蓮ver.

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加山綾子は、もうすぐ産休に入る予定の妊婦だ。若く見られるが、現在三十代半ばで、すでに10歳の息子がいる。目下の悩みはお腹の中の赤ちゃんの発育がかんばしくないこと。綾子自身のお腹も全然大きくならなくて、妊婦だと気付かれないこともしばしば。しかも妊娠八ヶ月に入ってからとても疲れやすくなってきた。

綾子は妊婦であるために、事務所の指示と自主規制で仕事をセーブしているが、もっと全力でやりたいという気持ちも強い。やっと、やっと蓮クラスのレベルのモデルとの仕事もコンスタントに入るようになったというのに。仕方ないとはいえ悔しかった。


蓮とは、花メーカーからの仕事で、癒しをテーマとしたシリーズを三ヶ月の期間で作成している。

撮影最終日の予定だった昨夜。綾子が撮影場所にこだわった結果、使用時間が限られてしまっていた。そこに蓮のドラマの共演者のNG連発が加わり、残念なことに撮影自体がほぼ不可能な時間帯に突入してしまった。撮影場所の使用許可、蓮のスケジュール、撮影クルー達のスケジュールの全てを加味すると、撮影を後日に回すことも現実的ではなかった。作品の納品日まで余裕もない。


綾子が焦って撮影場所の代用を検討していると、その必死さにほだされた蓮が、自らのプライベート空間である自宅を撮影場所にしてはどうかと申し出た。もちろん綾子はかなり躊躇したが、タワーマンションからの夜景や広い浴室は、今回の作品のイメージには欠かせない条件だった。綾子は蓮の厚意に深く感謝して、蓮の自宅に乗り込んだ。


本日の仕事を最後に数ヵ月間はプロのモデルを撮れなくなる…そう思うと、自然と綾子は必要以上にこだわってしまった。自己満足の領域だったかもしれない。だがさらに、仕事に妥協を許さない蓮も、一緒になって夢中になってしまったのだ。そしてその結果、体調を崩した。マズいと気付いた時には夕食を蓮のマンションのトイレでリバースし、服は汚すし、とても機材を担いで帰るような体調ではなくなってしまった。


蓮は蓮で、キョーコが将来妊娠出産で仕事をセーブすることになったら、どう彼女のキャリアを守ろうかとか、妊婦特有の症状にどう対応してらよいのかと、綾子を通して考えていた。


聞くところによると綾子の夫は、星空を撮影するべく上の子を連れ立って山へ出かけているらしい。そんな綾子には、こんな夜半に迎えにきてくれる者は誰もいない。ましてや重たい機材もあった。撮影の終盤は、夜景や小物の撮り直しだったため、時間も時間なので他の撮影クルー達は既に撤収済だった。


綾子は一人で帰ると言ったが、蓮は今にも倒れそうな綾子を一人で帰すのはしのびなかった。広い広い我が家だ。ゲストルームだってある。綾子は妊婦なのだし、きっとあとで夫に浮気を疑われることもないだろう。蓮は、恐縮する綾子に自らのシャツを貸してまでみせた。


綾子がゆっくり休んで回復してくれたら…。明日の朝、キョーコが来たら、ほんの少し匂わせてみよう。蓮が妊婦を気遣えることを。『敦賀さんて優しい、敦賀さんのお嫁さんになる人は幸せですね〰』な〰んて、キョーコの専売特許の妄想が浮かんでしまい、蓮は慌ててその考えを打ち消した。




蓮は、翌朝訪ねてきたキョーコと玄関で手のひらを軽く合わせながら、指を擦り付けて、つかの間の接触を楽しんだ。図らずも素の自分が出てきてあくびも止まらないが、眠たいせいか無性にキョーコに甘えたくてたまらない。久々にキョーコに会えたし、美味しい朝食にもありつける。蓮はじんわりと幸せに浸っていた


ところが、キョーコは台所へ入った途端様子がおかしくなり、その後は取りつく島もなく蓮の部屋を飛び出してしまった。

蓮は、出ていったキョーコのことが心配で、こっそりとあとをつけた。本当は無理矢理にでも担いで部屋へ連れ戻ろうかと思っていた。だがキョーコが自分で自転車を解錠して、押しながらでも進んでいたため、諦めて帰宅したのだ。


浮かない顔で一人きりで部屋に戻ってきた蓮に、
「あの後輩の女の子、『癒し担当』とか『7番目』とか、すごく小さな声で呟いてたわ。心当たりある?」
と綾子は思案げに声をかけた。

「あ、いえ。…全く。」
蓮は力なく答える。

「そう…。ま、きっと、若年層の女の子にある、自律神経の失調症状かもね。歩けてたんならお家まで帰れるんじゃない?」

そこまでつとめて明るく言った綾子は、ふっと軽く息を吐くと、
「きっと彼女は大丈夫よ。
…でも、ね。多分だけど…。ごめんなさいね。きっと私が迂闊だったせいもあるかもしれないわ。」
と言って眉根を下げた。


