シェアリング初日の翌朝、カバンの中身を整えている時に、キョーコは大事そうにハンカチにくるまれた蓮の家のカードキーを見つけた。
(あ、そうだった。敦賀さんちのカードキー。思わず預かっちゃったんだっけ。こんなに価値のある物を万が一盗まれたりしたら大変。ちゃんと管理しなきゃ。)
キョーコはそっとカードケースにしまった。
「おはようございます。」
LMEのタレント部にキョーコが顔を出すと、職員達がひっきりなしに鳴る電話の対応に追われていた。
「あ、最上君、すまん!ちょっと待って!…はい、もしも…。ですから、それは本日記者会見を行いますので。…はい、はい。失礼します。…ごめん、最上君お待たせ。って、また電話!…はい、もしも…はい、それはもちろん、必ず代役を……はいはい、ご迷惑お掛け致します。では失礼致します。」
椹が受話器を置くと、また外線が鳴り出した。
「あーっ!もう知らん!ったく、手広くやるんなら、教育もしとけっつーの!」
椹は鳴り続ける電話を無視したまま、キョーコに近づいてきた。
「あの、何かあったのですか?事務所自体がざわついていますね。」
「ん?ああ、最上君は今日はまだテレビ見てないのか。右近ジョー、タレントのな。ちょっと…な。」
椹は、ぐいとお茶を飲む
「はぁ〰。実は、右近さんの逢い引き用のマンションで、合鍵で入った愛人同士の人情沙汰があってな。それに本人も巻き込まれて、全治二ヶ月の重傷を負ったんだ。命に別状はないんだが。そのせいで、もうあっちからこっちから電話が絶えなくて。マスコミもだけど、問題は彼の仕事だよ。なんとか穴埋めしないと。ったく、彼が大変な状態にあるのはわかってるが、愚痴の一つも言わないとやってられんよ。」
椹はもう勘弁してくれとばかりに、イライラした様子を隠そうともしない。
右近ジョーは50台半ばのLMEの看板タレントで、司会者として番組を複数抱えている大物だ。仕事はデキるが、もともと女癖が悪く、妻帯者ながらも愛人が一人や二人ではないらしいと専らの噂だった。
キョーコも仕事ぶりは知っている。ウィットに富んだジョークを飛ばし、かつゲスト達のトークを脱線させることなく番組を進行していた。
魅力的な男性だな、モテるのは納得だわ、とキョーコも思ったものだ。あれでは当人が黙っていても、周りの女性が放っておかないだろう。
(右近さんも、男女のお付き合いにシェアリング制度を採用してるのよね。
そうかぁ。右近さん自身のケガもだけど、仕事に穴開けたりして、業界の信用を失っちゃって大変だなあ。シェアリングは、敦賀さんみたいにスマートにやらないとよね。
…愛人同士の鉢合わせかあ。
ゆうべカードキーを渡された時は、純粋に畏れおおかったし、ごはんを作るのに便利だなって嬉しかった。でもよく考えたら、私だって他の彼女さんと鉢合わせとか、敦賀さんが他の彼女さんとラブラブしているところに遭遇とかあり得るのよね。
…うん。合鍵を使うときは敦賀さんに事前の確認をしないと。敦賀さんの彼女さん達がいくら品行方正で人情沙汰にはならないとしても、やっぱり気まずいし…。)
蓮のマンションで、「他の彼女」と鉢合わせになるなどということ自体あり得ないことなのだが、そうとは知らないキョーコは気を引き締めた。
キョーコの本日の仕事は夕方には上がれる予定だ。右近のトラブルのために仕事が山のように増えて泣きそうな椹を助けようと、ラブミー部としてお手伝いをすることにした。
最近話題の複合型駅近高層ビルの13階で、書類を抱えたキョーコはエレベーターを降りた。その階には、有名レストランが3店舗と、ゆったりと入っているだけなので、エレベーターホールは静かで人影もまばらだ。
キョーコは、待ち構えていた担当者に書類を渡して帰ろうとした。しかし、大きなガラス張りの窓から見える夜景に惹かれて(せっかくだし、ちょっとだけ)と窓側に寄ることにした。
夜景を眺めようとしたが、照明は抑えてあるものの、それでもガラスに映る夜景には内側の景色がうつりこんでしまっている。
キョーコは、かなり立派な成りの背の高い観葉植物をみとめて、その陰に入った。観葉植物がロビーの光を遮って、夜景がよく見えるのではないかと思ったのだ。
(…すごい夜景。まるで敦賀さんみたい…だな。キラキラキラキラ。本当に輝いて奇跡みたい。)
キョーコは、演技界で宝石のように輝く蓮の姿を思い描く。
鞄から携帯電話を取り出して、昼過ぎに蓮から届いたメールを開く。
「こんにちは。お弁当美味しくいただきました。午後も元気にお仕事ができそうです。
今週の土曜日の夜は、最上さんは予定ありますか?もし空いてるなら、最上さんのごはんが食べたいな。」
メールに見入っていたキョーコの耳に、男女の会話が入ってきた。京都に本店を構える老舗料亭の支店から出てきた二人だ。
「ごちそうさまでした。すごく美味しかったです。お料理もお酒も。
…それに…本当にありがとう。」
その女性の声はとても落ち着いていて耳障りが良い。キョーコには聞き覚えがあった。でも、知り合いの声ではないような気がした。その声の持ち主を思い出す前に、もっと聞き覚えのある声がキョーコの耳に届く。
「いえ、こちらこそ。お付き合いいただいてありがとうございます。」
キョーコは、観葉植物の陰に入っていてよかったと心底思った。
もうひとつの声は、大好きな「蓮の声」だったから。
「いえ、そんな。私の方が恐縮です。それに、こんなに素敵な贈り物までいただいちゃって。男性の方に全身コーディネートしていただいたのははじめてです。」
「とてもよくお似合いですよ。気に入っていただけたのなら、僕も嬉しいです。きっと愛弓さんに似合うだろうなと思っていましたから。」
「ふふ、お上手。」
「いえ、本当のことです。それに、このふわもこスリッパ。クス。可愛いですし。」
「やだ、それ。本当にお恥ずかしいです。でも、使っていただけるなら、ぜひ。ふふ。」
「で、…あの。これからのこと、考えてもらえませんか。」
エレベーターが来た瞬間、蓮が声を抑えた。キョーコは近くにいたから聞こえたが、明らかに、周囲には聞こえないボリュームだった。
「ええ。…でも、三ヶ月というのは……。」
二人の声は、エレベーターの箱の中に消えていった。
(今の、女子アナの小林愛弓だった。敦賀さん、『僕』って…。年上の女の人と話してたから…?
