーコが菜箸を置いたのを見計らったかのように、後ろからぎゅうと抱きついた。

「俺の腕の中からいなくならないで?ずっと…ずっとここにいて。」

(まるで本当にそう思っているみたい。私がキッチンにいて心底ホッとしたみたいな表情。思わず大丈夫ですよ、私はずっとどこにも行きません。あなたのそばから離れません。て言いそうになった。本当に言ったら、きっと、ストーカー認定される。だから、敦賀さんの目が、「どこにも行かない、ここにいるって最上さんはちゃんと言葉で言ってくれないの?」って言ってるけど、ニコっと笑うだけにしておく。

ああ!もう、やめて、やめてやめて!!演技がうますぎるのよ。なんて目してるんですか。不安でたまらないってそんな訴えないで。なんで俺の家にまだいるの?与えた三ヶ月は終わってるんだけどって思ってるくせに。敦賀さんの表情からはそんなこと欠片も読み取れない。まるで、本当に私のことが好きで愛おしくてたまらないみたいな。
きっと、一晩を共にした女性への誠意の演技なのでしょうね。ええ、もちろん知ってますとも。あなた様は、自分の感情を隠して、偽りの感情を表現するテクは超一流ですもんね。
………今後の演技の参考にさせてもらおう。今日、この家を一度出たら、後輩として演技の指導を乞うことも許されないだろうから。)