あるじさま。
確かに五虎退は声に出してそう呼んだはずなのに。
五虎退の大切なひとは、ふりかえらない。
本丸の中庭は夏まっさかりで、緑の色が風に深みをのせていた。
審神者のぼんやりとした横顔の何かがひっかかり、五虎退は廊下に足をとめる。
「主様・・・?」
二度目の呼びかけは、疑問形をなす。
横顔の主は、観念したようにくすりと笑みを作ると、ようやく「おいで」と五虎退をふりむいた。
五虎退の顔に、笑みの花が咲いた。
「はいっ」
隣にちょこんと腰かけると、さらにくすくすと笑われる。
「そこじゃないよ。・・・ここに、おいでと言ったんだよ」
すこし両手を広げて、主が笑う。
嬉しくて嬉しくて嬉しくて、めずらしく五虎退が遠慮もせずにその膝に乗ると、うしろからふんわりと抱きしめられる。
主がときどきこうして甘やかしてくれるのに、最近やっと慣れたところだ。
何度か固辞しつづけたところ、ある日の縁側で、打刀の腕にすっぽりおさまっている主を見つけ、五虎退は仰天したことがあった。
ね、ほら、五虎退。
手本を示してあげたと言わんばかりのその顔に、五虎退もおずおずと微笑んだ。
そのとき座椅子にされていたのは、和泉守兼定だっただろうか。
はじめは恐縮し、とてもじゃないがそんな無礼は働けないと身を固くする五虎退を、なかば無理やり抱きかかえて膝にのせた審神者は、どっちが子供かわからない顔でけたけたと笑った。
でも、やさしく頭を撫でられたその手がたまらなく嬉しくて、ちょっとだけ、もうちょっとだけ、たまになら・・・と五虎退は言い訳をしながら主の腕におさまるのだ。
「主様、どこかお加減がわるいのですか?」
心配になって見上げると、穏やかな笑みが相変わらずそこにあり、そのことに五虎退は安心し、少し残念な気持ちになる。それが何故かは五虎退にも説明ができない。
そんな違和感を自分でさぐっているうち、神審者のひざにおさまる五虎退、のひざの上をあらそって、五頭の白い虎たちがよちよちと肉球をおしつけてきた。
「くすぐったい、くすぐったいよ」
あはは、と身をよじる五虎退に、頭上でふっと、笑う気配がした。
「五虎退は、いいね。いつでも、こうやってもふもふに囲まれて」
「えぇ?」
主にうらやましがられることが自分にあるなんて、恐縮と喜びが五虎退の胸の中でぐるぐると回る。
「五虎退は、いいね」
「うわぁ」
後ろから、ぎゅううと抱きすくめられ、さらに恐縮と喜びがまざる。
今度は喜びのほうが、各段に多い。
「あ、あ、あ、あの、主様」
「うん?」
「僕もいつか大きくなったら、その、今度は主様のお椅子になりますからね」
「・・・・・・。」
どことなく元気がなかったさきほどの横顔は、どんなに抱きしめられても五虎退の脳裏から消えない。
ずっとずっと、引っかかり続ける。
主がその詮索を望んでいなくても、こうして戯れでなかったことにしようとしていても。
五虎退のまっすぐなガラス玉のような瞳は、大切なものを見逃さず、そらさない。
抱きしめられているから、主の表情は見えない。
でも、五虎退は、間違えない。
主は今、何か、心が晴れていないのだ。
「あるじさま」
そっと、泣いている子供に呼びかけるような声で、呼んでみる。
抱きしめる腕が、ほんの少しゆるんだ。
「主様・・・?」
二度目の呼びかけは、ふたたび疑問形をなす。
ふう、と、わざとらしいくらいのため息をついた後、主はこともなげに笑った。
「本当に、何やってるんだろうね」
それは自嘲とよばれるもので、五虎退にはまだ理解が難しかった。
「もうすぐ、夏が終わるねぇ」
そう、季節というものは、絶対にうつろぐのだ。
「ねぇ、五虎」
審神者は、五虎退のことを、ときおりこう呼ぶ。
ごこ、と。
それが極限まで甘やかされているようで、五虎退は嬉しさに頬があつくなるのだ。
「ええと、ええと・・・」
「五虎はかわいいなぁ。虎たちもかわいいけれど、五虎はもっとかわいいよ」
「ええと、あの」
五虎退は何かをいわなければ、と、焦る気持ちに舌がもつれる。
「この子達も好きですけど、主様はもっと好きですよ」
「・・・・。」
だから、元気を出してください。五虎退の祈りは届いたのだろうか。
主が虚を突かれた表情ののち、ふんわりと笑顔になっていくのを見て、五虎退は理解する。
ああ、今日、いま、はじめて主様は本当に笑ったんだ、と。
穏やかな笑みも、いたずらっ子のような笑みも、全部作られたもので、今見たこの表情こそ、主様の本当の微笑み。
「うん、虎よりも五虎が好きだよ」
「僕も、ええと、お庭の柿の実よりも、主様が好きです」
おやおや、と審神者は笑う。
「でもきっと小夜は柿のほうを選ぶだろうなぁ」
「そんなことないです、きっと小夜さんも、主様が大好きですよ」
五虎退の熱弁は、審神者のほがらかな笑い声でかき消された。
「ああ、本当に」
かみしめるように、主がささやく。
「君たちはずっとこのままでいておくれ」
主の座椅子になれないことが残念だが、主がそのままでいいというなら、五虎退もそれでよかった。
もうすぐ、夏が終わろうとしている。
そのまま心地よさに寝入ってしまったこの主従をみつけ、にっかり青江がため息交じりに肩にかけていた着物を五虎退にだけかけた事が主の気に入らず、だって君は五虎退に温めてもらってるじゃないかがまんおしよ、と喧嘩するのを、五虎退が仲裁するまで、あと四半時。