社さんはいなかったな…。二人きり…なんだ。『三ヶ月』って、聞き間違いじゃないよね?
そっか…そっかぁ。)
キョーコの目は夜景を映していたが、もう心は弾まなかった。
(私が敦賀さんを独占するなんて世間が絶対に許さないし、それ以前に敦賀さんが許さないだろうけど。そもそもあんなすごい人の独占の仕方なんてわからない。
でも、1番目から7番目までの、7人の立派な彼女さん達とのシェアなら、なんとかなると思ったし。そう、むしろ、シェアリングは、私には喜ばしいことのはずなのよ!?
だって…私には、小林愛弓さんみたいに、敦賀さんに全身コーディネードされてあんなに綺麗になって、あんなに敷居の高いお店で一緒にお酒を嗜むなんて、到底不可能だもの。
っあ〰!でも!まともに敦賀さんが口説いてるところに遭遇するのは、やっぱり想像以上に堪えたなあ。
小林さん、三ヶ月間って制約のある関係に渋ってた。楽しそうな声が急に翳ったもん。ま、そりゃそうよね。『もっとこの関係を続けたい』って思うのが普通の感覚よね…。
小林愛弓さん。28歳。東大卒の知的派でクールビューティ。たしか、かなり早い段階で報道番組もバンバン任されてたっけ。……3番目の…彼女さん候補かな。
…そういえば、他の彼女さん達は誰なんだろう。
…って!!だから私、ここで沈んでいかないのがお約束っ!!もうそれは受け入れたの!乗り越えたの!!)
キョーコはブンブンと頭を激しく振ると、大股で最寄り駅からの帰路を歩いた。
「泉ってば、またその話題?」
声をひそめてはいるものの、明らかに驚いているその声は、思いの外その場に響いた。
これまた本日も、キョーコは椹のお手伝いをしていた。右近が司会をつとめているバラエティ番組の収録の現場に来ているのだ。そこでなんと、またしてもグラドル泉が仲間とおしゃべりをしている現場に居合わせた。
「まあまあ聞いてよ。実は、ゆうべ見ちゃったのよ〰!小林愛弓、ね、女子アナの。二人でいたの。しかもあのコーデ、敦賀蓮の見立てだと思うのよ。アルマンディと提携してる、タインティーの新作ワンピースだったもん!私の好みじゃないけど、いかにも王室ってイメージでノーブルだなって思ったから間違いないわ。
で!本題ね!あれは3番目の彼女のお仕事よ〰。んでんで、モデルの殿川エリカは6番目の彼女でしょ?」
「はあはあ。それで?」
聞き手のグラドルは先を促した。
「あ、ほら。例のシェアシステムだと、1、2番目以外は蓮とデキないって言ってたから。その補填よ。
3~8番目の6人は、三ヶ月して契約期間が終わる時に、ベッドに誘われて、1回だけしてもらうのよ。今までありがとうって。それで相性がダメならサヨナラ。まあよかったら、そのあとは蓮の気まぐれに、一晩の相手くらいには声をかけてもらえるっていうおいしい得点付き。」
(さ、さささ三ヶ月後にベッドにお誘いぃぃぃ!!?む、ムリムリムリ!つ、敦賀さんとアレやコレやするなんて!こんな残念な体で恥ずかし過ぎる。ないないないないないない!!)
キョーコは真っ青と真っ赤を繰り返しながら、静かに超パニクッていた。
だから、このあとの二人の会話を聞いていなかったのだ。
「…あのさ、泉。この前も言おうと思ったんだけど。敦賀蓮て、それこそ鬼スケジュールでしょ?彼女複数持ちとか…そんな時間どこにあんの?一人だけでも大変なんじゃない?」
「………ですよね〰?てへ。」
「も〰。いつもいつも、あんたの理想夢物語ってか、妄想癖も大概よね…。しかもそれをあたかも真実かのように、どんどん膨らませてくし。」
「んふ。まあね〰?」
「……そのうち名誉毀損で訴えられるわよ。」
「……てへ?」
「誤魔化してもダメ。」
二人の間ではそんな会話が続いていたが、何も知らないままのキョーコは、またしてもグラドル泉の妄想夢物語を信じこんだ。