「…?」

まさか、と思った蓮は、携帯のメールを確認して、あ!と声を上げた。

未送信ボックスに残る一通のメール。「妊娠中で体調不良のカメラマンに一晩宿を貸す」という旨のものだ。寝落ちしてしまってキョーコに送れていなかったらしい。

(まさか、最上さんは綾子さんと俺が昨夜関係したと思ってあんなに動揺を!?…あ、いやいや。それは彼女が俺に恋愛感情を持っている場合だ。最上さんは俺にはそういう感情は抱いてないんだし…。今更綾子さんのことを弁明するようなことをしても、最上さんからしたら『それが何か!?』って感じだろうしな…。)

蓮はとりあえず、無難なメールをキョーコに送ったが落ち着かなかった。そして段々と我慢ならなくなってくる。昼過ぎになり、綾子とは何でもないのだとキョーコにメールを送ろうとしたところで、キョーコから待望のメールが届いた。


「今朝は本当に申し訳ありませんでした。
実は大変疲労が蓄積していまして、体調がすぐれないのを自覚していながら無理をしていました。
敦賀さんには余計な心配をかけまいと必死でしたが、結局逆に心配をかけてしまい申し訳ありません。
もし、挽回のチャンスをいただけるのでしたら、直接謝らせていただきたく、メールを送信致しました。」


蓮は、形ばかりでも付き合っているというのに、相変わらず他人行儀なキョーコのメールに寂しさを覚えた。だが、とりあえずいつもの調子のメールが届いたのでホッとして、すぐさま返信メールを打ち込みはじめた。




3日後。キョーコは約束通り、夕食を作って蓮の帰りを待ってくれていた。

玄関に迎えにきたキョーコは、蓮が止める間もなく玄関の上がり口に高速で土下座をする。

平謝りするキョーコに、蓮は、心配したけれどもう元気ならばよいと、これからは無理をしないでちゃんと言ってほしいと労りの言葉をかけた。
そして、ずっと楽しみにしていた、ただいまのキスを頬に送った。途端に真っ赤になって視線を泳がせるキョーコ。その可愛らしい反応が嬉しくて、蓮は、綾子のことを弁明するのはまあいいか、という気分になってしまった。自宅で撮影をしたことはキョーコに伝えたのだし、玄関の撮影機材もキョーコは見たのだから、普通に考えて正しく理解してくれたのだろう、と蓮は楽観的に判断した。


食事もあと数口で終わりという頃、緊張した面持ちのキョーコが、ある話題を持ち出してきた。

「あ、あのっ!先日、小林愛弓さんに会いまして。」

「…あ、女子アナの…?」

「はい、右近さんの病院で。」

「…あ、そっか…。」

蓮は、カレンダーを見て、あれから何日たったかな、と考える。キョーコと付き合いはじめた日の翌日だったので、すぐにわかった。

「愛弓さんから敦賀さんへ言伝てを預かりまして。…ごめんなさいって。三ヶ月は無理でした、一ヶ月が限界でしたって。」

キョーコは空いたお皿を見つめながら言う。

「あ…。そうか…。うん、わかったよ。うん、いや、そうじゃないかなって思ってた。元から無理な相談だったんだろうな。了解しました、ありがとう。
ところで、彼女は元気そうだった?」

「は…い。なんだか、自分から終わらせて吹っ切れた…みたいな。」

「そっか、それならよかった。」

蓮は、愛弓が不倫関係を精算したと聞いて、純粋に嬉しかった。思わず笑顔で頷く。

蓮の表情をチラリとうかがったキョーコは、またもや視線を落とした。

「く、来るもの拒まずはわからないですけど、去るもの追わずなんですね…。少しは引き留めるようとするとか…。」

キョーコが傷ついたような、そして蓮を少し責めるような声音で言うのを、蓮は不思議に思った。

「…う…ん。そうか、な?」

(外からはそう見えるかもしれないけど、当人に聞いてみないと本当のところはなんともな…。右近さんの真意は誰にもわからないよな。)

「誰しも価値観が違うんだし…当事者がそれでいいなら、周りがどうこう言うことではないかもね…。まあ、一般的な倫理に反することは近しい者が忠告するべきかもしれないけれど…。」

「そ、そうですよね…。私がどうこう言うことじゃないですよね…。」

(あ、あれ?なんか最上さん、怒ってる…?っていうか、なんか変だな…。そういえば、さっきから全然目線が合わない。最上さんなら、この考えに同調してくれるかと思ったんだけどな。)

「あの、最上さん…」

「ご、ごちそうさまです!先に片付けはじめますね!」

食べ物を口の中にかきこんで、一方的に席を立ったキョーコの勢いに押され、蓮は何も言えなかった。そして、残った夕食を平らげることに専念した。


そのあと、改めて不倫について話してみようかと思っていた蓮だった。しかし台所に食器を下げにいくと、キョーコの機嫌が治っていた。まあ、他人の恋愛など蒸し返してキョーコの機嫌がまた悪くなってもよろしくないと、蓮はキョーコの異変の原因を知りたい気持ちを押さえこんだ。

結局、二人は本当に話したいことを何も話さないまま、その日を終えた。